遅咲きの桜は式典にさよならを
遅咲きの桜は式典にさよならを 〈い〉
季節は廻る。
厳しい冬の寒さを耐え抜いた植物たちは、雪解けと共に芽吹き、空からの暖かい日差しが土を照らし、アスファルトを照らし、動物や人間達を眩しく照らす。
この前まで厚い雲がずっと空を覆って、薄暗く寒く世界を曇らせていたのが嘘みたいに。
もはやモノトーンにさえ見えていた冬の世界は一変し、周りの木々には優しい薄桃色の花びらが枝先に萌え、柔らかな風を受けて嬉しそうに揺れていた。
そんな風情を浴びながら、骸井九は大きく息を吸って吐く――。
春。今、明確にそう感じたから今日から春、と陽気な空気に充てられた骸井から浮かぶ雑な独白。
骸井は生まれてきて初めて春を実感していた。
正確には、自分自身の生の実感がはっきりしたのが冬真っただ中で、その後ずっと周辺事情の把握や、過去と現在のすり合わせなどに時間を要したため、すぐ訪れたはずの春を感じる暇がなかったというのが正しかった。
骸井の封印解除から一年とちょっとが経過した今日。
骸井は綺麗に仕立て上げられた〝真新しい制服〟に腕を通して、澄んだ薄水色の空を眩しそうに仰ぎ見る。
今日は四月一日。
骸井九が北上川高校に二年生として編入学する日であり、北上川高校の入学式が執り行われ新たな一年生が入学する日である。
――――――………………
「なぁ、一応聞くが、入学式というものはあんなに長ったらしくてつまらないものなのか? まだ当事者だったら何か思うことがあるのかもしれないが、第三者から見るだけのあの儀式は心底つまらなくて時間の無駄じゃないか。二年生ということでしれっと編入するってことならば、わざわざ出張ってこんな苦行に耐える必要もないというのに……じゃあなんだ? これも必要な経験だって言いたいのか? 僕は当然そう思わないね。断固としてだ」
骸井は足を組み、目線を手に持って開いている文庫本に落としながら、淡々と愚痴を吐き出している。
「それもこの学校の通例だ。通過儀礼と言い換えても構わない」
白衣を着て細身で長身な男、
「じゃあ、今のこの愚痴も通例ってことじゃあないのか?」
「……うん、そうだね。〝良きテンプレート〟って感じがして俺はいいと思ったよ」
ごぽごぽごぽごぽ。
「神下、君は何にも分かっていない。長年眠っていたらしい僕がそう思うなら、この儀式の意味の無さがより濃くなって分かるだろう? 第一、人の門出を祝うというものは元来――」
「分かった! 分かった俺が悪かったから! ストップストップ!」
カチッ。
窓際にあるデスクの方から、少し気になるぐらいの音量でごぽごぽと音がし始めてしばらく、カチッと音が鳴ってそれは収まった。
「……お湯沸いたから紅茶淹れていいかい?」
「お好きにどうぞ」
神下は腰掛けていた事務椅子から立ち上がる。
古くなった事務椅子は、背もたれのあたりから悲鳴のような音でぎぃぎぃと軋み、今までここで使われていた時間を窺わせる。
そして、医薬品などが並んでいる棚に、何故か平然と置いてあるマグカップを一つ取り出し、紅茶パックの箱をジッと見ながら何にしようかとしばらく吟味した後に、ダージリンの葉が入ったティーパックをカップに入れた。
「ふんふん、ふんふーん」
神下は楽しそうに鼻歌を鳴らしながら、先程沸いたお湯を丁寧に注いでゆく。
すると、部屋の中はすぐにダージリンの香りが充満し、そこにすぐマグカップカバーで蓋をして蒸らしていく。
そして、蒸らし中のマグカップの熱くないところを指で支えながら席に戻って来るが、それでも熱いものは熱いのか、途中から焦った表情で俊敏に動いて、マグカップを放り投げるかの勢いで机の上に置いてすぐ、「あっっつぅぅ!」と叫んで自身の指を抑えて悶えた。
「……何をしている?」
「不思議なんだよね。なんか、ここだったらいけるだろうって思って、頑張って持っちゃうんだけど、その度に毎回こうなって……で、前回紅茶を淹れた時も同じ事したなぁっていう記憶が蘇ってくるんだよねー……これってあるあるなのかな?」
「人間って確か、学んでいくのが美徳じゃなかったか」
「……あぁ! 前回熱かった時の記憶が匂いと結びついているから、それで毎回思い出すのか! 言うもんね、人間は匂いと記憶が一番結び付ききやすいってね! そうか、そういうことだったんだ……」
骸井の呟いた嫌味など一ミリも耳に入っていないのか、神下は自問した疑問を自答出来た喜びに浸っている。
骸井は文庫本にしおりを挟んで机の上に置き、足を組んでから、さっき教室で配られたプリントをカバンから取り出した。
神下は紅茶を蒸らし終わるまでの持て余している間に、席を立ち、窓を開けて換気をする。
窓の外からは、春の薄紅色をした匂いが鼻先を微かにくすぐる。
不意に、骸井は口を開いた。
「そういえば、前回会ったのはいつ頃だったか」
「えーっと、いつだったかなぁ~、確かまだ蝉の声がしていたようなそんな時期だった気がするけど……そろそろかなぁ」
それを聞いて骸井は、「そろそろ? 何がだ」と聞き返しそうになったが、神下が蒸らしていたマグカップの蓋を取り、紅茶を慎重に口に含んだのを見て、(無駄に聞き返さなくてよかった)と静かに安堵する。
「ズズッ……うん、美味しい。んで、あの二人にはもう会ったのかい?」
「二人とは?」
「そりゃあ、新井姉妹だよ。新井リコちゃんと新井リタちゃん。二人についてそちらの誰かさんから聞かされてない?」
「いや、特には聞かされてないな」
「ありゃりゃ……そういやそれも俺の仕事だったか? ……まぁいいか。もうすぐここに来るだろうし、その時に挨拶するだろうし」
――ガラガラガラ。
神下が自分の仕事をまた一つ忘れていた間に、保健室の扉は突拍子もなく開くのだった。
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