第68話『どうしても君が手放さないとな。相当気に入られておったぞ』

「そしたら俺、図書室に行ってもいい?」


 俺がそう言うと、ハヤは呆れたようにため息をついてカップを置いた。

「せっかくツィエクさんがもてなしてくれてるというのに、お前というヤツは」

「だって二人とも大人の話ばっかしててつまんないんだもん」

 ツィエクはそれを聞いて豪快に笑った。

「この年ではまだ仕事に関わる政治的な話は難しいだろう。ああ、いいとも、行っておいで」

 ツィエクは手を挙げてメイドを促した。俺は「ありがとうございます」と言って立ち上がる。

「お前もついて行け。こいつが何か粗相すると困るからな」

 ハヤはソファから振り返って言った。壁際に控えていたキヨが目礼して俺に付いてくる。俺はちょっと膨れてハヤを見た。


「そんな子どもじゃないし」

「ああ、彼なんだな、噂の従者は」

 ツィエクがそう言うので、俺は振り返った。噂の?

「もしかして、女史が話しましたか」

 苦笑しながら応えるハヤに、ツィエクは面白そうに笑った。

「どうしても君が手放さないとな。相当気に入られておったぞ」

「彼女もカジノで見かけただけなんですよ、どうしてそこまでお気に召したのか」


 俺はキヨを振り返った。キヨは他人事のように涼しい顔で立っている。

 こんな時、どういう顔をすればいいのかわからないよな。自分が話題だけど口出せるわけじゃないし。


「あそこの執事は有能だがもういい年だからな。その若さで、執事然としている様はなかなか悪くない」

「ゆくゆくはそのつもりですが、うちにも執事はおりますし、彼はまだしばらく俺の専属ですよ」

 ハヤはにこやかにそう言ってカップに口を付けた。紳士おそば付き紳士ってヤツだな。

「まぁ、有能な者は若い内はその方がいいだろう。家に縛り付けてしまうと、欲が出て簡単に離れてしまう」

「専属はわかったから、もう行ってもいい?」

 俺がそう言うとツィエクは豪快に笑い、ハヤは片手を振って行けと示した。俺はメイドが開けて待っていた扉から廊下へ出る。


「まったく、話が長いんだから」

 呟く俺にキヨが小さく「坊ちゃま」と諫めた。

「社交って言うんだろう? わかってるよ。ねぇ、君はこの家に仕えて長いの?」

 俺が唐突に話しかけると、メイドの彼女はちょっとだけ微笑んでチラリとキヨを伺った。今の視線は何だ。

「私はこちらに仕えて二年になります、坊ちゃま」

 俺は「ふーん」と言いながら頭の後ろで手を組んだ。

「あの蔵書、読んだことある?」

「いえ、私たちには許されておりませんし、そのような学もありませんので。旦那様同様にコレクションを堪能される坊ちゃまは、聡明でいらっしゃいますね」

 彼女はにこやかにそう言って、また廊下の向こうを見た。


 キヨたちくらいの年齢かな……俺も本当は堪能できてないし、この人より全然ダメかもしれないのに。それなのにそんな振りをしてるだけでそんな風に言われて、ちょっとだけ胸が痛くなった。

「……そんなの、俺は勉強する機会を与えられただけだよ。君だってせっかく蔵書があるんだから、勉強させてもらえば俺なんかよりずっと聡明になれる」

 彼女は俺の言葉に少しだけ驚いた顔をして、それからふわっと微笑んだ。

「坊ちゃまはお優しいのですね。お心遣い、感謝いたします」


 きっと、金持ちの主が自身のコレクションを召使いなんかに読ませたりはしないだろう。俺だって、いつもの貧乏山村出身の見習い剣士だったら、こんな図書室に通されて価値ある蔵書を手に取ったりできたりしないんだ。ただ運が良かっただけ……

 思ったことを言っちゃったけど、お坊ちゃまの振りとして間違えてないかな。チラッとキヨを伺ったら、何だか柔らかい表情をしていた。怒ってはなさそう。


 メイドは俺たちを図書館に通すと一礼して帰って行った。キヨは扉が閉まると同時にぐるっと図書室を見回した。俺は何となく気にして扉の近くに立っていた。もしキヨの作業中にメイドが現れたら困るし。

 キヨはそこにいろって感じに俺を指差してから、奥の本棚の向こうへ消えた。やっぱりあの剣なのかな。


 キヨはそのまましばらく奥にいたから、俺はそわそわしながら扉と室内を見比べていた。キヨはそれから本棚を回って戻ってくると、おもむろに窓に近づいて鍵を開けた。

 上にスライドさせるタイプの窓を、ちょっとだけ重そうに押し上げて開ける。チラリと窓の外を伺って、腕を伸ばして壁伝いを確認した。


「どうするの」

「水差しを取ってこい」


 俺はサイドテーブルに用意してあった水差しを取ってきた。

 キヨは俺のものって事になってる小さな鞄の中から紙にくるまれた物を取り出した。それ、シマたちがおつかいしてきたやつだよね?

 包みを開くと、何だか乾燥した苔を丸めたような物が出てきた。なんだこれ。


 キヨは包み紙のまま手のひらの上に苔玉を置いて、何だか躊躇するみたいにため息をついた。どういうこと?

「ま、ここまで入ってきてる方が説得力はあるか……」

 そう呟いて窓際に近づくと、おもむろに水差しの水を苔玉にかけた。それからソッコーで窓の外に出して、壁のどこかに押し込んだ。何やってんの?!


「っつか、臭っ!!」


 なんだこれ、腐った沼みたいなヒドい臭い!

 俺は思いっきり鼻を押さえて顔をしかめた。キヨは苔玉をどこかに押し込んだあと、窓の外で包んでいた紙をさらっと魔法の炎で焼き尽くした。

 それから手を戻してちょっと集中する。


「……サヴィアリトゥマ」

 キヨが口の中で呪文を唱えると、苔玉を持っていたキヨの右手に何かきらきら魔法が降りかかる。あ、それ浄化の魔法!? ちょっとだけ右手の匂いを嗅いで、それから大丈夫そうに頷く。

「俺に臭いがついてたらバレるからな」

 それからキヨは窓を閉じる。いやでも、もう部屋の中にも臭いのが入って来ちゃった気がするんだけど。っていうか俺の鼻がバカになってるのかも。

「そしたらちょっと行ってくる」

 キヨはそう言って図書室を出て行こうとした。

「俺は?!」


 キヨはちょっとだけ肩をすくめて応える。どっちでもいいって意味かな。キヨはさっさと図書室を出て行ってしまった。


 ちょっと窓を開けようとしたらすごい臭いが入ってきて、これじゃ窓を開けられないからどういう事だって召使いが聞きに行く……んだろうけど、じゃあそのちょっと臭くなっちゃった図書室で一人優雅に本を読んでる方がお坊ちゃまっぽいのか、それとも理由を確かめに行くのがお坊ちゃまっぽいのか……


 臭いの元なんて、お坊ちゃまなら知りたくもないだろうな、でもやんちゃぼんぼんなら……俺は立ち上がって図書室を出た。

 どっちがとかじゃなくて、俺がどうなるのか知りたいんだから見に行っちゃった方がリアルだよな。俺は前にキヨが誰かと話していた廊下の先の狭い階段を下りた。


 階段を下りた先は、明らかに召使いたちの仕事場だった。壁紙もない漆喰の壁で、たぶん厨房の近くなんだろう、廊下にたまねぎやじゃがいもの入ったバスケットが並んでいる。誰かの話す声が聞こえたので、俺はそっちに歩いて行った。


「どうやら、そちらの樋のようで」

 俺が入り口からちょっと覗くと、キヨとメイドと下男が顔を見合わせていた。何だかここにも、あの臭いが漂ってる気がする。俺の鼻、ホントにバカになっちゃったのかも。

 勝手口と思しき扉の外に、目深に大きなキャスケットを被って顔の半分を布で隠したコウと、あの泥棒仲間がいた。薄汚れた作業着みたいな服装で、これもしかして業者か何かって感じなのかな。


「執事の方は」

「先程、旦那様に命じられて外へ出ています。私たちには決定権がありませんので、旦那様にお伺いするしか」

「では急いだ方がいいでしょう。かなりの臭気でしたから、直せる者がいるなら対応してもらった方が良いかと」


 キヨの言葉に、メイドは頷くと急いで出て行った。俺はもう一度部屋の中を伺った。

 あの時とは髪色も変えてるし格好もきちんとお坊ちゃまだけど、俺はなるべく泥棒仲間の前に出ない方が安全だよな。


「君も、仕事があるなら戻って大丈夫ですよ。彼らを通すにしても、部屋には坊ちゃまもおりますし、私が案内しますので」

 キヨがそう言うと、ちょっと丸っこい体の下男は頷くみたいな礼をして部屋を出て行った。


 キヨは下男を見送ると小さくため息をついて、明らかに態度が変わった気がした。気だるげに勝手口に寄りかかって、外の彼らに小さく頭で入るよう合図する。

「ありがとな」

 すれ違いざま、コウはキヨの腰を引き寄せて小さくそう言った。

 えっ、コウが!? なんか、あれからキャラ変してないか……吹っ切れたのかな。キヨは少し驚いた顔をして腕を外す。


「余計なものには触れるなよ。それと、」

 キヨは少し笑ってコウの肩に手を置いた。

「お返しはちゃんといただくから」

 今夜、と耳元に囁いて、キヨは体を離して振り返る。ん? ちょっとそれはどういう意味だ?


 すると廊下の向こうからメイドが戻ってくる足音がした。

 うーんと、この後キヨたちが図書室に戻るんだったら、俺はその場に居た方がいいのか居ない方がいいのか。

 俺は一瞬考えたけど、ダッシュで足音たてずに図書室に戻った。


 図書室に滑り込むと、まだうっすら異臭が漂ってる気がした。そりゃね、窓の外にアレがあるんだから、いくらでも入ってくるよな。

 とりあえず何か読んでないと不自然だから、本棚に近づいて背表紙を物色した。適当に抜き出して開く。


「失礼します、」

 ノックの音がして顔を上げると、キヨが扉を開けて立っていた。

「申し訳ありません坊ちゃま、あの異臭に関してこれからこの部屋の外壁を見るとのことで、業者の者が入るのですが」

「ああ、そうなんだ? もしかして、またあのにおいが入ってくるの?」

 俺は顔をしかめて言った。アレをもう一度嗅ぎたいとは思えない。

「窓を、開けますので」

 俺はぱたんと本を閉じると本棚に戻した。

「あのにおいが何度も部屋に入ってきたら、せっかくの本が台無しになってしまうよ。紙はにおいがつきやすいのに」


 俺が扉に近づくと、キヨは俺を外へ促すように腕を差し出した。あ、俺が目撃者になったらダメってことか。

 俺は部屋の外へ出た。俺と入れ違いに、顔を伏せたコウと泥棒仲間が中に入る。


「扉は開けておこう。少しでも風が通った方がいい」

「そう、ですね……では、他の窓も少し開けてきましょう」


 俺は扉の外から、キヨが部屋の奥へ移動するのを見守った。遠いところの窓じゃないと、におい入って来ちゃうもんな。

 コウと泥棒仲間は、何か道具を用意するように荷物を探っている。どうやってあの臭い玉を撤去するんだろ。視線を戻すとキヨはこちらに戻ってくるところで、コウとすれ違う時にちょっとだけ不自然に触れ合った気がした。


「坊ちゃま、こちらにいるとにおいがくるかもしれません」

 キヨは俺を扉から離れさせた。ここからだと室内は見えない。

「お前は? ここにいるの?」

「もちろんです、大事なコレクション室に彼らだけにはできません」


 それってキヨが疑われちゃうんじゃないのかな。

 でもキヨだけが仲間と思われてるだろうから、俺がうっかり部屋を覗けるうちはコウたちも盗みをしないんだ。きっとキヨには考えがあって置いてっちゃっても大丈夫なんだろうけど……


「どうした、作業はどうなってる」

 うわ、ツィエクが来た! それってヤバいんじゃ?!

 キヨはさりげなく姿勢を正して一礼した。ハヤも付いてきている。それってやっぱり大事なコレクション室だから心配になって来たのかな。ツィエクは扉を開けたままそこに立つキヨを確認して、小さく頷いた。


「今、作業に入るところでございます」

「そんなに酷い臭いなのか?」

 ハヤはちょっと面白そうに言うので、キヨはちょっと困ったような顔をした。

「すっごい臭いんだよ! 俺が扉を開けておこうって言ったんだ。あんなにおいが本についたら大変だもの」

「作業の間、下へ来てお茶でも飲んでいればいいものを」

「でも……コレクションに何かあると困るから、彼らを見張るって言うし」

 俺は頭でキヨを示すと、声を落としてツィエクとハヤに言った。これで一応、キヨは仲間と思われない布石になったりしないかな。


 ハヤはちょっとだけ吹き出した。

「だからってお前が一緒にいる必要はないだろ」

「いや大事なコレクションだからな、私が立ち会う」

 ツィエクはそう言って部屋に入ろうとした。それじゃバレちゃう!

「窓、開けます」

 中から声が掛かったので俺は顔を上げた。窓を開けたことで室内側から風が吹いた。


「うっ!」

 くっさ!! キヨ以外三人とも思いっきり顔をしかめた。

 キヨがサッとハンカチを取り出して俺の顔に当てた。ミントの香りが付いていて呼吸が楽になる。ああ、キヨがデキる従者で良かった……ハヤもツィエクも、ハンカチを取り出していた。

「樋にゴミが詰まって腐ったようですね、このままでは流せないので取り出します」

 窓枠に腰掛けて作業していたコウは、樋をガンガンと鳴らして臭いの元を取り出し、さりげなく見ていた俺たちに見えるように持ち替えた。ぬるぬるした黒っぽい固まり。


「……あれは臭そうだ」

 ハヤがそう呟く。言わなくてもすごいにおいだよ……

「部屋には持ち込むな! お前たち、そのまま外へ出せ!」


 ツィエクはハンカチで鼻を押さえたままそう言った。

 外へ出せって、ここ二階だけど? 彼らを見ると、ちょっとだけ顔を見合わせて、それから何か諦めたようにコウが頷いて仲間を促す。

 泥棒仲間の方が荷物をまとめて持ち、部屋を出る時に体を縮めて控えめに俺たちに礼して通り過ぎようとした。


「待て、その荷物あらためさせてもらう」


 ツィエクは唐突に彼を止めた。うそ、バレちゃう!

 泥棒仲間は恐る恐るその場に布袋を置いて開いた。中には木づちなどの工具と汚れた布などが入っていて、金目の物は何も入ってなかった。あれ……?


 ツィエクは片手を突っ込んで探っていたけど、頷いてぞんざいに彼を放免した。彼はもう一度礼してから、そそくさとその場を立ち去った。

 顔を上げると、コウがぬるぬるを片手に窓枠に足をかけて立ち上がり、どうやら樋に捕まって下へ降りようとしているようだった。


「彼の検査もします?」


 ハヤがそう言ったけど、あのにおいの元を持ってるコウに近づく気にはならないよな。ツィエクはぬるぬるだけしか持ってない手ぶらのコウを見て、首を振った。

 コウはするっと窓から出ると、樋を伝って降りていった。視界から臭いの元が無くなって、何となくみんなホッとした。


「このにおいの後じゃ、いくら本が好きでも読んでいられないだろ。今日のところはお暇すべきじゃないか」

 ハヤは俺の頭をぽんと叩いた。俺は唇を尖らせて不服そうな顔をする。でも実際このにおいの中に居たくはないよな。俺は不満そうな顔のまま頷いた。

「なぁに、また来ればいい」

 ツィエクは俺の頭を撫でた。


「あの、旦那様」

 キヨが控えめに声を掛けたので、ハヤもツィエクも顔を上げた。

「私の検査はよろしいのでしょうか」

 ハヤはそれを聞いて、思いっきり深いため息をついた。

 でも俺がいなくてキヨだけが中に居たのって窓開けた時だけだよな。一応言っておくことが信用を得るために必要なのかな。


「お前がこのタイミングでコレクションを盗んだりしてたら、それこそ噂が立ってあの女史の執拗な申し出はなくなると思うけど、」

 ハヤはそう言いながら、キヨの体をぱたぱたと服の上から叩いた。

「それじゃまるで、俺がお前に十分支払えてないみたいで癪だな」

 そう言ってキヨの顎に触れた。キヨは無表情のままチラッとハヤを見た。

「申し訳ありません」

「だいたいこの細っこい体のどこにコレクションを隠せると思ってんだ」

 召使いキヨの格好はスリムでムダのない感じだから、ポケットに忍ばせた懐中時計だって形が見えてるってのに。


 ツィエクはやり取りを見て、それから笑って頷いた。

「律儀なのも従者としては美点だな、逆に女史が固執する理由が増えてしまったぞ」

 ハヤは苦笑して「この事は内密に」と言った。

 それから俺たちはツィエクの屋敷をあとにした。

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