初めまして。手紙を書きます。

兎ワンコ

本文

 その犬と少女を見た時、あっと声を出さずにはいられなかった。

 この日は初めて行く友人宅の帰り道だった。通い慣れない道は新鮮な景色ばかりで、周囲を散策しながら歩いていた。

 ふと、ひとつの民家に目がいった。青い屋根の、小さな芝庭のあるごく普通の家。その庭に、僕と同年代くらいの女の子と犬がいた。

 普段なら気まずさもあって目を逸らしてしまうが、どうしても目を離せないものがあった。女の子の小さな手には真っ白い封筒が握られていて、それが犬の口元にゆっくりと運ばれていたから。

 まさか。僕は足を止め、不謹慎にもじっと見つめる。犬は鼻先を封筒に擦りつけるように匂いを嗅ぐと、食べようといわんばかりに口を開こうとした。思わず声が出た。


「あの」


 女の子はビクリと身体を震わし、ギョッと目を見開いてこちらを見た。彼女はしどろもどろになりながら手紙と犬と僕を交互に目配せした。


「そんなものを食べさせたら、お腹を壊すと思うよ」

「これは違うの。この子は……コジロウというんだけど、コジロウは、手紙しか食べないの?」

「手紙しか食べない?」


 なんとも荒唐無稽な話だ。当然、信じることができなかった。


「うん。生まれた時からずっと。正確にいえば、葉書や便箋。とにかく、誰かが誰かに宛てた紙ならなんでも」

「ほら」と封筒を差し出すと、コジロウはパクリと口に咥えるや否や、ムシャムシャと食べ始めた。ただ、あまり美味しそうではなく、味気のないしけた顔で咀嚼している。


「……本当だ」


 言われた通りのことが起きたが、疑いを拭いきれなかった。

 そんな僕を察したのか、女の子は僕を庭に招き入れ、コジロウの住み家であろう犬小屋を指さした。犬小屋の前の円形のエサ入れ皿には、噛み千切られた葉書や便箋の残骸が散らばっていた。

 唖然として見つめていると、食事を終えたコジロウがヒョコヒョコと近寄ってきた。頭を撫でようと伸ばした手がピタリと止まる。

 フワフワした毛並みは柴犬のそれだが、顔つきは違った。まるでヤギみたいに細長い。黒い横一文字の瞳孔はまさにそれだ。尻尾もモフモフした毛のかたまりじゃなく、ロバのように細長かった。そんなコジロウは伸び切っていない手のひらに顔を近づけ、ペロペロと懐っこく舐めてくる。

 果たして、これは犬なのか? 訝しむ僕に気付いた少女はコジロウの横に腰を屈める。


「コジロウはね、よくわからない生き物なの。小さい頃に段ボールに入って捨てられたのを、私が見つけたの」

「そうなんだ」


 意を決して、そっと頭を撫でてみた。口を開け、嬉しそうな表情のコジロウ。


「最近はさ、手紙を書く習慣なんかほとんどないから、暑中見舞いや年賀状ばっかり。足りない時は保険の案内とかの手紙とかあげてるの。でも、あんまり好きじゃないみたい。でもね、誰かが誰かに宛てた手紙は美味しそうに食べるの。お母さんが私が産まれた時に私に宛てた手紙とかね」


 頷きながら手の平を舐めるコジロウを見つめる。


「私、二年の飯村千穂」


 僕と同学年だった。でも、千穂のことは見たことがなかった。学区は同じだから、同じ学校の筈だ。


「僕は大栗しゅん。同じく、二年生」


「よろしく」と千穂ははにかむ。夕日に照らされて、屈託なく見えた。


「ねえ、こんなお願いするのはおかしいと思うけど、手紙を書いてくれないかな?」

「え、僕が?」

「うん。だって、コジロウの秘密を知ってるのは私と私の家族と、あなただけなの。だから、あなたも協力してくれない?」


 なんだか無理矢理な気がした。結局、断る理由が思い浮かばず、渋々頷いてしまった。

「それじゃあ、明日またこの時間に来てね」と、一人と一匹に見送られながら僕は家路へとついた。


 家に帰るなり、夕食の支度をしている母にお願いして茶封筒を貰い、自室の机に向かう。便箋はなかったので、代用として大学ノートを一枚剥いで、それを便箋代わりにした。

 いざ書こうとするが、すぐに頭を抱える。手紙なんて生まれて十四年、ロクに書いてこなかった。机の上でうーんと唸りながら、ゆっくりとペンを走らせる。


『初めまして、大栗しゅんです。

 こんなふうに手紙を書くなんて初めてだから、なにを書こうか悩んでいます。そこで、僕のことを紹介します。

 僕の家族は……』


 書き終えた後、もう一度読み返す。僕と僕の家族を紹介してるだけの凡庸な手紙。自分が器用な人間ではないことは知っていたが、字の汚さも相まって余計に落ち込む。書き直そうか悩んだが、初めての手紙などこんなものだろう、と言い聞かせた。

 ちょうどその時、階下から夕飯が出来たという母の声が届いた。返事をしながら便箋を茶封筒に入るように折って滑り込ませた。

 居間のダイニングテーブルにつけば、すでに夕食が並んでいる。白米に、ぶりの西京焼きに、さやえんどうが入った味噌汁。

「冷める前に先に食べなさい」と言われ、僕は箸を取って食事を始めた。甘辛い味噌が絡まったぶりの身が口いっぱいに広がり、次に炊き立ての白米を口に放り込む。質素だけど、幸せな食事。

 コジロウと千穂のことを思い出す。明日、僕の手紙が食べられる。

 コジロウは僕の手紙をどんな風に食べるのか、気になった。


 明くる日の午後、授業を終えると手紙を持って千穂の家に向かった。

 ドアチャイムを押せば、すぐに制服姿の千穂が出てきて、コジロウのいる庭に案内した。

 千穂が一通り手紙を読むと、僕に目を向ける。食べさせてもいいか? 、という確認だろう。コクリと頷いてみせた。

 そっと便箋を差し出す。コジロウは鼻を突き付け、スンスンと匂いを嗅いだと思ったら、ムシャムシャと手紙を食べ始めた。昨日よりはどこか美味しそうに食べていたと思う。それだけでも驚きなのに、千穂が「わー」と喜ぶ顔をするのにもっと驚いた。

「よかった。ちゃんと食べてくれてるみたい」

 千穂の言葉に僕も安堵した。コジロウは手紙を平らげると口元をペロリと舐め、ダルそうに犬小屋の横で丸まった。

 一安心した千穂は向き直っていう。

「ねえ。せっかく手紙を書いてくれたんだし、私も返事を書いてもいい?」

 思わずドキリとした。

 照れ臭そうにはにかむ千穂に、僕は二つ返事で了承した。


 それから、千穂との文通が始まった。

 女の子との文通というのは不思議なもので、千穂に読んでもらえると意識をしただけで、ペンを持つ指が緊張する。

 普段なら短いやりとりで済ましてしまうのだが、手紙というのはそういうわけにはいかず、僕は便箋の空白を埋めるためにうんっと頭を捻るのだ。

 そうして苦労の末に書き上げた手紙は千穂がサラリと読んだ後、あっという間に

コジロウに食べられてしまう。少し寂しい気がしたが、帰り際に「はい、これ」と渡される返事の手紙に慰められるのだ。

 手紙で千穂の色んなことを知った。千穂のお父さんが消防士をしていること。小さい頃は水泳を習っていて、小学三年生の時に地区の大会に出場し、三位という成績が悔しくて泣いてしまったこと。

 他愛のないエピソードが沢山書かれていた。僕も倣う様に同じような内容を書いた。

 次第に文字数が増えると、コジロウの食欲も増すようになった。

 やがて、千穂を知れば知るほど千穂を好きになり、僕のことを書けば書くほど、僕を知って欲しいという気持ちが高まった。



 ある日、僕は決心した。手紙で千穂に告白しよう、と。肩に力を入れながらペンを走らせる。


『こんにちは。

 今日は思い切って打ち明けたいことがあります。

 僕はあなたのことが好きです。恋人になってほしいんです』


 書き終えた後、直接渡そうと思い、意気込んで千穂の家に向かった。

 意を決してチャイムを押したが、誰かが出てくる気配はない。どうやら留守のようだ。僕は諦めて、手紙の最後に『お返事、待っています』と書き加えてポストに投函した。


 翌朝、僕は高熱を出した。

 緊張の糸が解けたせいか、それともただ風邪をひいてしまったのかはわからない。それはひどい高熱で、朝からウンウンとうなされた。

 学校に行くことができず、夕方に母が起こすまでベッドで眠ってしまった。母は僕を起こすなり、「あんたに女の子から手紙が来てるよ」と可愛らしい封筒を渡した。すぐに千穂からの手紙だとわかった。気怠さなど一瞬で吹き飛び、母の手からひったくるように手紙を奪った。

 母はなにか企んだような笑みを浮かべながら部屋を出ていく。僕はすぐに封筒を開け、手紙を読んだ。


『大栗しゅん様。

 いつもお手紙、ありがとうございます。

 今回は良い知らせと悪い知らせを書かなくてはなりません。

 先に悪い知らせをお伝えします。

 悪い知らせとは、しゅん君が送ってくれた手紙は私が読む前に、コジロウが食べてしまったのです。

 良い知らせとは、まさしくコジロウのことで、しゅん君の手紙を食べてから、それは元気な姿で、庭をグルグルと回りだしたかと思えば、おかわりをしたいって鼻をクーンクーンと鳴らすんです。こんな甘えたコジロウは初めてみました。

 どんな内容が書いてあったのか、すごく気になるので、あとで教えてください。

 素敵なお返事を待っています。

 飯村千穂より』


 どうやら僕の一大決心は、千穂に届く前に食べられてしまった。思わず、深いため息を吐き出す。

 あぁ、なんて虚しいんだろう。

 滅入る気持ちを励ますように何度も手紙を読み返す。

 彼女の文字は、すっごく丸っこくって、便箋の上で踊ってるみたい。


 ――素敵なお返事を待っています。


 この文だけ、目から焼き付いて消えなかった。

 しわにならないように、丁寧に便箋を折ると可愛らしい封筒に戻した。そうして、封筒を胸の前にそっと近づけてみる。なんだか、ささくれていた胸の内が安らぐのだ。

 僕は引き出しから便箋を取り出し、ペンを走らせる。次はもっと美味しい手紙を書いてやろう。

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初めまして。手紙を書きます。 兎ワンコ @usag_oneko

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