人間ランドリー
兎ワンコ
本文
その店は、ネオン街の一角に紛れるように存在した。
『人間ランドリー』
黄色を基調とした看板に黒いゴシック体でそう書かれていた。その珍妙な名前から、マッサージ屋かいかがわしい店だと思った。
妙な好奇心が湧き出してくる。給料が出たばかりで、財布の中はまだ温かい。先ほど浴びるように呑んだアルコールのせいもあり、私はなんでもござれの精神で店に足を運んだ。
こんなに酔うのも仕方ない。結婚を約束していた恋人に振られ、仕事でもミスが多くなり、好きだったギャンブルもボロ負け。今日は特に上司からこっぴどく怒られたこともあってか、腹いせに後輩に八つ当たりしてしまったのだ。それら鬱屈とした気分を忘れるべく、このネオン街に逃げ込んで飲み歩いていたのだから。
「いらっしゃいませ。ようこそ人間ランドリーへ」
店内に入るなり、清潔感のある内装と同じくらい爽やかな青年が応対してくれた。
私はグルリと店内を見回した。店の壁には人がひとり入れる大きく真っ白なカプセルが並んでいた。何個かは稼働しているのか、カプセルの中央にある小窓から渦巻く気泡と、辛うじて人の姿が見える。まるでSF映画の世界に飛び込んだ気分。
「へぇー。これが人間ランドリーかい」
「えぇ。そうでございます。もちろんでありますが、これらのカプセルはお客様の汚れを取るためにあるものです」
「それはつまり、銭湯のように身体を綺麗にする、ということか?」
「そうとも言いますね。ですが、よごれとは‟穢れ”とも書くように、心の汚れも取るのが、当ランドリーの売りでございます。穢れとは、辞書で調べて頂ければ分かるかと思いますが、清潔さ、純潔さを失うことにございます」
「はあ」
青年はニコニコと邪気のない顔で説明した。その無邪気さにも似た人懐っこい笑顔が私には不気味でしかなかった。どうせ、そんなものまやかしであって、私を騙さそうとしているに違いない。
「どうでしょう、ここはひとつ、騙されたと思ってご利用されてみませんか?」
私は青年の得意気な営業トークに乗ってやることにした。もし何の効果もなければ、欺瞞を怒りに変えて怒鳴り散らすつもりだった。
「あぁ、いいだろう。それじゃあ、さっそくやってくれ」
「ありがとうございます。ではさっそくコースの説明させて貰いますね」
青年はA2サイズのラミネートされた説明書きを差し出し、太字で書いてあるコースの説明文を指差した。
「まずこちらは三〇分のコース。心の穢れを落とすもののみとなっております。料金は一万円となります」
「なんと」
思わず言葉を失った。随分と高いじゃないか。
「そしてこちらは六十分のコースにございます。こちらは汚れを落とすだけでなく、乾燥もついていて、潤った身体を人肌に暖めてリフレッシュをしてくれるものです。こちらは三万円のコースとなります」
三万円。払えない金額ではないが、いきなりポンと払えるものでもない。
「詳しい説明はこちらをお読みください。」
説明書きをサラッと流し読みし、大体のことを頭に入れる。閉所恐怖症ではないし、入れ墨の類はない。問題は、金額だけだ。答えはすぐ出した。
「初めてだし、一万円のやつで」
「ありがとうございます! それでは、さっそくこちらにどうぞ!」
青年に案内されるまま店内を進み、更衣室で貸付の水着に着替えると、カプセルの前に案内された。
「入ると洗浄液が御身体を満たしますので、中にある酸素マスクをご装着ください。途中、気分が悪くなったり、体調が優れないと感じた場合はすぐに正面右の緊急停止ボタンを押してくださいね。赤いボタンです。その際は、お代は結構ですので」
「あい、わかった」
「それと洗浄液に関してですが、ご心配ありません。体内に入っても有害ではありません。ですが、不安でしたら目を閉じていても構いませんので」
カプセルに入り、酸素マスクを着ける。しばらくすると足元からゴボゴボと薄青色した液体が吹き出してきた。液体は心地よい温度で、足元から頭までゆっくりと包んでくる。
それだけでも心地よいのだが、次第に水流が発生して、身体を優しくほぐしてくれる。それのなんと至福なことか。覚えているわけがないのに、赤ん坊の私を抱いた母が産湯で洗ってくれるような心地よさを感じるのだ。
幸福に支配され、ずっとここに留まっていたいと思う頃、洗浄は終わってしまった。液体が引いていき、カプセルの扉がプシューと音を立てて開く。
バスタオルを持った青年が「お疲れ様でした。いかがでしたか?」と屈託のない笑みで迎えてくれた。
「あぁ、ああ。最高だ。うん、なんとも最高だとも」
バスタオルで身体を拭きながら何度も頷いた。入るまでにあったアルコールの酔いもそうだが、鬱屈とした気分は微塵にも感じられなかった。それどころか、穏やかな気持ちで満たされていた。
私は青年に礼をいい、気前よく一万円を払って店を出た。その足取りは軽く、酒など飲まず、早く家の布団で眠りたかった。
明くる日、朝一番に後輩たちに非礼を詫びて業務に励んだ。
その日も些細なミスを起こして上司の小言を貰い、後輩たちから心配の眼差しが差し向けられた。だが、ストレスを微塵も感じることはなかった。どういうことか、負の感情が湧き上がらないのだ。これは昨日の人間ランドリーのおかげに違いないと、心の中で感謝しながら業務に励んだ。
二週間ほど時間が過ぎるとジワジワとストレスが溜まるもので、衝動的にギャンブルや酒に逃げ込みたくなった。すっかり自分に自信を無くしてしまった。私はなんと弱い人間なのだろう。そんな時、あの人間ランドリーを思い起こす。あそこならば、この負の感情を抑制できるに違いない。仕事が終わったら、あそこへ向かおうと決めた。
それと、ひとつの好奇心が湧く。私が体験したのは一万円のコース。それでは、三万円のコースを選んだらどうなるのだろうか?
仕事が終わるや否や、邪念を振り払って一目散にランドリーへと足を運んだ。すぐにあの青年が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。またのご来店ありがとうございます」
「やあやあ。実は今日ね、一万円のコースではなく、三万円のコースにしてみようと思うんだよ」
「かしこまりました! ありがとうございます!」
カプセルに入れば前回と同様、心身を洗われる心地よさが続いた後、液体が抜かれたかと思えば温風が吹いた。一万円のコースと比べ、自己肯定感がさらに高まる。まるで、箱根の山をひとりで走り切ったような清々しさ。無敵になった気分だった。
カプセルから出た私は爽やかな気持ちでいっぱいだった。何も怖くないし、すぐにでも誰かに優しくしたいと思うのだ。今までしたことがないような笑顔で青年に礼を告げ、財布から三万円を支払った。
翌日の私は別人だと言っていい。
上司の叱責も甘んじて受け入れるようになったと思えば、仕事のいろはが理解でき始め、自分でも驚くほどに業務がこなせた。後輩たちへの気遣いの仕方も分かり、遂には「熱でもあるんじゃないですか?」と驚かれる始末。揶揄われても、嫌な仕事を押し付けれても平然としていられるのだ。まるで菩薩にでもなったよう。一種の悟りのような心理状態にあったのかもしれない。
あれだけ好きだったギャンブルからも足を洗い、酒など一滴たりとも飲まなくなった。むしろ健康に気を使い、毎朝早起きしてジョギングし、バランスの良い食事を心がけるようにした。
どれもこれも人間ランドリーのおかげだ。
だが、異変が起きた。ひと月ほど経った頃、別れた元恋人のことが頭の中にチラつくようになり、穏やかだった心が乱れ始めた。
ふた月を過ぎた頃には落ち着きを無くし、身体がソワソワし始めた。元恋人が頭を支配し、心をかき乱すばかり。これはどうしたものかと思い、動揺した私はすぐにランドリーに駆け込んだ。
「これはお客様、お久しぶりでございます。本日はどのようなコースで?」
「また三万円のコースで頼む。忘れたいことがあるんだ」
「はい、かしこまりました」
青年にぴったりついて行き、ササっとカプセルへと入り込んだ。
カプセルから出れば、またも爽快感を纏うことが出来た。元恋人のことで動揺していた自分が馬鹿らしく思え、私は仏のような笑みで青年に礼を言って会計を済まして、清々しい気分で帰宅した。
だが、それもまたふた月くらいすると消え去り、かわりに元恋人が頭の中を支配し、暴れ出すのだ。
それから定期的にランドリーに通ったが、元恋人そのものを忘れることは出来なかった。
ついに耐え切れなくなり、私は人間ランドリーに入るなり、人目も憚らずにありったけの声で怒鳴った。
「どういうことだ! いくらカプセルの中に入っても、あの女のことを忘れることが出来ないじゃないか!」
応対しようと出てきた青年は目を丸くした。
「どうされましたか、お客様」
「どうしたもこうしたもあるか! 俺は別れた恋人のことが忘れたいのに、全然心から落ちないじゃないかっ! 欠陥品じゃないか! 金を返せっ!」
「少々お待ちください」
青年は慌てる様子もなく、初めて入店した時に見せた説明書きを掲げた。
「お客様、申し訳ございません。当店では汚れは落としても、傷は綺麗さっぱりにすることは出来ません」
青年は細かく書かれた説明書きの一つに指をおいた。
『※失恋は穢れではなく、傷心となります。当店ではなく、クリニックをご利用ください』
小さいながらも、確かにそう書いてある。今度は私が目を丸くする番であった。
申し訳なさそうな顔をしながら続ける。
「もしよければ、クリニックをご紹介できますが……そのような思い出は残す方が多いので、落とさない方が良いと思いますよ」
しばらく考え込んだ私は、深いため息を吐き捨てると、コクリと頷いた。
人間ランドリー 兎ワンコ @usag_oneko
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