第33話
「わっちゃんは可愛いんだから」
「だから、それは」
「性格も! 可愛いの」
だからって、逃げるというのは面倒と呼ぶのではなかろうか。いや、俺が言えたことではないけれど。
それでも、これを可愛いと呼ぶのは欲目ありきだろう。俺だって、大概御影を贔屓している。だが、東のそれは俺のものを大いに上回っているような気がした。
「だからね。多分、自分でも感情が上手く掴めてなくてジタバタしてると思うんだよね」
当事者でなければ……俺が見守る立場なら、それを可愛いと呼べるのだろうか。とにかく、東が御影を気にして寄り添っていることは分かった。
「そりゃ、河辺くんにしてみれば困ることだとも思うけど。でも、見捨てないであげて」
……友だち思い。そういうことだ。
俺はふっと息を吐いて、顎を引いた。
「そんなつもりないよ。俺だって、御影がバイトじゃなきゃ、すぐに捕まえてた」
「今日は撮影で、えっと……どこだっけ? なんか橋のある駅? 下りられる河川敷があるとこ。四つ先だっけ? その街で撮るって言ったよ。そんなに時間はかからないみたいだけど」
「……助かる」
東は最初から教えてくれるつもりだったのだろう。
すべてを計算尽くで行っていたわけではないだろうが、算段はついていた。だからこそ、この着地点なのだろう。
相槌を打った俺に、東は胸を撫で下ろした。俺が諦めている可能性も視野に含んでいたのか。ごく自然に導かれたように思うが、それなりに緊張していたようだ。
「応援してる。ガンガン行きなよ」
「……そういうんじゃないからな」
徹平とは、また距離感が違う。念を押しておかなければ、誤解の拍車をかけそうだった。東の笑みは消えなかったので、暖簾に腕押しな気もするが。それでも言わずにはおれなかったのだ。
「じゃ、行くから」
これ以上、言い募っても勘繰られるだけだろう。目的地は決まった。
踵を返すと、
「わっちゃんのこと頼むね」
と、真摯な声が預けられる。
俺は背中越しに手を上げて、そそくさと階段を下りた。この辺りで橋と下りられる河川敷がある駅と言えば、聖地だ。適度に閑静な街並みは、撮影にも向いているのだろう。
急いだところで、撮影が終わるまでは待たないとならない。そう頭で理解していても、急ぎ足を収めることはできなかった。
撮影クルーっていうのは、遠目にもよく分かるものらしい。そして、御影は人目を惹く。
いつもよりも大人っぽくて色気のある衣装に身を包んだ御影が、日射しの中で笑っていた。その魅力に惹かれないことなどあるだろうか。
俺は観衆の中でも、ずば抜けて陶然としていた。
綺麗だ。
……いや、リーゼのときのほうが純粋無垢で、ずっと晴れやかで、力の抜けた愛らしい笑顔だった。どこまでも愛おしくて、見ていても飽きない。仕事中の御影も同じだけれど、やはりナツとしての御影に俺のフィルターは強くかかっているようだ。
何にしても、御影に変わりはない。陶然とその様子を見続けていた。
御影は集中しているらしい。元々外野に興味を示さないが、今は特に周囲に目をやることもなかった。カメラを見据える爛々とした瞳が美しい。
あれと並んで動いていた。とても現実味がない。俺と御影じゃ釣り合っていなかった。ハルキとして整えていたとしても、きっと不相応だっただろう。
見た目でそんなものを決めるものではない。それでも、堂々と友人とも言えない自分が並ぶなど、分不相応にしか思えなかった。そんな事情がなくとも、堂々としていられるかは怪しいが。
でも、友人でありたい。
陶然とする相手に抱くには、細やかな願望であるような気もする。けれど、これは今の俺には大願だ。
御影の友人として認められる。それだけのためにここにいる。
撮影は順調に進んでいるらしい。そのうちに、カメラ休憩に入り、御影が唐突にこちらに気がついた。
瞬間、顔色が変わる。渋い顔になってしまったのは、失態を重ねている自覚によるものだ。御影はスタッフに一礼して、こっちへやってくる。今すぐこの場で対応されるとは思わずに、心臓が冷えた。
「……ごめん」
開口一番の謝罪に、ずんとみぞおちが痛くなった。
「こっちのほうが悪かったよ。ごめん。邪魔するつもりもなかったんだ。急に来て、ごめん」
「ううん。私が、逃げたから」
いつになくぎこちない。初対面でも、こんなことはなかった。御影が綺麗だということもあるが、本質はそんなところにはない。
「……仕方がないよ。バイト終わったら話せるか?」
「……うん」
「……あの河川敷のベンチで待ってる」
「うん。分かった。ありがとう。ごめんね」
「こっちこそ、ありがとう。後で」
仕事場で修羅場を演じるわけにはいかないだろう。俺は直ちに移動して、コーヒーを片手にベンチで時間を潰すことにした。
夕暮れの街並みは、影を長く伸ばす。その影が伸びていくのを漫然と見つめていた。
この間に、次の行動を決めておくべきだったのだろう。後になれば冷静に見つめ返すことはできるが、そのときは精いっぱいだった。
考え過ぎてショートしていたのだ。それも終わりのない輪廻のような思考だった。そうして、どれくらい待っていたのか。待ち遠しい一方で、恐ろしくもある。試験の結果を待つような心地で、御影を待っていた。
傾けるブラックコーヒーが苦みを身体へ染み込ませる。
苦い。同時に、感傷も抱く。
たったの数週間前のことだ。ナツと並んで、ツーショットを撮った。晴れ渡るような笑顔は、スマホで確認しなくたって、瞼の裏に焼きついている。
どれほど御影にほだされているのか。我ながら、苦くなる。徹平や東の発想を撥ね除けていられるのも、時間の問題のような気がした。
今向き合うべきはそこではないので、棚上げにしているだけに過ぎない。一過的な対処法だ。俺はこの先もずっと、懊悩を続けるんだろう。
それくらいして当然だと思うのは、御影との交流を手放したくないからだ。自ら望むのであれば、努力せざるを得ない。初手を間違ったのだから、尚のことだ。
深刻に捉え過ぎているのも、分かっている。けれど、もう覚悟はした。
御影と一緒にいたい。
この大願を叶えるための努力を欠かすつもりはなかった。意気込んでいる規模は小さいだろう。でも、俺にはそのハードルは高い。一度できあがった関係を壊してしまったようなものだ。
ゼロからか。イチからか。そこまで卑屈にならないにしても、目減りしていることだろう。
オレンジのグラデーションに紺色が侵食してきたころ。手元に落ちた視線に影が落ちた。
「お待たせ」
「ううん。来てくれてありがとう」
「そこまであくどいつもりないけど」
「知ってる」
心なしか、言葉遣いに違和感がある。努めて中性的になるように心がけてきた。晴明として対応するのがほとんど初めてで、気持ちの悪さすらある。歯がゆい。
御影はいつも通りに隣に座ったが、いつもよりも距離は遠かった。やはり、男女の距離というのはある。俺たちは相手を異性として認識しているし、恋愛対象としている性であった。
少なくとも、俺はそうだ。
「……ハルさんなんだよね」
「そうだな」
相槌を打つしかないというのは情けない。
「黙っていてごめん」
「……どうして?」
口重たいのは、俺も御影も同じだ。クラスメイトとして図書室で話していたときよりも、しっくりこない。熱心に話したフラルトの会話が懐かしかった。
「最初はビビって、口に出せなかった。御影がオタクだなんて知らなかったし、自分が女装コスプレしてるっていうのを伝えるのは、やっぱり少し躊躇はあった。クラスメイトにバラすってのはちょっとは考える」
そのときは、オタクなのかとは思ったが、それでもまだ教室でのギャルの雰囲気が強かった。だから、女装コスプレを受け入れられるかどうか分からなかったのだ。
「……それは、分かる。でも、言うタイミングがなかったわけじゃないじゃん?」
「そうだな。それは全面的に俺が悪い。申し訳ない」
「理由」
つっけんどんさに、俺が言えることはない。御影の望むままに答えるだけだ。
「……こればっかりは、タイミングを逸したとしか言いようがないし、責められても仕方ないことだと思うけど、最初はこんなに仲良くなると思っていなかった。そのうちに、騙していることで幻滅されたくないと思うようになった。御影……ナツと過ごすのは楽しかったし、ずっとこの時間を過ごしていたかった。ナツは俺との会話を素直に楽しんでくれているのが分かったし、俺だって、心底楽しかった。罪悪感はあったし、このままでいいと思っていたわけじゃない。けど……それでも、騙して、近付いて、邪な気持ちがあるとか、そういうふうに思われたくなかったし、ナツと過ごせる時間のほうが大切だった。……欺瞞だな。嘘をついて縮めた距離を望んでいるんだから、欺瞞だ。御影が怒るのも無理はないし、気持ち悪いと拒絶したくなるのも仕方がないと思ってる」
「そこまで思ってないから」
即座に否定されて、肩を揺らして顔を上げた。無意識に足先に視線を落としていたことに気がついて、御影へ視線を送る。
困ったように眉を下げた顔から、内心を探ることは難しい。怒っていないことくらいは分かる。それくらいの信頼はあるが、表層だけを見ていればいいってものでもない。
自身に落ち度があると分かっている以上、疑り深くなるのも致し方がないことだ。
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