第29話

「え?」


 喉の奥から漏れた声は掠れていて、音になっていない。私へ視線を向けたハルさんの顔色が真っ青になっている。怯えるような瞳が印象的だった。


「え、は?」

「違うの?」


 無造作に言ってのける珠莉に混乱が止まらない。何を言っているのか分からない。仮に河辺だとして、女装を感受しきっている珠莉の感覚も分からない。どういう状態なのか分からずに、私は唖然としてしまった。

 五感が遠のいていく世界の隅で、ハルさんの拳が強く握り締められているのが見える。珠莉だって、状況が読めないのだろう。私とハルさんの間に視線を走らせて、おろおろしていた。


「……なん、で?」


 河辺? 何で、河辺? 否定しないのは何で? ハルさんが河辺?

 大混乱を言語化することは難しい。捻り出せた単語に、ハルさんの肩がびっくんとオーバーに揺れた。恐る恐るこちらを見てくるハルさんは慄いている。

 膠着したところに投げられたのは、珠莉の少し疑問を含んださらりとした音だ。


「首筋のほくろ、そうかなって」


 私が目を向けるより先に、ハルさんが首筋を隠していた。それが答えというものだ。

 ぐるぐると脳みそが空転している。思考の欠片も何もない。空っぽだ。何も考えられなかった。


「え、違うの?」


 なんら事情が分からない珠莉が、度を失った声を上げている。そのうえ擦った声だけが、がらんどうに転がって響いた。

 ハルさんは血が出そうなほどに唇を噛み締めている。リップの塗られたその女の子と、クラスにいる河辺の姿がマッチしない。

 ぎくしゃくした空気に、珠莉が顔色をなくしかけている。どうにかしなければ、と口を開いてみるも、呼気しか漏れない。

 助けを求めるように、ハルさんを見てしまう。数ヶ月で身についてしまった悪癖だろうか。助力してくれていたハルさんに、頼り過ぎてしまっている。そうして出てしまった癖は、けれども、ハルさんに届くことはなかった。

 いや、届いている。視線は合う。でも、ハルさんは苦しそうに顔を顰めるだけで、何も手助けをしてくれない。

 ぎこちのない。返事が詰まる。その雰囲気と、河辺が重なる。

 まだ信じ切れていないのに、もう信じていた。私にとって、珠莉は信用している友人だし、ハルさんだって信用している人である。そのハルさんが、こうまであからさまなのだ。残念ながら、何も隠せていないようなものだった。

 はくりと吸った音が、喉をからからと鳴らす。不快を通り越して、陰鬱な空気が周囲を取り囲んで淀ませていた。

 その中心人物となってしまったハルさんに、いつもの凛とした姿勢はない。くしゃりと前髪を掻き上げる。頭を抱える乱雑な動きは、初めて見た。セーブしていたのだろう。だからこそ、お淑やかに見えていたのかもしれない。

 いつから、そんなこと……最初からか。

 私がハルキだと認識して近付いた。だから、企んだわけじゃない。伏せた心情を考えることは難しいけれど、いつからなんてなし崩し的としか言いようがないだろう。

 だが、違う。そうじゃない。

 なんで。

 やっぱり、それ以外の言葉は出てこない。分からない。

 長いため息を吐いたハルさんが姿勢を正す。その瞳に捉えられた瞬間に、がくんと落下したような衝撃が走った。


「……御影」


 続いた音に、パニックが最高潮に達した。それ以外の何も考えられなくて、いてもたってもいられなくなる。


「みか」


 二度目の呼びかけを聞き終える前に、私は逃げ出していた。

 意図なんてどこにもない。どうしようもなくなっただけだ。一度だって振り返ることはできなかった。




 鳴り続けていた着信が鳴り終って、しばらく経っている。その間、私は一切の行動を放棄していた。

 着信相手がハルさんこと河辺なのか。珠莉なのかも確認していない。電源を切ることすら億劫で、放置していた。かなりしつこく鳴っていたが、今はなりを潜めている。

 私は膝を抱えて、ベッドの端に丸まっていた。

 ハルさんのことを軽蔑しているわけではない。いや、少しはしている。嘘をつかれていたのは悲しいし悔しい。

 ただ、半分くらいは、河辺に自分がどんな態度を取ったかという反芻もあった。交流していたのは間違いないから、会話はいい。お互いにオタクだって盛り上がっていたことはそれはそれだ。

 だが、スキンシップとか、そういうのは別だろう。友だちとして振る舞っていた。けれど、馴れ馴れしく触れていたように思う。はしゃいでいるところもたくさん見られた。

 河辺だから嫌だというわけではない。でも、分かっているのといないのとでは勝手が違う。最初から河辺だと分かって交流していたのと、後で暴露されるのとでは違う。

 騙されていた。そんな気持ちがどうしたってついてくる。

 ネットで知り合った人が、クラスメイトだなんてことはあるかもしれない。お互いに知らないままにネット上で交流していたのならば、それはそんな馬鹿なと世間の狭さを笑っていられた。

 けれど、ハルさんは知っていたのだ。河辺は最初っから私と分かっていた。そのくせ、ハルさんとして付き合い続けていたのだ。

 ムカつく。別にバラしたっていいじゃん。

 反面、女装コスプレを切り出す頃合いが掴めなかったのだろうとも思う。ほんの少しなら、分からんでもなかった。

 でも、それだけで、納得はできない。すべてを許せるほどの度量はなかった。気持ちがぐちゃぐちゃだ。割り切ることはできない。

 ハルさんは何を考えていたのだろうか。どうしたかったのだろうか。どうしたいのだろうか。

 貶めようなんてことを考えているほど、邪悪だとは思っていない。いくらハルさんとして振る舞っていると言っても、河辺としての部分だってある。

 リーゼが好きだと言ったのは本音以外の何物でもないだろう。熱く語った日々を嘘だとは思わない。ハルさんがそんなふうにするとは思わないし、河辺がそれほど口八丁だとも思えなかった。

 ハルさんと切り替える小器用さはあるのかもしれない。けれど、私と河辺には交流がないのだ。徹頭徹尾性格を繕わなくても、別人だと認識してしまえる。だから、芯から性格を塗り替えていたわけではないはずだ。

 これは私が贔屓しているだけかもしれない。これまでの時間を無駄にしたくないと、ムキにもなっているだろう。どうしたって、色眼鏡があって、その色を外せない。鬱憤を抱えている相手だと言うのに。

 矛盾した感情の行き場がどこにもなくて、思考が内側に縮こまっていく。コーヒーカップを回し過ぎたように気持ちが悪い。

 対処の仕方がまるで分からない。今すぐどうすることはできる気がしなかった。私はぐぐっと小さくなって、時間をやり過ごす。

 ハルさんに無視して悪い気持ちもあった。話さないとどうにもならないことだということも。私が抱えている気持ちだって、ぶつけるなり聞くなりしなくては、どうにもならない。そんなことは分かっている。いくら勉強ができなくたって解ける簡単な方程式だ。

 それでも、気力が出ないことはある。今の私には到底無理で、指のひとつも動かなかった。

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