第28話

 進んでいた足がかくんと抜けて腕を掴まれて、慌ててハルさんを見上げる。


「大丈夫?」


 ハルさんの顔がすぐそばにあって、どっくんと心臓が跳ねた。ビックリした。ナンパ避けも痴漢避けもそうだけれど、ハルさんからはふとした瞬間にかっこいい仕草が飛び出てくるのだ。


「ありがとう。ごめん」

「いいよ。足下気をつけて」

「新しい靴下ろしたの失敗だったかも」

「ちょっとベンチで休む?」

「ううん。大丈夫だよ。ハルさん、見たいのあったんでしょ?」

「時間制限なんかないから、気にしなくていいよ。ナツが怪我したら困るし」

「迷惑だもんね」

「心配の話でしょ」


 呆れた顔で見下ろされる。心配性だ。


「私、そんなに危なっかしい?」

「心配するのに、そういうのって関係ある? 怪我して欲しくないとか、別に変じゃないでしょ?」

「だって、いっつも助けてくれてるから」


 感謝している。だから、責めるつもりはなかった。

 けれど、ハルさんは痛いところを突かれたかのように動きを止める。それから、私を見下ろす視線がわずかに揺れた。


「ハルさん?」


 人を助けることに、何か不都合があるだろうか。思いつくものはない。仮に何かがあったとしても、嫌気なんて私は出したつもりがなかった。

 ハルさんは、すぐに笑みを浮かべたけれど、いつもより暗い。


「ごめん。気に障ったなら」

「なんで? どうかしたの? ハルさん」


 やっぱり、何かあるのだろう。違和感は間違いじゃなかった。正直、自分の勘をそれほど当てにはしていない。それが当たって、気持ちが焦った。


「いや……ちょっと、思うところがあっただけ。大丈夫。ナツが悪いわけじゃないよ」

「そう? じゃあ、やっぱり、休もうかな」

「ああ」


 無理やりだったと思う。水を向けるにしても、透けていたはずだ。けれど、ハルさんは意に介さずに頷いただけだった。

 何かある。こんなに分かりやすいことがあるだろうか。ハルさんがこんなに剥き出しな態度になることはおかしい。

 最初、私の態度にたじろいで、引いているところはあった。そういう間合いの悪さみたいなものはあったけれど、こうも奇異なことはない。

 私たちは適当なベンチに腰を下ろした。ちょうどよいので、足下を見下ろす。くじきかけた足首は何ともなっていなくて、やはり休憩は必要なかった。

 ハルさんは思考中なのか。どこか上の空だ。

 何かしたかな。ハルさんは私のせいではないと明言した。けれど、変な気遣いをされている可能性はある。

 気兼ねされている、とは思わない。仲良くなったはずだ。笑顔を見せてくれることもある。交流に対して、不安を感じることはなかった。

 内心で、あれこれ思うことが多いのは、こちらから突撃したのが出発点だからだろう。それに、人付き合いを考えるのは、何もハルさんに限った話ではない。多かれ少なかれ考えるところはある。それが今、急激に膨れてきていた。

 ハルさんは、私に何か抱えていることがあるのかもしれない。一度でも過ったら、不安というのは雪だるま式に膨らんでいくものだ。


「ナツ? やっぱり、痛かった?」


 私が黙り込んでしまったものだから、ハルさんが思案顔で首を傾ける。流れている黒髪が艶やかで、お淑やかだ。


「ううん、平気。大丈夫だよ。ハルさんこそ、大丈夫? 今日、ちょっと様子変だよ」

「そうかな。ちょっと、話があるんだ」


 改まった様子が見え隠れしていた。

 慎重に間隔を計ってくれている。いや、これは私のためというよりは、ハルさん本人が探っているだけかもしれない。


「……今、する?」


 こちらから歩み寄ると、ハルさんは力む。助けるのと繋がった話なのだろうか。それとも、そこに何かがかかっているのだろうか。


「……喫茶店でいい? 一応、静かに落ち着いて話したい」

「分かった。じゃあ、移動しよう」

「え、あ、もう?」


 ここまで間の抜けた態度を取ることは稀有だ。調子を崩しているらしい。私も急いでいるかもしれない。

 けれど、憂いを持っていても落ち着かなかった。ハルさんとは、憂いなく楽しみたい。内容が分からないけれど。それでも、ハルさんの言葉ならば、聞いておきたいことに変わりはなかった。


「……分かった。行こうか」


 私が何かを言う前に、ハルさんは大きく息を吐いて整える。それが節目になったのか。すくっと立ち上がった背中は凛と伸び上がっていた。

 ハルさんの立ち姿は綺麗だ。フィンちゃんをやっていなくっても、楚々としている。私もそれに倣って、無言で足を進めていった。

 ハルさんの足取りは、いつもよりも大幅になっている。急きたてたのは私だったが、ハルさんのペースも速い。私もそれに合わせて、スピードを上げる。

 引き止めることはできそうになかった。それは自分が焚きつけたこともあるし、ハルさんの横顔が強ばっているように見えたこともある。

 それに、そんな冷静な対応ができるほど、視野を広く持ててはいなかった。ハルさんしか目に入っていない。視野狭窄がよくないのは、誰に指摘されるまでもなく明瞭なことだ。


「わっちゃん?」


 瞬間、ひやりと震えたのは、どういうことだっただろう。

 珠莉にはハルさんのことを話しているし、一緒に遊んでいるところを見られることに忌避感なんてない。オタクのことも珠莉には伝えているから、どんな友だちだって紹介できる。

 けれど、私はそのとき確かにはっとした。そして、それはハルさんのほうがより顕著だったかもしれない。私はハルさんに本名を伝えていないし、わっちゃんなんて呼ぶのは珠莉しかいないのに。

 ハルさんは誰が呼ばれているのか。それが分かっているかのように硬直していた。


「珠莉」

「わー、わっちゃんだ。あ」


 いつもより、並びに差が生まれていた。並んでいなかった分、珠莉が私に連れがいることに遅れて気がつく。

 声を出したところで、ハルさんの唇が震えたのが見えた。顔色も悪い。

 ……知り合いとか? でも、珠莉はそんなに他人に警戒されるような性悪ではない、はずだ。高校になって心を入れ替えたという線もあるので、すべてがすべてとは言えないけれど。

 けれど、ハルさんがここまでの反応を見せるのは異常だった。


「連れがいたんだね。ごめん。えっと……」


 そう言いながら、珠莉の目がハルさんの姿をなぞっていく。ハルさんは微動だにしなかった。いつになく、愛想が良くない。

 普段から、ハツラツとしているわけではないけれど、カメコに囲まれても厭わずに対応している。珠莉一人に、こうまで挙動不審であるのはおかしい。違和感が頭蓋骨の内側で警戒色を放っていた。


「……河辺くん?」


 がしゃんと何かが壊れる。そのくらいはっきりと空気がひび割れた。

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