第五章

第21話

『宿題、終わったの?』

「毎日少しずつやってるよ」

『堅実だなぁ。夏休みだからって、だらけたりしないの?』

「してる。ていうか、昨日も遅くまで通話してたじゃん」

『アニメ始まっちゃったから、つい』


 次の遊びの約束が速攻で履行されることはなく、一週間は経った。だが、その間の通話回数は、今までよりも時間が延びている。これは、夏休みで自由な時間があることもあった。

 そして、会話の内容がかなり日常的な雑談に寄ってきている。

 なんてことのないこと。

 そういう部分を明け渡されるたびに、夏影と御影の影は近付いて、ひとつにまとまっていく。


「バイト、モデルだよね? 生活習慣、大丈夫なの?」

『ぐっ。ハルさん、手厳しい……』


 背骨を抜かれたようなへろへろな声だ。

 通話だけならば、まだ夏影として分離できていた。だが、聖地巡礼で仕草の印象が記憶に刻まれている。言葉だけで、肩を落としているのが想像できた。

 泥沼に嵌まっている。そして、底も見えない深い位置へと落ちてくと、感覚がズレてくるものらしい。慣れと懊悩と開き直りが混在して、やけくそな面が現れている。

 嘘をつくつもりはない。そのくせ、明かす勇気もない。だからこそ、開き直りという最悪な面に着地してしまっていた。

 バレたときはバレたとき。それまでは、友人でいようと。

 姑息過ぎて、胃が痛くなる。

 けれど、御影の無邪気さには、癒やし効果があった。それでまた、自責の念に囚われたりしているわけで、沼の底もいいところだったが。どこまで落ちるのかは未知だ。

 自分が今いる沼が、底なし沼だと知っていた。


「ファンがいるんじゃないの?」

『それはハルさんだって、そうでしょ? 何か気をつけてたりする?』


 御影はさも当然のように俺の知名度を俎上に載せる。敬うことも当然と思っている節があった。

 しかし、御影の読モとしてやっているアカウントのフォロワーは四桁台で、俺よりも全然多い。そりゃ、趣味アカウントは鍵にしとくわな、と思うものだ。

 ファンは御影のほうが多い。俺がそれを知っていると、夏影が気付くことはないだろうが。


「一応、筋トレはしてるよ。太ると衣装入らなくなるし、困るから」

『うわー。え? ジムとか行ってる? 自己流?』

「自己流。今はいくらだって、情報収集できるからね」

『動画とかってこと? あれって、習慣化できるもの?』

「……ナツがそういうのが苦手だってのはよく分かった」


 計画性がないのは、数ヶ月の友人になれば分かってくる。

 変化を求めるような前向きな御影は、日々積み重ねるようなことが苦手なようだった。アニメや漫画、ラノベを読む行為はそれに当たらないようなので例外はありそうだが、筋トレは例外にならないようだ。


『だって~。じゃあ、ハルさん付き合ってくれる?』

「甘えない」


 思いっきり甘ったるい声を出されて、鼓膜が揺さぶられる。真面目に諌める気持ちと、感情を揺さぶらないで欲しいという願いが零れた。

 ここまで身近になってくると、口調もすっかり砕けている。そういう言葉遣いの人間なんだと思わせてしまえば、気にされない。


『ちぇー。ハルさんなら付き合ってくれそうだと思ったのに』

「勉強と同じ感覚で言わない」

『勉強なら見てくれる?』

「非道な罠を見た」


 御影が勉強を苦手なことは、クラスにいるだけで分かる。宿題の件からも明白だ。嵌められた。

 言い捨てると、御影は


『ダメ?』


 と窺うような声を出す。

 首を傾げているのも想像できた。もう、御影の行動を思い描くことに適応している。


「……じゃあ、本当に分からないところだけね」

『そんな念押しする?』

「万能じゃないし、頼りにされ過ぎても困るよ。上手く教えられるかどうかも分からないから」

『ハルさんなら大丈夫だと思うけどなぁ』


 御影は俺をどこか万能なものだと思っているっぽい。

 仮にファンであったとしても俺は一般人だし、一緒に遊び回った仲だ。普通であることは見せていると思うのだが。


「ナツは幻想を抱き過ぎ。できないこともたくさんあるからね」

『それは分かってるよ? でも、ハルさんのほうが勉強できるのは本当のことじゃん?』


 期末テストの話をした。点数も伝え合ったので、成績も分かっている。だから、この件に関しては理屈が通っていた。だからって、学力にそこまでの差があるとは思えない。

 御影のそれは、やっていないだけだ。


「分かったよ。じゃあ、何かあったら言って」

『やったー! ありがとう。ハルさんがいてくれれば百人力だ。あ、ねぇ、どこかのファミレスで一緒にやるのは? ダメ?』


 俺は自我をどこにやってしまったのだろうか。

 出会ったあの日、驚愕のついでにイベント会場に忘れてきたのか。それくらい、俺は御影に弱くなっていた。


「……じゃあ、近いうちに」

『この間の待ち合わせ駅の近くにファミレスあったよね? そこでいい? でも、どうせなら、遊びにも行きたい』

「勉強するんじゃなかったの?」

『一日中するわけじゃないよね……?』


 ひどく怯えたような声を出されて、笑いそうになってしまう。よほど苦手なようだ。


「そうじゃないけど、荷物とか面倒じゃない?」

『でも、せっかくじゃん。ハルさんと遊べるなら、行きたいところいっぱいあるもん』


 指名してもらえることは、悪い気はしなかった。そうでなくとも、弱体化してしまっている。なので、悪い気がしなければ、そんなもの無条件降伏しているも同じだ。

 御影は気がついてやっているわけではない。この場合、俺のほうがガバガバなのだから、御影に何を言えるわけもなかった。


「どこに行きたいわけ?」

『コスプレしたいって話したでしょ? リーゼをやろうと思って、色々と検索して準備してるところで……でも、実店舗とか行ったことないし、不安ばっかりだから、ハルさんに監修してもらえたらなぁ、とか?』


 一気に話すのは御影の癖なので、一通りは聞くようにしている。楽しそうな勢いの良さは聞いていて楽しいし、俺は引いているわけでもない。そうした態度を取ったこともないはずだ。

 だが、御影は自分で我に返るので、そうなると途端にフォローが始まる。


『あのね? ちゃんと、ハルさんの手を煩わせるのは申し訳ないかも? とかは思ってるよ。思ってるんだけど、なんていうか……言うだけなら、タダ? みたいな。友だちだし』


 友だちだし。

 これを邪推なく受け取れれば、これ以上なく嬉しかった。それでなくとも嬉しい。それでも、とこれ以上を望む気持ちはある。開き直っているくせに、そんな願望抱く自分の卑しさが忌まわしい。


『ダメだった? 図々しい?』


 御影は割と人の顔色を窺う。

 ファンとしての態度と思えば、そこまで異質ではないのかもしれない。謙虚になってしまうし、嫌われたくないと思えば、動きは探り探りになる。気持ちは分かるが、自分がその対象になると、すわり心地が悪い。


「そんなことないよ。煩わしいとか思わないし、教えられることがあるなら、手伝う」


 まずいという気持ちはいつだってある。自分が馬鹿な道に進んでいる自覚も。

 それでも、コスプレしたいと願っている御影を援助してやりたい気持ちも嘘ではない。同じ趣味を持つ仲間が増えるのは嬉しかった。


『嬉しい。ありがとう、ハルさん。だから、ファミレスの前でも後でもいいから、ちょーっと寄り道して』

「ファミレスが寄り道になりかけてない?」

『そ、そんなことないもん!』


 わっとムキになる。目線を泳がせて、頬を膨らませるのが目に浮かんだ。これは半分くらい俺の勝手な想像だろう。想像とリアルが混ざり合っていた。

 それこそ、夏影と御影のように。


「なら、いいけど」

『ちゃんと勉強するから、コスプレ共々ご教授願います!』

「分かったよ」


 あえて、なわけではないのだろう。けれど、調子が良い大仰な言い回しには力が抜けた。

 相槌を打つと、御影は嬉しそうな声を上げる。ほだされている俺は、それだけで良かったと思ってしまうのだから、本当にチョロい。

 それから、予定はトントン拍子に決められていく。御影が乗り気になってしまえば、約束までの距離はあっという間だ。意欲に溢れている。その刺激が楽しいと思えているのは、本当だ。

 惜しむらくは、という感情は、どれだけ開き直ったところで完全に消え去りはしないけれど。

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