第17話
目の覚めるような晴天だ。すかっと気持ちが良い。御影との約束の日として、うってつけだろう。
……正味、見栄だった。暑いくらいの気持ちよい天候に浸れるほど、内心は穏やかではない。
待ち合わせは、聖地から二つ前の駅だ。俺の家からは徒歩一〇分ほどでありがたいばかりの選びは、御影からの提案だった。
聖地は学校とは逆方向で、俺の自宅が中間になる。御影がどこに住んでいるのかは知らない。委員会で一緒になったときですら、帰宅時にも駅で見かけたことはなかった。今回も最寄り駅を聞くわけもないので、ふわっとしたままだ。
だが、指定してきたということは、と気持ちがじくじくと蝕まれる。家まで近いと考え始めると、どんどん崖際に追い詰められている気がした。
「ハルさん!」
駅前の花壇前で待っていた俺に、ぱっと明るい光が差し込んでくる。
栗色の髪の毛はいつもより丁寧に巻かれているように見えた。黒いチョーカーが似合う。ピアスはいつも通りに、長めのチェーンで宝石のような石がついていた。チューブトップに、薄手のシャツカーディガンを羽織っている。ショートパンツからすらっと白い足が覗いていて、足下はソールの高いスニーカーだ。
「お待たせしましたか?」
見上げてくる睫毛がくるんと持ち上がっている。これ自前なんだよなぁ、とつけまをつけている自分と比べていた。
「ううん。待ってないよ。大丈夫」
くすぐったいというか気まずいというか。こういうセリフはデートの定番じゃないのか。そう過ると、余計に後ろ暗さが刺激された。
「ハルさん、私服はそんな感じなんですね。変な感じがします」
「ナツさんはイベントのときもそうだったけど、お洒落だよね」
可愛い、と言うほうが女子っぽいのだろうか。ふと思ったりするが、そのハードルはべらぼうに高い。
こうして直面すると、夏影ではなく御影だと認識してしまってしょうがなかった。
「えへへ、ありがとうございます」
素直かよ。
御影として接することがないので、対面した性格を知ることがない。やはり、通話だけとは違った。
「どう致しまして。それじゃあ、行こうか」
そう言って踏み出した一歩で、歩幅に思い至る。
今日まで、気をつけなければならないことを考えた。それでも思いついていなかったことに、土壇場になって気付く。ロングスカートであるから大股にはならないが、御影に合わせるべきだろうと、慌てて歩幅を調節した。
「そうですね。早速、行きましょう!」
拳を握って笑った御影が隣に並ぶ。ごく自然だ。
これ、結構厄介だな。分かっていたことを今更ながらに痛感する。
衣装は身体の線も肌も隠れる大人しい令嬢風。足下はブーティのような踵のある靴。ウィッグは黒髪のロングを選んで、首元を隠していた。
夏にこの選択はしんどくはあるが、首周りだけはどうしたって隠さなければならない。そっか。チョーカーか、と御影を見て手立てを思いついたところで、もう遅い。
隣に並んだ御影の頬の薄い紅潮はチークだろうか。ニコニコしているのを見ると、上気しているだけかもしれない。上機嫌でいてくれるのは嬉しいし、会話がなくても構わないのはありがたかった。リスク回避には、そちらのほうが絶対にいい。
だが、延々と無言で歩き続けるのも、それはそれで勘弁して欲しかった。
「ナツさん、ご機嫌だね」
「ご機嫌ですよ! 当たり前じゃないですか。ハルさんと聖地巡礼ですよ。わくわくしてなかなか寝付けなかったくらいです」
「それ、大丈夫?」
「大丈夫です! この通り元気ですから」
むんと二の腕を見せつけるように、片腕だけをマッスルポーズにしてキメ顔を寄越す。こんなにコミカルだったか。
東と話している様子を思い出してみるも、心当たりはない。気になってはいるし、意識はしていた。けれど、盗み見するほどの精神性は宿っちゃいなかった。それが良いのか悪いのか。
処置するためには、御影のことを知っておくべきだったのかもしれない。
「なら、いいけど、無理はしないように。ねぇ、ナツさん」
こういうのを切り出す自分を上手く想像できていなかった。今もまだ、この状況に浮き足立つような感覚が拭えない。自分ではない誰かが御影の隣に立っている。偽っているのだから、あながち間違っていないのだろう。
「どうしましたか?」
ぐるりとこちらを見上げてくる。人の目を見るのは自然ではあるが、それにしてはじっくりと見られていた。バレている、とは思わない。可能性はあるが、御影の雰囲気は真っ直ぐだった。
「同級生だし。こうして一緒に出かけるのに、いつまでも敬語ってのはやめてもらっても。ていうか、こっちはタメ口なんで」
つい、初手で対応したものが引き続いていた。夏影が指摘してくることもなかったものだから、なし崩しに砕けている。だが、あちらからは崩れきっていない。存外、礼儀正しかった。
ギャップだよな。そう思いこそするが、そのギャップを感じている軸がどこにあるのか。今や見えなくなっていた。
「え、じゃあ、ハルさんもナツって呼んでくださ……呼んで? ずっと気になってたんだ」
「そっちだって」
「いえ! これはいいの。ハルさんって感じだから! せめてもの、ってことで。タメ口は嬉しいけど、ファンはファンなんで」
「律儀かよ」
突っ込みは、多分軽くハルキの口調を越えている。領分にはなかった、はずだ。しかし、突っ込みの無遠慮さは、目くじらを立てるものではないらしい。夏影は楽しそうに笑っていた。
その横顔を眺めながら、駅のホームへ進む。並んで歩いていると、目線が撫でていくのが分かる。
コスプレしているときは、見られるのも仕方のない状況だ。むしろ、そうした目的であると言ってもいいくらいだろう。だから、見られることには慣れているつもりだ。だが、日常となると、話がまるで違う。
そして、これは俺じゃなくて御影へのものだ。シャツカーディガンを羽織ってると言っても、チューブトップ。心許ない衣服に、胸元が溢れんばかりに収まっている。目に留まってしまう気持ちは分からんでもなかった。
だが、あくまで気持ちの話だ。実演すればろくなことにならない。女子に混ざってコスプレすることが多い身で、そんな阿呆なことをしでかすつもりはなかった。しかし、世の中は阿呆なほうが多いらしい。
俺は無意識に視線を辿って、睨みをきかせていた。御影を守ろうなんて大それたことを思っていたわけではない。それでも、動いていたことは動いていたことだ。
そのうちに、目の前から歩いてくる中年くらいの男に気付いた。至って普通に見える。ただ、ひたすらに真っ直ぐだ。このままだと御影とぶつかることなど分かりきっているにもかかわらず、避ける気が更々ないほどに。
SNSってのは、清濁併せ呑んだ色んなものが流れてくる。その中に混ざっていた、ぶつかりおじさんってのを思い出した。それから、すれ違いざまに触っていく痴漢行為も。
身長差を考えれば、中年の手はそのまま御影の太腿に近付けることは可能だろう。どちらにしても、御影が危ない。思わず、御影の手首を引いて、ホームの壁際へと避ける。
少し強引ではあっただろうが、中年の指先が俺の脇腹辺りを掠めた。オーバーサイズのパーカーのおかげで、触れられた感触はない。中年はわずかに睨みを残しながら去っていった。
それを睨み返す。咄嗟のことに、一心不乱だった。
「ハルさん?」
壁際に追いやった御影に見上げられる。思ったよりも際で、俺が男だったら……男の様相で男だと認識されていたら、御影も世間もよく見えない距離感だった。下手をすると、こちらが痴漢判定されてもおかしくはない。
俺はすぐさま手を離した。離れていく細い手首を握り込んでいた自分の手が目に入って、ぞっとする。ごつくないつもりでいても、比較すると感じずにはいられない。そのまま背中側へと手のひらを隠した。
「あれ、痴漢だった」
「触られた?!」
はっとした御影が、目の角度を尖らせる。俺を被害者扱い……と思ったが、助けてもらった実績がある。その印象で物を言っているのだろう。
自分のことを鑑みるべきだ。
「大丈夫。狙われてたのは君だよ」
「え、私? ハルさんでしょ?」
当たり前のように言われて、顔を顰めた。ハルキの評価が高いことは、折に触れて感じている。歓迎できているかはさておき、許容はしていた。
だが、こうしたときに取り沙汰されると渋くもなる。どんなに言っても、お洒落している女の子と同じ舞台に立てるとは思っていないし、危機感がない。
「ナツだったよ。正面から来てたでしょ」
渋くなっても、声音で表すわけにはいかない。トーンが落ちないように維持するのが、まどろっこしかった。
お前、自分がどれだけ目を惹くのか。自覚がないなんて、さすがに言わないだろ。
学校でだって、動いていると胸がどうこうと下品な物言いをしているやつもいる。
「私、ハルさんだって思ってたんだけど」
「君でしょ」
「でも、だって、私の正面ってハルさんだって一緒じゃん。どっち狙ってたか分からなくない?」
どうやら、護られる対象に入っているらしい。過去の出来事に基づくものは覆しづらかった。それに、御影の主張は見当外れとも言い切れない。
確かに、正面だという理由しかなかった。どちらを狙い定めていたかは不明だ。そう思うと、気持ち悪さが増す。
「……とにかく、少し気をつけて。ナツは可愛いんだから」
「あ、うん」
ぽかんとした相槌も、納得だった。俺自身、よく言えたなと思う。
ウィッグをつけていなかったら、耳が熱くなっているのが露わになっていたはずだ。そのままでいれば、更に墓穴を掘っていたかもしれない。
だが、ちょうど電車が入ってくるアナウンスがかかり、俺たちはすぐに動き出した。本来の目的に戻ってさえしまえば、御影はそちらへ気持ちが逸れる。シングルタスクで助かった。
すべてを過去のこととして捨てられているとは思っちゃいない。御影はそれほど馬鹿ではないし、覚えていないわけでもないのだろう。だが、重要視されていない。そのありがたみに乗って、俺たちは聖地へと旅立った。
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