第9話

「河辺はさ、何読んでんの? 図書室の蔵書じゃないでしょ?」


 ブックカバーを掛けているのは、持ち運ぶ際の常だ。ラノベに限らず何を読んでいるのか窺われるのは面倒くさいし、気持ち分でも綺麗に扱いたい。

 まぁ、うっかり落としたり汚したりしてうやむやになることもあるし、それに過大なダメージを食らって立ち直れないということはないので、本当に緩い気持ちだった。

 それにしても、困った質問だ。口ごもりそうになる舌を何とか動かしたのは、話しかけてくれる相手への礼儀だけだった。下手を打てないという凝り固まった意識もあったかもしれない。


「……ラノベだよ」


 別タイトルをでっち上げるには、引き出しがなかった。あったとしても、内容を掘られたら終わりだ。

 御影がどれくらい本を読むのかは知らない。ただ、少なからずフラルトを読む程度には苦はないはずだ。フラルトはラノベの中でも分厚いほうなので、それを読み終える力はある。他に手を出すこともあるだろう。誤魔化し先を誤ると、詰むのが見えていた。

 見えている罠に引っ掛かるものもいないが、だからといってすぐさま反撃の方法を思いつけるものもいない。結果として、ふにゃふにゃした掴み所のない答えになった。


「そういえば、河辺ってアニメとか好きなんだっけ? なんか、大八木と話してるときあるよね」

「まぁ」


 女装コスプレについては口にしていない。徹平がハルキと呼ぶときは、そこに触れているも同じだが、事情を知らなければ分からないことだ。そうして隠すくらいの気配りはあるが、オタクそのものを隠匿しているわけでもなかった。

 だから、触れられてしまってもおかしくはない。ただ、それはただのクラスメイトであれば、という注釈がつく。いや、御影はただのクラスメイトなのだけれど。けれど、本当はオタクだ。

 ラノベの話に自ら踏み込んでくるだろうか? それとも、周知させていないだけで、隠しているつもりはないのか。

 この一週間、一度も耳にしなかったのに。こうもあえなく乗ってこられると動揺する。たったそれだけのことならば、俺には何の余波もないというのに。


「大八木と仲良いよね」

「それなりに」


 友情を確認されるのは、妙な心地がする。モテる気質の徹平と、となるとわけもなく気後れもした。本当に、わけもない。あいつは気にもせず頷くだろう。ナチュラルさというものが、俺には備わっていないようだった。

 ハルキでいるときは、体面を保てているというのに。この差はどこから生まれるものなのだろうか。


「今日もなんか話してたじゃん」

「っ」


 毒にも薬にもならない思考が、叩き起こされた。感じていなかったはずの眠気すら吹っ飛ばされたような衝撃波が頭蓋骨の中で暴れる。

 ハルキのこと以外にも、気に留めておくことは日常に溢れ返っているものだ。


「好きなキャラ? とか? そういうの?」

「はは、まぁ、うん」


 許せ、いかにもなオタク丸出しで。

 御影の発言はどこまで信じていいものなのか。ちゃんと聞いていなかっただけに過ぎないのか。それとも、ばっちり聞いたうえで空惚けられているのか。後者だったら、恐ろしい。

 御影が理不尽に怒りを発散させるタイプだとは思っていなかった。夏影の呟きを見ていなかったら、どうだったかは分からない。ただ、今となっては、ギャルだからって陰キャを当て擦るようなやつじゃないことは分かっている。

 だが、こっちに落ち度があれば、話は別だ。女子二人を派閥などという下賎な会話の俎上に上げている。

 これが敵対している組織か何かの話ならまだしも、純度百パーセントの邪さしかない。こんなもの無反応に大様に受け止められたら、それはそれで怖かった。


「何? そんなどもってさ。そんなにタイプの女の子キャラがいるの? 誰?」

「いや。言っても分からないし、面白くないでしょ」


 ノリが悪過ぎて我が事ながら感じが悪い。

 言ったら突き刺さるし、面白いかどうかは別にして楽しくはあるだろう。御影の領域であるのだから、間違いない。それを俺に見せるかどうかの差分があるだけであって、胸中ではそうなるはずだ。

 御影はぎゅっと眉を寄せて、


「いいじゃん。別に」


 と不満を唇に乗せて尖らせる。

 女子とこういう態度で接することはなかった。従姉がいるが、彼女とはしょっちゅう会うわけでもない。二条はこういう態度を俺に見せることはなかった。

 というか、趣味を介した会話以外はほとんどないので不慣れだ。

 そんなふうにされて、無視したり即応したり、そんな真似ができるわけがない。


「フラルトって作品のリーゼ」

「へぇー」


 隠すつもりなのか。そうではない感想なのか。できれば、前者でいてくれと思う。ここで語り合ってしまった後で、ハルキのほうに絡まれるとややこしいことになりかねない。

 しかし、御影は


「きょにゅー……」


 と呟いた。

 おい。

 色々な意味で突っ込み所しかない。隠す気がないのか。あるのか。もしや、こいつ何も考えていないのではないか。俺が探っているオタクの公具合など考えるだけ無駄だったのか。

 大体、リーゼへの感想の第一に巨乳を取り出してくんじゃねぇ。

 もっと、格闘家としての身のこなしの描写が素晴らしいとか、笑ったときに見える八重歯が劇的に可愛いとか、カインを一途に想い続けているだとか。魅力なんてどこをどう切り取ったって潤沢だというのに。

 挙げ句、自分の胸元を見下ろす動作つきで、居たたまれなさが高速化する。

 マジで何やってんの、この子は。

 片手で顔を覆ってしまった。大息が零れなかったのは、そんな気力すらなかっただけに過ぎない。


「あ、えっと、どんな子?」


 ……無意識の呟きだったな。

 思っているよりも、御影はポンコツなのだろうか。今まで抱いたことのない感想が蠢く。

 自分を助けてくれたことも含めて、芯はしっかりした女の子だと思っていた。それが、この下手くそな誤魔化し方。

 俺が真っ正直というか。勇猛果敢というか。一般的に人間関係を作り上げられる人間であったら、これを大胆に看過するなんてことはなかったのではなかろうか。徹平なら迷いなく突っ込んでいるはずだ。


「栗毛ウェーブの可愛いヒロインだよ」

「そうなんだ」


 どこか相槌が浮ついている。そう思うのは、事情を見抜いているからだろう。そうでもなければ、俺は冷たくされていると、言葉を流していた。

 だが、裏側を知ってしまっている今は、なんと上っ面な相槌だと苦々しい。苦しい会話にしか思えなかった。

 そして、そんな相槌を相手にして、会話を広げる技術は俺にはなかった。嫌な沈黙が横たわるが、嫌な感触を抱いているのは俺だけなのかもしれない。

 御影はしれっとした顔でいた。これで会話は終わっていいものか。分からん。歯切れの悪い着地は気持ちが悪かった。

 かといって、危ない橋に足をかける勇敢さはない。今でさえ、意識が昂ってハラハラしているのだ。憂慮を抱え込みたくはなかった。

 じりじりと肌が焼かれるような気持ちがする。

 問題はないと諌める声が一番大きい。それなのに、どうにかしたほうがいいのではないかという感情が膨れる。馬鹿みたいだった。

 まずいことになった。御影の影が焦げ付いたようだ。

 馬鹿だな。

 はくり、と唇を動かしたところで、図書室の扉が音を立てて、喉が締まった。その隙間に捻じ込むように東が入室してきて、手を上げる。その先にいるのは、当然御影だ。

 答える御影に、俺との会話の名残などない。


「珠莉、今日バイトじゃなかった?」

「まだ時間があるから。そういえば、わっちゃんが当番だったなと思って」


 言いながらカウンターに近付いてくる東の視線が、微妙にこちらに流れる。確かめるような。見定めるような。値踏みされるようなことはないと思うが、俺と御影のツーショットが物珍しいのはよく分かる。

 俺だって、あの日のコスプレ写真を見るたびに、どんな取り合わせだと思わずにはいられない。


「暇潰しに付き合わせようって? 仕事中なんだけど」

「カウンター、がらがらじゃん」

「眠いらしい河辺のために頑張らなきゃだから」


 事もなげに話題に引き込まれて、


「え、あ、いや」


 と、意味のない音が零れ落ちる。まさに陰キャみたいな態度を取る自分が苦い。東も不思議そうにこちらを見てから、御影に視線を戻した。


「わっちゃんと河辺くんって仲良かったんだっけ? なんかもっと、事務的? ってゆーか、知らん顔で並んでるのかと思ってた」

「うーん? 別段、フツー?」

「……御影が俺に気を使ってくれているだけだよ」

「そんな可哀想な扱いしてるつもりないけど」


 目頭に力を入れられて驚く。御影が恩着せがましいとは思っていないけれど、そこまで俺と交流を持とうとしているとも思わなかった。


「そんなこと思ってない」

「じゃあ、気を使って話しかけてるとか、そういうのやめてよ。感じ悪いじゃん」

「御影が愛想いいのは知ってる」

「外面がいいってこと?」

「優しいってこと」


 我ながら、自分の発言に違和感が過ぎる。

 そんなところを知っているだろうか? SNSでフォロワーと和やかな会話をしているのを見かけたことがあるだけだ。

 どちらかと言えば、ポンコツな面を目の当たりにしたばかりだった。まぁ、その抜けている部分を幾重のオブラートに包めば、優しいくらいにはなる。

 ……絡まれている人を助けるほどには、正義感に溢れていた。


「何それ。変な河辺」

「悪かったな。配架行ってくる」

「ありがとー」


 もっと早くに思いついておけばよかったのだ。それを取り出して、背後に感謝を聞く。逃げ出したのだから、感謝を聞く謂れもない。

 数冊の本を手早く抱えて、二人から離れる。何をやっているのか。よく分からなくなってきた。

 夏影のことをどう取り扱うか、という煩悶から、御影との付き合いにスライドしてきている。

 クラスメイト。同じ委員会。同じ曜日の当番。こうも重なるものがあると、付き合いが生じるものらしい。誤算だ。

 夏影とハルキのことはワケアリだけど、黙っていればやり過ごせると思っていた。今は意識してどうしようもないことも、そのうちに尻すぼみになるだろうと。

 それは、SNSで絡まれないことからも、平気なのではという憶測を生んでいたのだ。でもそれが、ただの憶測でしかなかったことを思い知らされる。

 夏影とはそれでいいかもしれないが、御影とはそうもいかない。それは結局、どちらも同じことだ。二重な分、重いくらいかもしれない。

 参った。ややこしい。

 何よりこのややこしさは俺が自分でこねくり回して作り出したもののようなものだ。リボンの結び目を弄りまくって、変な玉を作り、固く結んで解けなくするような。不器用と言ったってまだ聞こえがいい。無策なだけだった。

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