第3話 二重人格
店の常連になってからというもの、店の女の子からは、
「小説を書いているという人の話は、結構聞きますよ?」
ということであった。
しかし、実際に、本当に執筆をしている人というのを、この目で見たことがなかったのも事実で、
「小説を書いている人、本当にいるのか?」
と聞いてみると、
「ええ、いるのはいるみたいですよ。中には、自分の本だって言って、持ってくる人もいますからね」
ということであった。
「そうなのかな?」
と、若干、不信感を抱きながら、相変わらず、店で執筆をしている時のことだった。
それまで馴染みの常連さんが帰った後、ちょうど入れ替わりくらいで自分が来店したのだが、注文して、作業を始めようと思いパソコンを開いたくらいに、ちょうど、他の客が入ってきた。
自分と同じくらいの年齢だっただろうか。どうやら初めての客のようで、どうやら、結構遠くからの来店ということだった。
コンカフェということもあり、店では、来店時に、いつもの顔でなければ、
「初めてですか?」
と聞くようにしている。
というのも、初来店の際には、来店の理由を聞くようにしている。
要するに、
「口コミなのか、ネットなのか、他の媒体なのか?」
という、一種の、
「アンケート」
のようなものであった。
それが、集客のデータとして、今後に生かそうということなのだろう。どうしても、コンセプトカフェというと、ヲタクだったりの、一癖も二癖もある人の来店ということになるので、そういう情報がかなり重要だったりするのだろう。
「私は初めてですね。前に雑誌で見たことがあったので」
ということであった。
ちょうど、他に来客はなく、吉松とその男だけが唯一の客だった。その男は、吉松を見つけて、
「小説を書かれているんですか?」
と聞いてくるので、
「ええ、そうですが」
と答えると、その男は満足したように、自分の席に戻り、
「自分も作家なんですよ」
と言い出すではないか。
それを聴いて、店の女の子は興奮して、
「そうなんですか?」
というと、待ってましたとばかり、
「この店の内容を話しにしたりもしました」
と、満を持していった。
それを聴いて、あざとさが感じられたが、
「まあいいか?」
と思って聞いていたが、女の子がその話に飛びつくと、今度は、
「自分は、声優関係のプロデュースもするので」
などと、明らかな自慢話に入ってきた、
すでにその時は、皆興奮状態で、こっちが集中していることなど、まったく忘れてしまっているかのようであった。
その客に載せられて、まんまと店の女の子は、完全に前のめりになっているのだ。
吉松も、人がいなかったり、作業をしている人がいなければ、声が大きくなることもあった。
しかし、そんな時、女の子から、
「もう少し、声のボリュームを下げて」
と言われたもので、そのたびに反省をしたのだが、その反省を促した女の子が、一緒になって大声を出すとは、まったくもって許しがたいといってもいいだろう。
ただ、それも、
「相手に煽られた」
と思えば、むげに文句をいうのも、まずいだろう。
こういう言い方はまずいのかも知れないが、
「どうせ、うるさい声を出しているやつは、その時だけで、もう二度と会うことはないだろう」
といえるのである。
しかし、店の女の子は、これからもその店に行く限り、会うのである。天秤に架ければ、どちらを優先するかは、おのずと知れているだろう。
だが、逆に考えれば、この時の男が、吉松と同じような発想であれば、どうなのだろうか?
ということである、
つまり、相手も、
「この人とは、もう二度と会うことはない。だから、ここで嫌われようが別にかまわないと思っている可能性もある」
ということである。
つまり、
「そう思っている相手に、無理に突っかかっていっても、どうなるものでもない」
ともいえるだろう。
そうなってくると、
「俺が、文句をいうことで、却って相手を煽って、その場の雰囲気を壊すことになれば、いつもは優しくて、自分に気を遣ってくれる女の子にも深いな思いをさせることになるのではないか?」
ということになれば、
「自分の本意ではない」
ということになるであろう。
そう思うと、
「ここで、ことを荒げるのも、大人げない」
と思うのだった。
ただ、普通の人だったら、
「そんな回りくどいことを考えずに、一直線に、この結論になるのではないだろうか?」
と感じるのであった。
だが、どうしても許せないところがあった。
というのは、
「この男、最初から計算ずくでやっていたのではないか?」
というあざとさを感じたからだ。
最初から、こちらが小説を書いているということが分かっていて、分かっていたからこそ、その話題に載せて、自分のことを自然に話すことができたのだ。
つまり、
「こいつは、自分のあざとさを消すために、俺の行動に便乗して、相手に、自分の自慢話になることを自然な流れで持ってきたというような考え方になった」
という思いである。
ということを考えると、吉松という男は、
「自分が出しに使われたり、利用される」
ということが許せないタイプなのであった。
普通なら、そんなに怒らないのだが、
「こちらが気づいていないと、思っているのをいいことに、自然な形で出しに使ってやろう」
ということを考えてしまうのだろう。
そんなあざとさというものを、嫌いになったのは、そのあざとさというものをまったく考えてこなかった性格だったからだ。
中学時代、高校時代などは、後から、自分が利用されたということに気づいたとしても、それがどこからなのか分からないから、きっと、
「あいつは楽に利用できる」
ということが、吉松本人の知らないところで言われるようになったのではないだろうか?
それが、子供の頃の、相手もこちらも意識しないということに結びついて、下手をすると、それが苛めというものに結びついてくるのではないだろうか?
余計に大人になると。
「この人との今後の自分」
ということを考えてしまう。
「二度と遭わない」
と果たして言い切れるのかということは、30代中盤くらいまでは、考えたかも知れない。
しかし、30代後半以降は、
「二度と会う会わないは、あまり関係ないのではないか?」
とも思うようになった。
というのも、実際の友達というのもいなくなり、結構というものに対しても、執着がなくなってくると、人との付き合いは、それこそ、
「一期一会」
のようなものでいいと思い始めた。
本当は、違う意味だということはもちろん分かっている。しかし、今の時代は、ネット時代で、個人情報も相手に教えないのが当たり前。つまり、知り合いというと、
「ネットの友達で、顔もどこに住んでいるか分からない人」
ということになる。
もし、近くに住んでいたとして、親友だと思っていたとしても、例えば、
「同じ女性を好きになったとして、果たして、その好きになった女性と、友達との間でジレンマに陥るだろうか?」
と考えた時、
「俺だったら、彼女をほしいと思うだろうな?」
と考えるのが普通だ。
だが、もう少し考えると、
「その女性は彼女として好きになったのであって、もし、結婚を迫られればどうしようか?」
と考えたとすると、友達を捨ててまで選んだ彼女を、ずっと好きでいることができるだろうか?
本当に好きであったとしても、結婚となると話は別である。
家族や、まわりの人のこともある。その考えが古臭いのだとしても、彼女とだけの人生を考えた時、先が見えてくるのだろうか?
「欲しいと思っているものを手に入れることができると、必ずそこに、最初に思っていたこととのギャップが生じ、先が見えるか見えないかということで、結局、悩みが尽きないだろう」
ということに気づかされると、結果として、自分の選択の間違いが取り返しのつかないことを招いたと言えなくもない。
「人間というものは、飽きが来る動物である」
といえる。
相手のことが好きで好きでたまらないとすれば、その時がピークなのである。それ以上の上を望むことはできないので、後は、下がっていくばかり。
特に、結婚適齢期というのは、動物における発情期のようなもので、
「好きになったその人をどこまで、そしていつまで好きでいられるか?」
ということであり、
「好きという感情が、結婚のすべてではない」
ということに、いずれ気づくのだ。
子供ができたりすれば、特にその傾向は顕著に表れてくるというものだ。
「しょせん、夫婦は他人。子供は血が繋がっているということで、夫よりも子供なんだ」
と言われるが、
「血のつながりって、本当に感じるものなのか?」
と思う。
血のつながりというよりも、
「自分が苦痛の元に、自分の力でこの世に生み出した」
という感情が強く、まるで、
「自分で設計したロボットが完成した時の感情」
といってもいいかも知れない。
もちろん、
「自分の分身」
という意味であるが、
「その考えはアッサリしすぎ」
というのであれば、
「血のつながりというのと、果たしてどう違うというのか?」
ということになるのだろう。
吉松が、一番嫌いなタイプの人間は、
「あざとい」
と言われるような人である。
「分かっていて、やっている」
という対応で、自作自演というか、劇場型というか、そんなタイプの人間であった。
そういう人に限って、二重人格だということもありえるだろう。
二重人格に関しては、自分にも言えることなので、余計なことは言えないが、まさにその通りだという気持ちに変わりはないのだった。
ただ、二重人格というのは、自分のことを、
「二重人格だ」
という自覚を持っている人は、他人が二重人格だということは分かっても、その真髄が分からないかも知れない。
それは、
「自分が二重人格だ」
という意識はあっても、その裏で、そのことを認められない自分がいるということである。
「二重人格だ」
と分かったとして、どういうタイプの二重人格なのか、今自分で感じているもう一人の自分は、正反対の自分だと思う。
しかし、その正反対の自分というものをハッキリと自覚できないのだ。それを自分なりに理解しているのだとすれば、ある意味、
「途中までは、自分を理解しているのかも知れないが、その先がまったく分からない」
ということの典型ではないだろうか。
自分で理解しているところが、自分のすべてだと思っている人は、きっと、
「そこが限界だ」
と自分で思っていることだろう。
しかし、
「先は見えないが、まだ先があると思っている人には限界が見えていないから、その先にある漠然と感じる、もう一人の自分が分かってきているのではないか?」
と思うのではないだろうか?
先を見るのも、大切なことなのかも知れないが、
「世の中には知らなくてもいいことがある」
という人がいる。
その人は、自分なりの悟りを開いている人なのかも知れないが、その人はきっと、自分の限界というものを信じていないのだろう。
つまりは、
「限界だと思っていることでも、その先に見えるものがあり、先を見ようとすることで、不吉な想像しかできないのであれば、知らなくてもいいものがあるという発想も成り立つのではないだろうか?」
と、そんなことを考えていると、二重人格というものの、カラクリのようなものが、臼らと見えてくるのではないだろうか?
カラクリなどという大げさなものではないのだろうが、
「人の様子を見ているだけで、もうひとりの自分が見えてくるという、一種の影のような考え方」
というものがあるという発想である。
そんなことを考えていると、
「もう一人の自分」
という意味での、ドッペルゲンガーというものと、ここでいう、
「もう一人の自分というものが、果たして同じものなのか?」
あるいは、
「同じところを出発点にしているものなのか?」
という考えなのかということが頭に浮かんでくるのだった。
「ドッペルゲンガーというものは、その人の行動範囲以外に現れることはない」
と言われているが、このこと一つを考えても、
「まるで影のような存在だ」
ともいえるだろう。
しかし、これはあくまでも、
「言われている」
ということであり、果たして、
「本当にあったことなのか?」
ということになれば、
「後付けで、結果から、原因を導いているという、帰納法的な考え方になるのではないか?」
といえるかも知れない。
そう考えると、どちらの考え方にも一理はあるが、信憑性に欠けるところがある。そういう意味では、
「決定的な証拠としては、帯に短し、たすきに長しだ」
といえるのではないだろうか?
人間というものには、影がある。
これは、
「影がある」
という結果に対して、
「どうして影があるのか?」
ということを考えた時に、
「太陽の方角と反対方向に伸びているからだ」
と、今の人はすぐに理解できるが、それはあくまでも、
「影というものが、光が何かに当たって、その後ろにつくものだ」
という理屈を分かっているから、
「どうして、影があるの?」
と、小さな子供から聞かれた時、
「太陽の光が……」
と言い出したとしても、そのこと自体を理解していない子供に、わかるはずがない。
算数でも、掛け算などを教える時、自分たちであれば、
「掛け算は、足し算の延長」
として理解しているから、当然のごとく、その解釈で教えようとするだろう。
しかし、果たして、その子は足し算というものを分かっているのだろうか?
「一足す一が二」
ということを、本当に理解しているのだろうか?
最初のそこから分かっておらず。足し算というものを、最初から躓いた状態で、分かったふりをしているとすれば、絶対にそこから先に足を踏み入れることはできない。
これと影や、さらには、そこから派生する、
「二重人格」
という話が、展開できるわけはないのだ。
それを思うと、
「世の中というものは、自分が思っていることが必ずしも、正解ではない」
と言われることを、
「最初から分かっていないかも知れない」
と理解したうえで、当たらなければいけないだろう。
その時に、学校の先生などは、
「分からない子が分かるまで、教育するのが当たり前のことなのだろうか?」
それとも、
「先に進んでいる子供を放ってもおけないので、その子たちを中心にして、分からない子は放っておくしかないのか?」
ということが問題であった。
ただ、日本という国は、
「民主主義国家」
である。
民主主義というのは、
「多数決の世界」
ということなので、落ちこぼれか、先に進んでいる生徒のどちらが多いかということを考えるべきなのだろうが、どうしても、先に進んでいる子を放ってはおけないということに終始するだろう。
学校の都合というのも出てくることで、そうなると、教育というのは、
「多数決や、人情では、行うことのできない」
ということになり、結果、
「営利」
というものが、優先されることになるのだろう。
あの失礼な男はどうだったのだろう?
二重人格の、
「悪」
の方が顔を出したということで片付けていいのだろうか?
元々、善などというものはなく、
「勧善懲悪」
と呼ばれる人間からすれば、それは、悪でしかない人間の存在を認めるということになるのであろうか?
勧善懲悪といえば、もっと、とんでもない悪党を見たことがあった。
住んでいる街には、少し大きな城が昔あったようで、天守のようなものは残っておらず、復興もされていないが、天守台は残っていた。その大きさから、結構な規模の天守が聳えていたという想像は巡らせられるのだが、いかんせん、その資料が、ほとんど存在しない。実際に、関ヶ原の論功行賞により、この地に転封された領主が、この土地に城を構えてから、大阪の陣によって、
「元和堰武」
と言われ、幕府による、
「平和宣言」
が行われたことにより、お城は不要なものだということで、一つあればいいということになり、いわゆる、
「一国一城令」
というものまで出された。
そこで、幕府からいらぬ嫌疑を抱かれないようにということで、せっかく建造した天守を、取り壊したという話が伝わっている。
もし、天守があったとして、その存在期間として、長くても、八年くらいではないかと思われるのだった。
しかも、遺構のようなものも、そこまでたくさん残っているわけでもない。ただ、城郭ファンの人たちにとっては、
「貴重なものがたくさん残っている」
といって、結構人気があるようだ。
「お濠や石垣、本丸、二の丸、三の丸などの敷居であったり、さらには、門が二つに、二階建ての櫓が一つ、さらに多門櫓なども残っている」
ということで、それぞれが、重要文化財となっていて、貴重なもののようであった。
そんな中において、かつては、
「裏門」
として大きな役割を示した門があるのだが、そこを通りかかった時、たまたまであったが、そこで、タバコに火をつけるとんでもない輩を見つけたのだ。
ちょうど、距離的に結構離れていて、自分が、門を撮ろうとして、スマホを構えているところに現れての暴挙だったので、相手はもし、こちらの行動に気づいたとしても、
「門を撮ろうとしているのだろう」
と思い、因縁を吹っかけられることもないだろう。
そもそも、まわりを気にするようなやつなら、誰かがいるそんな場所でタバコに火をつけたりなどしないだろう。しかも、こちらがスマホを構えているのに、その恰好は、まったくこちらを気にしている様子はなかった。明らかに、
「どうでもいい」
とでもいうような様子だった。
その後タバコがどうなったのか分からないが、
「どうせ、あんなやつだから、足元に落として、脚でもみ消したんだろうな」
と思ったが、ここまで無神経なバカであれば、そのまま足でもみ消すこともないかも知れない。
火事になったわけではなかったので、事なきを得たのだから、
「よかった」
ということでいいのだろうか?
その門のことをネットで調べてみると、何と、20年くらい前に、不審火で、一度燃え落ちているというではないか。
「タバコの火の可能性もある」
と書かれている。
これを知ってしまっては、このまま、放っておくわけにもいかない。この城の管轄は、市だということだったので、早速市の、経済環境課を訪ねてみることにした。
その市の環境庁に行ってみて、さっき撮った写真を見せて、
「ここでタバコに火をつけているのが分かるでしょう?」
といって見せると、
「ええ、そうですね。でも、あそこには、防犯カメラとスプリンクラーが設置してあるので」
と言い出した。
「はあ? だからなんだっていうんだよ。実際にスプリンクラーも作動していないし、警報ブザーだって鳴ってない。防犯カメラだって、何かがあって確認することになるわけで、結果、火事で燃え尽きた時に、犯人を割り出すためだけのものじゃないか。スプリンクラーだって、作動した時には、もう時すでに遅しだろうに」
と思ったが、グッと口に出すのを堪えた。
こっちは、確かに時間があったからここまできたのだが、
「わざわざ教えに来てやった」
という自負があるのだ。
それなのに、
「茶を出せ」
とまでは言わないが、自分は用事をしながら、片手間での作業をしているだけだ。
まったくこちらのことを考えようとしているわけではなく、むしろ、
「面倒なことを持ってきた、厄介な客」
とでも思っているのではないだろうか?
そんな風に考えると、
「確かにタバコを吸っているやつが一番悪いのだが、それと同等で、役所の人間も、意識が最悪というべきか、少なくとも、通報者に対しての礼儀すらないとは、これがいわゆる、お役者仕事というものか?」
と思い知らされた。
先ほどのタバコを吸っている人間にしろ、この役所の係の人間にしろ、
「二重人格の悪の方が出た」
といってもいいんだろうか?
「いや、こういうやつらは、普段から、ずっとこんなやつなんだ」
ということである。
タバコを吸っていた輩だってそうではないか?
人がいるのに、悪びれる様子もない。カメラを構えているのに、堂々と火をつける。常識では考えられない。
しかも、役所の人間だって、こちらのことを考えているわけではない。
すべてが投げやり、いきなりの言葉として伝わってきたのは、
「スプリンクラーと防犯カメラを設置しているから、大丈夫」
といっているということ。
何が大丈夫なものか、大丈夫というのは、
「火事を起こした犯人を捕まえることができる」
ということであり、実際に火事になった門のことを考えていないのだ。
もし、本当にカメラやスプリンクラーの設置を、
「抑止力」
と考えるのであれば、
「防犯カメラ、スプリンクラー設置中」
ということで、主要な部分に、貼り紙をしていてしかるべきだ。
それでも、見ずに火をつけたのであれば、しょうがないといえるかも知れないが、正直、目立つところどころか、貼りだしている気配もないのであれば、救いようがない。
「職務怠慢だ」
といっていいだろう。
もし、燃え尽きてしまったら、どうする気なのか?
そのまま、再建しないということであれば、容赦しない連中が抗議に訪れるだろう。
逆に、
「再建する」
と言った場合には、完全に市民の税金が使われるということになるわけなので、これが、
「やむを得ない火の不始末」
という不可抗力であれば、しょうがない。
「次回から、しっかりとした再発防止を」
ということになるのだろうが、今度の場合は、その再発なわけである。市民はまず納得しないだろう。
当然、環境課の責任者の更迭。さらに、
「通報してきた人の助言を無視して、防犯カメラと、スプリンクラーだけに頼っていたのだ」
ということになれば、その罪の大きさは、
「タダでは済まない」
というものである。
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