毒花黒樹 その1

 全員を助け終わって、兵士たちの間から喝采が上がった。

 大神レジスクラディスを讃歌する声も、そこかしこから上がっている。


 他の誰でもなく、神が直接癒やして回ったことが、彼らの信仰をいや増しに高め、癒やされた兵には羨望すら向けられた。


 そして、全ての兵を治癒したからこそ、ミレイユは気づく。

 あれらの中に、隊士は一人として含まれていなかった。


 彼らが陣取っていた場所は、中庭の中でも最も城壁側に近い。

 だから必然的に、建物内に避難できる者はいなかった。


 そして、黒粉を浴びる条件が最も整っている者たちには発症せず、それ以外の所からはむしろ多く発症していた。


「これは、もしかすると……」


 事態が一段落し、変貌した者の拘束に積極的参加をしていた結希乃へ、ミレイユは近付いて話しかける。


「少し、訊いておきたいんだが……」


「これは御子神様……! 変貌からの解放と治癒……神々の慈悲深さを見せていただき、感無量でございました」


 平伏して礼を述べる結希乃へ、立つ様に指示する。

 彼ら彼女らの神を敬う実直さは好ましいが、喫緊の状況だと煩わしい。


 しかし、それを表情には出さず、ミレイユは改めて仔細を尋ねた。


「……それで、お前に訊きたい事だ。隊士達に被害はあったか?」


「拘束する際には、多少の擦り傷と打撲を……。ですが変貌については、幸いにも誰一人、被害に遭わず済みましてございます」


「幸いにも……」


 結希乃の背後には、未だ立ち上がらないまま、平伏する隊士達の姿がある。

 そして、事実として彼らの中に被害は出ていないようだった。


 ミレイユは変貌から回復した兵士たちが、神殿内の別室へ隔離されて行く姿を見る。

 その中には言葉通り、やはり隊士達は含まれていない。


「幸いと言うが、それが本当に幸いであったのか、疑問に思っている所だ。もしかすると、単なる偶然ではないかもしれない」


「そう、申されますと……確かに」


「黒粉を浴びた者は例外なく、異形へと変貌していた様に見えた。そして、私の目には隊士達も黒粉に触れていた様に見えていた。ならば……」


「日本人には作用しない……と?」


 あるいは、とミレイユは単なる思いつきを口にする。


「一定の実力者には通用しないか、だな」


「一定の……。しかし、あり得るのでしょうか?」


 結希乃の疑問は尤もだ。

 しかし、ここで言う実力者とは、魔力制御力が高い者の事を指す。


 そして制御力の高さとは、即ち防膜の強さを意味していた。

 体内のマナを活用し、体外へ放出されたものを身に纏う。


 制御力が高い者は、例外なくこうした技術に精通している。

 そして、刻印を基本装備としている他の兵士は、これらの技術が未熟な傾向にあった。


「違いというなら、そういう部分もあると思う。単に異世界人には通用しない、と見る事も出来るが……そうでない可能性を知っておきたい」


「しかし、余りに危険です。実際に試してみない事には、推論の域を出ないのではありませんか?」


「――志願いたします」


 その時、レヴィンが会話に割って入り、一歩前に足を踏み出す。


「実地の検証が必要でしたら、我々がその先陣を務めます」


「若様っ! その様なこと、とても認められません!」


「しかし、必要なことだろう。――見ろ、黒粉は今も空から降っている」


 中庭を覆う巨大な防壁は、外の風景を透過して見せてくれる。

 既に日もすっかり落ち、宵闇となった空では、確かに黒粉は見え難い。


 それでも、防壁に降り積もり続ける粉の量で、今も降り続けている様子が辛うじて分かった。


「止むかどうかも分からず、そして止んだとしても、いつまた黒粉が降って来るか分からない。そんな曖昧な状態で、これからの戦いに付いていくなんて出来ないだろう?」


「それは……、そうですが……」


 ロヴィーサは一瞬、迷う素振りを見せたが、即断まではしなかった。

 レヴィンは畳み掛ける様に言葉を続ける。


「ここではミレイユ様がいらっしゃったから、被害なんて無かった様なものだった。しかし、外での被害はとんでもない事になってる筈だ」


「うちの領兵は決して弱卒じゃないが、制御力という部分では不安が残る。日本の隊士みたいに、その部分を磨いて来たわけじゃないからな……。安否だって気になるが、それより更に心配なのは領民……もっと言えば、この大陸に住まう無辜の人々だ」


 黒粉の拡がる範囲がどれ程か、レヴィンには見当も付かない。

 しかし、風に乗り、それらが遠くへ飛ばされた時、海さえ越える危険があるように思えてならなかった。


「彼らを助けるにしろ、ミレイユ様に一人ずつ救って貰うんじゃ、効率が悪すぎる。それにはまず、大本を絶たなければならないだろう。それなのに、俺達がここで引き籠もっている訳にはいかない」


「……はい、分かります。分かりますが……それならば、わたくしから先に参ります。ミレイユ様の推測が合っているかどうか、この身を以て確認させてください」


「それは……! いや、そうだな。護衛である、お前の役目か。何事もなければ、次にヨエル、そして俺の順で行く。それで良いな?」


 ロヴィーサ一人では、サンプルが少なすぎる。

 かといって、レヴィンを含めた三人でも十分な訳でもないのだが、外に出ようと思えば、その程度は最低限、確認する必要があった。


「ミレイユ様、変貌があれば、お願いしてもよろしいでしょうか?」


「勿論だ。しかし、回復はさせても、別室行きは変わらない。そこは納得しておけ」


「……承知しました」


 レヴィンが一礼してから、ロヴィーサへ顔を向ける。

 そうして首肯して見せると、彼女は防壁で守られた領域から出て行った。


 そうして範囲内から漏れ、黒い粉を浴びること暫し……。

 レヴィンが引き攣るほどの形相で見守っても、変化はいつまでも起こらなかった。


 他の兵士が触れると同時に変貌していた事を思えば、無害と判定しても良いくらいだ。

 ロヴィーサは頭や肩を払って振り返り、小さく両手を広げた。


「もう、十分でしょうか?」


「あぁ、戻って良い」


 ミレイユからの許しもあって、ロヴィーサは元の位置まで戻ってきた。

 レヴィンは抱き留めて迎えようと腕を広げ……ようとしたが、周囲の視線を受けて、所在なさげに腕を動かして手を下ろす。


「何にしても、無事で良かった……。どこか変な所は? 違和感や、気分が悪いとか……」


「大丈夫です、若様。どこも、何の問題もありません。ただ……」


「――ただ!?」


 食い入る様に迫られて、ロヴィーサは苦笑しながら返答する。


「いえ、時間差で影響があるかも、と懸念しただけです。ミレイユ様の推測が正しくとも、蓄積することで影響が増すかもしれませんし、未だ未知の症状なのは変わりませんから……」


「そうか、そうだな……。確かにそうだ。どこまでが安全なラインなのかは、ここで少し試しただけじゃ、分かりようがない……」


 レヴィン達が話している内容を、ミレイユも興味深そうに聞いていた。

 思案する素振りも見せていたが、今はロヴィーサと入れ替わりに出たヨエルに視線を向けていて、その様子を観察している。


 ヨエルもまた、ロヴィーサ同様、黒粉の中で待機していて、既に数秒が経過していた。

 そして、しばらく待っても、やはり何の変化も現れない。


 レヴィンはこれにもホッと息を吐いて、肩をはたき落としながら戻って来るヨエルに労いの言葉を投げた。


「お前も無事で良かった」


「まぁ、別に何て事なかったな。他の兵士の変貌ぶりを見てたから、ちょいと恐ろしい感じはしたがよ。ロヴィーサの後だしな」


「見てるこっちが、気が気じゃありませんでした……!」


 そう言って、ようやく握りこぶしを解いたのはアイナだ。

 この時になって初めて肩の力を抜いて、ヨエルに送風の理術を使う。


 勢いの強い風ではないものの、清められている気がして、ヨエルも有り難がってその風を浴びる。

 ヨエルが終われば、次はロヴィーサの番で、遅れた詫びを言いながら頭から爪先まで風で流し落とした。


 そして、最後がレヴィンの番だ。

 前二人が問題なかったので、レヴィンの足取りも軽く、そして実際外で十秒ほど待機しても、一切の変化が見られない。


 ミレイユに視線を向ければ、帰って来いと指示する首肯があって、それで元の位置へと戻った。

 三人の様子を見終わったミレイユは、傍らのルチアへ横目を向けて腕を組む。


「……確定ではないが、外へ連れ出して問題ない、と思える程度の確証は得られたか」


「確証、というには少し弱い気もしますが……。でも、これ以上、時間を掛けるのも問題ですしね」


「ロヴィーサが言っていた様に、時間差で変貌されたら困った事になる。弱い者なら即座に、しかし強い者でも蓄積によって……と言うなら、外へ連れ出せるものじゃない」


「そうは言っても、手をこまねいている訳にはいきませんからね。不安要素なら、いっそ置いて行くぐらいで良いと思いますが……」


 ルチアの提案に、ミレイユはレヴィン達をちらりと見つめた。

 元より大軍をぶつけて戦える相手でない以上、少数精鋭で挑むのは決定事項みたいなものだ。


 大樹に向かった時、どれだけの敵と対峙するかも分からず、そして手札は少しでも多い方が好ましい。

 ミレイユは逡巡したあと決断を下して、改めてレヴィン達に向き直った。


「言ってる場合じゃないか……。一応は大丈夫、との結果は出たんだ。――準備しろ、これから大樹に向かう」

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