決死の防衛 その8
ミレイユは意外そうに表情を崩したが、それも一瞬の事で、すぐに表情を改め納得した。
「そうか……。誰も戦場にいない今だから、自由に権能を振るえるな。……とはいえ、無謀な事に変わりないが」
「お前の役に立ちたいんだよ。それに、誰かが一番槍を務めなきゃならんだろ。まぁ一番槍と言えば聞こえは良いが、実際は敵の情報を引き出す、やられ役にも等しい」
「そうだな……」
不承不承ながら、それを認めない訳にはいかなかった。
最も危険な役回りだから、モルディは……だからこそ、進んでその役目を選んだのだろう。
「……だろ? 傍でお前の盾にもなれんのだから、アイツとしては精一杯の助成のつもりなんだろ」
「くそ……っ、そんな捨て石みたいな真似、自ら買って出なくて良いのに……!」
「アイツの思いも汲んでやれよ。お前なら分かるだろうが……?」
ミレイユは眉間に寄せていた皺を指で解し、しばらく思案した後、振り切る様に顔を上げた。
「……分かった、繋げてくれ」
「ミレイユ様、差し出口をお許しください!」
急ぐ状況というのは、レヴィンもよく理解している。
しかし、向こうに行けば即座に戦闘が始まる筈で、その様な状況でゆっくりと話は出来ない。
進言するなら、今しかないと思っての事で、だから不敬と知りつつ声を掛けた。
ミレイユはレヴィンの言葉を無視することなく、顔を向けて問いかける。
「……どうした」
「ハッ! 戦力が少しでも必要というなら、結希乃さんを連れて行くのはどうでしょうか! 神使の方々には及ばずとも、その任に耐えるかと……!」
「お前の主張は尤もだが、彼女はオミカゲから借りた兵だ。ここの防衛戦に赴く時も、きっと異国で死ぬ覚悟さえ決めた事だろうが……、今回はそれとも異なる。神々の戦いに巻き込むとなれば、無事では済まされない」
「それは、そうかもしれませんが……!」
レヴィンにはその覚悟がある。
主神とするミレイユと共に付き従い、共に戦場を駈け、それで死のうとも本望と断言できた。
しかし、彼女の主神は別にあり、そして別世界にあった。
ここまでで十分、と思うのと同時に、防衛戦で見せた実力を加味すると、実に惜しいとも思ってしまうのだ。
ミレイユはレヴィンの表情から、その内情を悟りつつ尚も続ける。
「それに、ここの防衛を疎かにして良い、という理由にはならない。あれが姿を見せたからには、龍穴を襲っていた事すらブラフで、既に必要ないものかもしれない。しかし、依然として要所には違いない。取られて痛くない場所ではないのだ」
「……はい、それには優れた指揮官が必要です」
「ヴィルゴットも良くやってくれたが、あれは百人規模を指揮した経験しかなく、どうしても経験に乏しい。此度の戦いで一皮むけたのかも知れないが、やはり力不足だ」
レヴィンが素直に頭を下げて一礼すると、ミレイユは改めて宣した。
「ここを結希乃に任せれば、少しは安心して叩きに行ける。オミカゲの兵士は少しでも多く、無事に帰してやりたい気持ちもあるしな」
「……はい! 差し出口、大変失礼いたしました……!」
レヴィンが深々と礼をした、その時だった。
地面の揺れが唐突に止まる。
大樹に顔を向ければ、木の根の動きがごく緩やかなものに変わっていた。
「何だ……?」
地面を耕すつもりの様にさえ見えていた激しい動きが、今は精々撫でる程度にまで収まっている。
そして、何が起きているか確認するより早く、大樹の方に動きがあった。
大樹は天に衝く動きを一時止め、頂点に生い茂る葉を揺らした。
中心が盛り上がり、大いに膨らんだかと思うと、次に大輪の花を見せ付けるかの様に咲かせる。
ただし、見目麗しい人の心を癒やす華、とは全く違う。
毒々しい見た目の、ラフレシアにも似た花だった。
中心には口が付いていて、それが大きく息を吸い込む。
一時制止したかと思えば次に吐き出し、そこから黒い花粉が撒き散らされた。
「何だ、あれは……」
余りにも多い量なので、それは煙の様にも、あるいは雲の様にも見える。
それが上空を覆うと、次第に黒い雪として舞い降りてきた。
「嫌な予感しかしない……」
「外にいる者は、急いで屋内へ! 屋根がある所まで逃げろ!」
ミレイユが声を飛ばして、中庭の兵に叫ぶ。
空はまだ完全な闇に覆われておらず、遠くに僅かな茜色が見えるばかりだ。
夜になりかけの空から落ちる黒い粉は、まるで夜の暗い部分が零れ降っている様にも見える。
不思議な光景に唖然としている者も多く、そして逃げろと言われても、入口が詰まって入れていない者も多かった。
その上、ようやく収まった地震に安堵した所だったのだ。
なぜ屋内に避難しろと言われているのか、そもそも理解していない者までいた。
「危機感が足りないな……!」
兵士たちに危機感が少なく見えるのは、城壁の高さで外の様子が分からないせいもある。
地震の方が
直接何かの攻撃を受けている訳でもないので、それが危機感の薄さに繋がっていた。
しかし、そのお陰でパニックにもなっておらず、悪いことばかりでもない。
厩など屋根付きの建物もあるにはあったが、収容できる人数は少なく、どうしても溢れているのが現状だ。
そうして、何処からともなく降ってくる黒い粉を、不思議そうに見つめている姿が散見される様になった。
「駄目だ、全員を屋内に避難させるのは無理だ……」
「あれが何であれ、毒だと思って対処した方が良いでしょう。ミレイさん、防壁で覆って侵入を防ぎましょうか」
「そうしてくれ。規模が大きいから全体は無理でも、中庭さえカバー出来れば、それで幾らかは凌げるだろう」
ミレイユの言葉通り、ルチアは中庭を覆う形で半透明の防壁を張ったのだが、そのタイミングとしては幾分、遅いところがあった。
舞い落ちる全ての粉を遮断できず、その内幾つかの侵入を許してしまう。
そして、危機感が足りないのは自分もだった、とミレイユは直後に後悔する。
黒粉が漏れ入ったのは僅かな量だ。
それは確かだ。
しかし、それが劇薬であれば、少量であっても十分に効果を発揮する。
黒粉は人体に付着すると同時、兵達は途端に苦しみだした。
「あれは、やはり毒だったか……!?」
レヴィンは思わず瞠目する。
あの黒粉に触れた瞬間、根を張るように血管が隆起し、あっという間に全身まで広がると、目や口から黒い液体を垂らし始めた。
「血……の割には黒すぎます。まさか、とは思いますが……」
「そのまさか、だろう。淵魔の素みたいなものを、あぁして撒き散らしているんだ……」
中庭は一瞬にして。阿鼻叫喚の坩堝に見舞われた。
それまで隣で平然としていた兵が、唐突に目と口から黒いものを吐き出し、そして遅い掛かって来たからだ。
完全に理性を失くし、獣同然に襲ってくる。
しかし、そうだとしても、ついさっきまで共に食事を取ろうとしていた相手だ。
武器を持って立ち向かえる程、誰もが割り切って戦えるものではない。
「そりゃあ、同じ釜の飯を食おうって相手だ。斬れないのは当然だが……、しかし……!」
黒粉は中庭にいる全員が浴びた訳ではない。
だから無事な者と、そうでない者に分かれていて、そして変貌した側が一方的に襲っている。
今のところ、それによる被害も出ていないが、誰も積極的に倒そうとしてないので、常に防戦一方だった。
倒すべきだ――。
倒さなければならない――。
それは誰もが理解している。しかし、だからと言って、戦友を手に掛けたい者などいない。
そして、こうした困難に直面した時、縋るのはいつもたった一つの存在だった。
「ミレイユ様! どうにかなりませんか!?」
「どうにか出来るのだとしたら、既に――いや、待てよ……」
ミレイユは懐から『鍵』を取り出す。
淵魔と完全に融合し、その意識を『核』に奪われていたアルケスを思い出す。
その時も、互いの境を閉じ込める事で、救い出す事が出来ていた。
此度の変貌にもそれが通用するなら、救い出してやる事が可能かもしれない。
「まず、やってみるしかないな。殺す事なく拘束せよ。皆、手伝え」
「……え、己もか?」
「お前は高みの見物でもしてろ。こういう荒事に向いてないのは、よく知ってる」
言うなり、ミレイユはバルコニーから飛び降りた。
アヴェリンを筆頭にし、レヴィン達も飛び降りて、暴れる兵へと近寄っていく。
変貌した兵の数は百体近くに及んでいて、そして既に拘束しようと動いている部隊もあった。
生前とは違い、その膂力も尋常でないものになっている様で、一般の兵は大いに苦戦している。
数人掛かりでも、その場に留めるだけで限界の者が多かったが、結希乃たち隊士は上手く無力化に成功していた。
レヴィン達も苦戦している者達を手助けし、力任せに地面へ押し付ける。
近くで見るとより顕著に異質が分かり、人というより獣と見た方が良いぐらい、理性というものを失くしていた。
ミレイユは拘束されている一人に近付くと、『鍵』を突き刺し、そうして手首を捻る。
すると、唐突に全身が黒く染まった。
絵の具を被った様な姿になり、身体の端から頭部へと、黒泥が一点に集中する。
最後には丸薬程にまで縮小され、そうして遂に身体から離れた。
それを魔術の炎で消し飛ばすと、兵士は完全に淵魔から解放され、元に戻る。
気絶はしているが呼吸は正常で、何事もない様に思えた。
「やった……!」
レヴィンが歓声を上げると、周りの兵も声を上げて喜んだ。
しかし、ミレイユは何処までも冷静で、手近な兵に指示を出す。
「念の為、他とは隔離して経過を見守れ。もしかしたら、時間を置いてまた、変貌したりするかもしれない」
「ハッ、承知しました!」
兵士が敬礼して、感謝の念を向けながら兵を運び出した。
助かる事例が発見されたことで、兵の間もにわかに色めき立つ。
やはり大丈夫だ、もう大丈夫だ、という楽観した空気すら流れた。
神は偉大だ、かく助け給う、と言わんばかりだった。
「
「……あぁ、いま診る」
そうして、次々と拘束される変貌した相手に、ミレイユも手早く治療を施していった。
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