ロシュに降り掛かる悪夢 その8

 大神殿を守る任を受けたレヴィンたちは、全ての補給と回復を終えるなり、城壁の上へと登っていった。

 既に兵は整列を始めており、いくさ前の慌ただしく、緊張を含んだ空気が蔓延している。


 後から合流したレヴィン達にも、それぞれ場所を割り当てられ、そして最も激戦となりそうな正面中央へと配置された。


 右隣には元よりいた神殿騎士や兵士と、鬼族の混成部隊。

 そして左隣には、異世界・日本からやって来た、結希乃が率いる歴戦の猛者達が控えている。


 彼らは全員、刻印を使わない天然の魔術士だ。

 刻印の数に応じて魔力を食われる現代の魔術士と違って、彼らはその全てを自由に扱える。


 だから、その制御技術も極限まで磨き上げられていて、今のレヴィンであっても、決して疎かに出来ない相手でもあった。


 隊を預かる者同士、そして旧知の間柄として、レヴィンは結希乃に声を掛ける。


「どうも、ご無沙汰しております」


「ご無沙汰……、という程ではないけれど。でも、貴方は随分、見違えました」


 社交辞令とも取れるが、適切ではなかった、とレヴィンは言われて気付いた。

 実際のレヴィン達は、日本を離れて既に一年が経過しているが、結希乃の感覚からすれば、最後に稽古場を訪れた時が最後の出会いだ。


 そこに食い違いが出るのは当然で、そしてそこに失念していた自分を恥じた。

 しかし、結希乃はそこを深くは考えず、上から下まで興味深そうに見つめてから、小さく微笑む。


「御子神様とご一緒で、その御神徳の栄誉に預かれたのでしょうか。よく鍛えられているようです。まるで一年間、山ごもりでもしていたかのよう」


 実情は全く異なるが、似たような事をして、この一年を過ごした。

 妙に鋭いその感覺に、畏怖と感銘を受けながら、レヴィンは苦笑する。


「いや、似たようなものです。随分と鍛えていただきました」


「大変貴重で、そして恐れ多い体験をしましたね。神からの手解きなど、早々ありませんもの」


 やはり良い様に解釈されて、レヴィンはその笑みを、更に苦いものに変えるしかなかった。

 実際は山ごもりほど良いものではなく、神が作った迷宮に、ひたすら挑戦させられただけだ。


 しかし、それが間違いなくレヴィン達を急激に成長させてくれたので、怨みよりも感謝の方がずっと強い。

 それでも、上手く言葉を返せずにいると、結希乃が遠方へ視線を向けて、低く声を上げた。


「あれは……」


 レヴィンもその視線を追って顔を向けると、遠くに砂塵が舞っていた。

 大量の何かが地を蹴っていなければ、あぁした現象は起こらない。

 そして、この状況ならば何が迫っているかなど、今さら考えるまでもなかった。


「……来たか」


 更によく目を凝らせば、黒い何かが地を這う様に、迫っているのが見える。

 ――間違いない、淵魔だ。


 先に行われた攻防戦でも、よく似た光景を目にしたレヴィンだ。

 見間違えようもなかった。


 これが援軍の起こす砂埃なら、どれほど頼りに思えたことだろう。

 しかし、距離が縮まり全貌を現すにつれ、いやでも現実を突き付けられる。


 結希乃は大量の無垢サクリスを見つめながら、乾いた声音で呟く様に言う。


「あれが、淵魔……。御子神様が戦う……そして、この世界に住む汎ゆる命の敵……」


「どういう手合か、既に話は聞いていますか?」


「えぇ、オミカゲ様より、しかと御注意賜っております。人ならじ、汎ゆるモノを喰らっては、己の力とするのだとか……。接近されない事を第一に、防護術を怠りなく展開すべし、とご忠告までいただきました」


 淵魔の特徴と、恐ろしい所は正にそれだ。

 強力な味方がいることは本来歓迎すべき所だろうが、もし捕食されたら、それだけの戦力が敵に渡ることを意味する。


 だから一方的に力押しで圧殺するか、それが無理なら防御を固めて傷を負わないのが最適解だった。


「それだけご存知なら、淵魔と戦うのに支障はないでしょう。……それに、やはり戦力の主体は無垢サクリスの様です。隊士の皆様が日本で見た方々と同じ力量なら、まず苦戦する相手ではありません」


「なるほど……。しかし我々は、これまでの経験上、防衛戦を得手とはしていません。特に城壁の上に陣取っての攻防戦に経験がなく、教養以上の理解もないのです」


「そう……なのですか」


「えぇ……。私共の敵である鬼は、野戦を強要される相手でもありましたので……。でも、だからこそ、城壁に乗り込まれてからの攻防は、期待していただいて結構ですわ」


 結希乃の横顔は、自負に満ちた凄味に満ちていた。

 うっすらと浮かべた笑みは、美しくも恐ろしい。


 レヴィンが思わず見惚れていると、そのすぐ傍で控えていたロヴィーサから、脇腹を殴られた。


「うごっ……! な、何するんだ、ロヴィーサ……!」


「あまり不躾に女性の顔を見つめませぬよう……。特に貴位の高い御方に対しては、明確な無礼に当ります。国が違うどころか、世界が違うのですから、その辺りは慎重に……」


「嫌ですわ、見つめられたくらいで気にしたりしません。それに、見られるのも仕事の内だと、心得ています」


 結希乃は全く嫌味でない笑みを浮かべ、レヴィンとロヴィーサを交互に見つめた。


「我ら御由緒家とは、そういうものなのです。でも……」


 結希乃はロヴィーサの中にある、小さな嫉妬心を正確に読み取り、微笑ましいものを見るように頷く。


「貴方はもう少し……、機微というものを身に付けた方が良いでしょうね。あまり女性を泣かせない様に」


「は……、は……? いや、泣かせたことなどありませんが……」


「そうですかしら?」


 結希乃が余裕たっぷりの笑顔を見せ、それにも見惚れそうになった時、すかさずロヴィーサから一撃が入る。


 今度は容赦のない一撃で、脇腹から内蔵にまで達する重い貫手が突き刺さった。

 思わず息が止まりそうになり、涙目さえ浮かべて、ロヴィーサへ振り返る。


「何するんだ……! 戦闘前にいらん傷を増やすな……!」


「私は存じ上げません。何か天罰でも下ったのでは?」


「そんなわけないだろ……! 何だってそんなマネ……!」


「あらあら……」


 二人の遣り取りを微笑ましく見ていた結希乃だが、遠方から迫る影が大きくなって来たのを見て、顔も口調も切り替える。


「さぁお二方、いよいよですよ。緊張も程良く解けているようですし、戦働きは期待しても良さそうですね」


「え、あ……これはお恥ずかしい所を! そうだ、敵は目前なんだ。ロヴィーサも気を引き締めろ」


「それは正しく、若様にこそお聞かせしたいセリフですが……」


 未だ以て機嫌を損ねているロヴィーサが、顔を背けながら言った。

 しかし、彼女も討滅士として心得があるので、いつまでも子供じみた振る舞いは続けない。


「敵は莫大、味方は僅少きんしょう……。先の焼き増しの様な光景ですが……」


「今度は心強い味方がいる。そして……」


 一度、結希乃と隊士達に目を向け、そして今度はその更に背後、ルチアが展開した巨大な結界へ視線を移した。


 中庭の多くを隔離してしまった巨大な結界だが、その中でミレイユが戦っていると分かれば、勇気も湧いて来る。


 そして、ミレイユだけで戦っているのではなく、そこにはアヴェリンとルチアも参戦していた。

 これで何かに敗北を喫する姿など、レヴィンには想像もできない。


 そして、幾らもせず勝利を収めた後、その強大な力で淵魔を一掃してくれると、そう信じられた。


 それは必ず到着すると約束された、援軍を舞っている気分にも似ている。

 勝利は絶対条件ではない。


 ミレイユが敵を片付けるまで、この場を死守するだけで良かった。

 そう思えば、淵魔がどれだけ多かろうとも、恐れることはない。


「俺達は、俺達の役目を果たそう。一度やった事だ、要領は分かってる」


「若様とヨエルはそうでしょうけど……」


 ロヴィーサは不満そうに言葉を吐き、それから淵魔の大群に向けて怒りの視線を向けた。


「ともかく……私としても、お役目は変わりません。若様をお守りする事こそ本懐です」


「いや……」


 いつも通りの台詞なのに、レヴィンはそれが、どこか不吉なものに聞こえてしまった。

 まるでどこか遠くへ行ってしまう気がして、言葉を改めさせようと顔を向ける。


 しかし、その機会は永遠に失われてしまった。

 直後に、ヴィルゴットより号令が掛かったからだった。


「これより淵魔迎撃戦を始めるッ! 敵は多かろう、しかし我らの背後には神がおられる! 我らが勝利を、大神レジスクラディス様に捧げる喜びを、共に分かち合おうぞ!」


『オォォォオオオオ……ッ!』


 歓声と怒号が入り乱れる。

 声を出す事で恐怖心を薄れさせ、また士気を高めるのによく用いられる方法だ。


 良い指揮官は、こうした激励や奮起のやり方が非常に上手い。

 そして、ヴィルゴットの声は良く通り、上手く抑揚を付けて気分を昂ぶらせてくれる。

 類まれな演説巧者と言えた。


「接近するより前に、刻印部隊で魔術の包囲殲滅を試みる! 魔術士部隊、打ち方用意!」


 ヴィルゴットが手を挙げると、それに合わせて城壁の高台から、攻勢魔術の展開が始まった。

 それを見た結希乃も、麾下の隊士に号令を掛ける。


「様子見などと、小さなことは言わない。我らがオミカゲ様の加護ぞある! 理術がいかなるものか、この世界でも知らしめてみせよう!」


 結希乃の発奮で彼女の隊士もいきり立ち、大規模な理術で以って返礼とした。

 ――世界の命運を掛けた戦いが、再び始まる。

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