砂となり、塵となり その8
黒泥から開放されたアルケスは、しかし、今にも命が消える寸前だった。
痩せこけた顔も変わらず、肌には血の気もない。
ただ虚ろな視線が、ミレイユをひたりと見つめていた。
「……アルケス」
ミレイユの呼び声にも、さしたる動きを見せない――と思った矢先。
果たして、反応はあった。
請うように手を伸ばそうとしたが、半分も持ち上がらず、そのまま力なく落ちる。
「アルケス、お前はもう助からない。幾ら頑丈な神の肉体でも、そこまで損耗してしまえば、癒やす手段など、どこにもないだろう」
「あぁ……、レジス、クラ……」
アルケスの声はか細く、殆ど声になっていなかった。
命は風前の灯火で、今この瞬間に尽きても不思議ではない。
黒泥が身体から離れる時、内在する生命力も一緒に抜けたかの様だ。
いや、実際にそうだからこそ、起きている状態に違いなかった。
「僕は……、認めて貰いたかった。お前に……、一角の、神であると……」
「……そうか。だが、やり方を間違ったな」
「そうだな……。もっと、上手いやり方が、あった……」
アルケスの瞳から、一粒の涙が流れる。
何故こうなったのか、彼自身も理解していないだろう。
そして、この事態にまで追い込んだのは、他でもない淵魔と……その『核』だった。
「もしも、お前が『核』と疎通しなければ……。もしも、お前がもう少し大人だったら……。もしも、お前が新しい世に順応できていたら……。こういう事にはならなかったろう」
アルケスは昔から、子供の稚気が抜けなかった。
そして、神という存在は誰より崇められるべきと考えていて、徹底した差別主義者でもあった。
人間誰しも平等ではない。
人の中にも上下があり、それを是とするならば、その上に神がいて、神の意思一つで人間が罰せられるのも当然と考える者だった。
神が人の上に置かれるのは当然、それはミレイユも認める所だ。
しかし、その為に神が行う汎ゆる自由を、ミレイユは許可しなかった。
神による私刑は認めなかったし、罰するならばその証拠と、相応の理由なくして行うべからず、と達した。
それは神が従う、数ある律令の一つに過ぎなかったが、一つ一つ自由を奪われていく窮屈さに、アルケスは馴染めなかった。
馴染む努力を放棄していたように思う。
耳の傍を羽虫が飛んでいた――。
ただ、それだけの理由で、人は虫を殺す。
それが許されるのならば、神もまた同じ理由で人を殺して良い、という理屈を崩さなかったのだ。
神はそれ程に偉大、と主張したかったのだろうが、ミレイユは頑としてその主張を許さなかった。
神による支配する世界は終わり、次の時代へと移る――。
その新たな世を受け入れざるを得ない状況を、アルケスは拒否した。
そうして結局、従うしかないから従い……しかし、見咎められて罰を受ける事を繰り返し、最終的に逃げて姿を隠した。
「姿を隠しているだけなら良かった……。飽きれば帰って来るだろう、と思っていた。追い掛け、捜していれば……もしかすると、今と違う事になっていたかもしれない」
「待っていたよ……、捜してくれるのを。そして……、見つけてくれた」
「遅すぎた。……それに偶然だ。再び顔を見せた時、変貌していたのは、長い年月を経たからだと思っていた。そこまで怒りを滾らせ、怨みと復讐を果たす為なのかと……」
だが、そうではなかったのだ。
長い年月は人を変える……確かに、それは神とて例外ではない。
ミレイユはそう思っていた。
長く恨んでいたからこそ、ここまで大きく捻れたのだ、とも思った。
しかし、アルケスの言動は根本の怨みから、大きく逸脱しているように見えたし、それがミレイユに考えを改めさせる原因にもなった。
「自分の意識はあったか……? 『核』の狙いは何だ。教えてくれ、お前の仇を討ってやる」
「意識は、あった、ような……。なかった、ような、さ……。全然……、いう事……き、きかずに……困って……」
「あぁ……」
アルケスの言葉はたどたどしく、喘鳴と共にあり、また意識も既に朦朧としていた。
ミレイユが催促したい気持ちを抑えて、辛抱強く続きを待っている。
「東と南の両方から、淵魔を……出したのは、陽動だ……」
「やはり、そうだったか……」
ミレイユは舌打ちと共に顔を顰める。
分かっていても――その可能性を考慮しても、対応せざるを得なかった。
此度の氾濫は、神々の出動以外に堰き止めるのは不可能で、もしも出向いていなければ、やはり淵魔は壁を越えただろう。
だが、淵魔の残数とは即ち、『核』からすると命のストックに等しい。
今回で大量に磨り潰してでも、壁の外に出る意味はあったのだろうか。
それが出来るなら、もっと早い段階でも実行に移せた筈だ。
どうにもスッキリせず、疑問ばかりが膨らんでいく。
しかし、アルケスはそれに明瞭な答えを返した。
「人を、喰らわず……淵魔に出来る……。淵魔を、人に喰わせる事で……」
「馬鹿な……。そんなモノ、喰らう馬鹿が何処に――いや!」
ミレイユは“新人類”とやらが所持していた丸薬と、それを受け取り、逃げたアルケスの場面を思い出していた。
あれこそが、“淵魔”だとしたら……。
「アレか……、あの“丸薬”。……あれが実は淵魔だったのか?」
「あれは……、淵魔の煮凝り……みたいなものだ。
「特殊な能力を得ているのも、そのせいか……」
魔術にもなく、刻印にもない能力を獲得していたのは、正にそれだったのだと理解した。
淵魔ならば、複数の能力を掛け合わせ、新たな能力を獲得するのに向いている。
そうして出来た能力を、人間に与えて操る。
それが“新人類”の正体だ。
「だが、何故……淵魔のままじゃ駄目なんだ。余計な一手間の様に見えてならない。それだけの能力を獲得した淵魔なら、十分、実戦で運用可能なレベルだろうに……」
「ふ……ふ……、お前、でも……分からないのか。考えれば、明らかだろう……? 淵魔は、馬鹿、だからだよ……」
そう言われて、ミレイユはハッと顔を上げた。
人間を喰らった淵魔は、これまで幾度も見てきた。
しかし、明確な知恵を獲得した淵魔が誕生した事例を知らない。
そういうものかと思っていたし、生命を喰らう事を前提とする生態だから、そうした性質になると思っていた。
だが、実はそうではなかったのだ。
人間に近しい肉体を手にしても、その知恵や知能を引き継ぐことはない。
だから、なのだ。
そして、そのままでは運用に不都合だから、逆の可能性を模索した……。
そういう事なのかも知れない。
「喰らう毎に、強くなる、淵魔だが……。その度に、より狂っていく。動物、魔物、そうした精神が混ざり合って、どうしようもなくなる……。非常に……単調な命令しか、受け付けなくなるのさ……」
「そうか、それでは兵としては不都合か。雑兵としてはそれで良くとも、便利使いしたい……細やかな命令を遂行して欲しい兵としては、殆ど絶望的だからな」
例えば、捕獲しろ、という命令さえ、過度に捕食した淵魔は遂行できないだろう。
それより前に喰らってしまう。
だが、獲得した能力だけ抽出した物を、人に与えたならば話は別だ。
人としての高い知能をベースに、その能力を駆使してくれる。
便利使いできる兵として利用できるだろう。
そして実際、インギェムやルヴァイルを襲った時や、ロシュ大神殿で潜伏させていた兵の様に、要所で上手く利用していた。
「獲得した、能力を……成長させるのにも、一役買ってる……。人間ベースだからこそ、できる……こと……。それが、それこそが……重要だ……」
「ああ、分かる。ルチアの予測通りだったか……」
常に掛け合わせ、賭けに応じて能力を作っても、弱くては使い物にならない。
しかし、それを成長させられるのなら、弱い能力にも使い道が出て来る。
「だが、それならつまり……、兵の中に“丸薬”を喰わされた奴がいるってことか」
「……口から、食う必要は、別に……ないだろう。噛み付いた、拍子にでも……、傷口に……押し込め、ば……」
「――逃がしたルートが分かった。……最悪だ」
ミレイユは悪態と共に、腕を横へ一振りする。
感情の発露と共に吐き出された力が、結界に当たって、それ自体を揺るがしかねない衝撃で撓んだ。
「ミレイさん、落ち着いて……」
ルチアがその肩を撫でて宥めながら、そうして至った一つの結論を口にする。
「つまり、重傷者の中に、既に感染者がいるんですね? 今も懸命に助けようとしている、その兵の中に……!」
「私の指示が仇となった……。『孔』を用意させて、安全な後方へ瞬時に移動できるようにさせたが……。その後方に、感染者が運び込まれた!」
そして何より屈辱的なのが、外へ逃がす手伝いを、自らしてしまったという事実だ。
ミレイユの拳は怒りで震える。
壁の奥、大陸の端へと、追い詰めたと思っていた。
それは事実でもあったが、最後にその手の隙間から、スルリと逃げられた。
これでは、壁の中でどれだけ淵魔を擦り潰そうとも、最早意味などない。
それどころか、続ける程に民衆の中へと、淵魔を潜り込ませる事になってしまう。
ミレイユは一度大きく息を吐き、努めて冷静さを失わないよう、自らを制御していた。
三度目の呼吸で息を整え終えた後、改めてアルケスに向き直る。
「お前の協力に感謝する。最期に、神としての責務を果たしたな」
「……本当は、お前のように成りたかった……。誰からも、敬われる……」
「あぁ……」
「何もかも、失ってしまった……。この身には、権能の力さえ、残っていない……。何もかも、奪われてしまった……」
その言葉を皮切りとして、アルケスの身体が崩れ始める。
元より骨と皮しかない様な身体だったが、それにヒビが入り、次々と砕けては粉になって消えて行く。
「レジ……、クラ……。すまな……」
最期の言葉も、全てを言い残すことは出来なかった。
最初に見せた一粒以外、涙が見えなかったのは、それさえ枯れ果てて出なかったからだ。
こうして、汎ゆる意味で全てを利用されたアルケスは――。
砂となり、塵となり……風に溶けて消えていった。
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