砂となり、塵となり その6
目前までに迫る光景に、アイナは何事かへの覚悟を決めた。
槍の様な腕が、
そして、それが唐突に弾かれた。
身体の前に突如として防膜に似た光が現れ、それがアイナを守ったのだ。
しかし、アイナは自分に防護の理術など使っていないし、誰かに使われた覚えもなかった。
そして、それが何か魔術的恩恵ではないと、直後に悟る。
胸の内から温かな光が漏れ、それがアイナを護っていた。
理術でもなく、誰からの魔術でもなく、そして刻印でもない……。
しかし、その温かな光には覚えがあった。
それも、幼い頃から当然の様に向かい合っていた、陽だまりにも似た光だ。
そして、それは御由緒家に近しく接する者ならば、誰しも知っている光でもあった。
「……オミカゲ様」
アイナの声から、その御名が漏れる。
まるでそれに呼応する様に、光が更に溢れて、アルケスの腕を押し返した。
その時、日本から改めて異世界へ旅立つ際、アイナがオミカゲ様から賜った言葉を思い出す。
――我、オミカゲの加護ぞある。異なる世界であろうとも、我が氏子は信念を貫けるだろう。
オミカゲ様が、アイナを護ってくれたのだ。
その感動に打ち震えている間に、防護の膜に切れ目が入った。
死の危機に際して発動した権能は、余りに僅かな力でしかなく、一度きりのその力が今まさに失われようとしていた。
しかし、アイナの危機を救うには、その一瞬だけで十分だった。
※※※
「――アイナァァッ!」
あと一歩。
あと一歩が届かない。
そして、それは不条理な現実を突きつけられる距離でもあった。
レヴィンは叫ぶままに腕を伸ばし、刃の切っ先だけでも当たらないかと振り上げる。
背後からでも、アルケスの醜悪な笑みが見えるかのようだった。
背中から立ち昇る歓喜と愉悦は、それ程までに濃い。
だが、その直後、悪辣な感情は凍り付く。
アイナに突き刺さると思った攻撃は、何の奇跡あっての事か、直撃する寸前で受け止められていた。
しかし、防護力はそれほど大きくもないらしい。
既に一度の直撃で、その加護が失われようとしている。
――それでも、レヴィンにはその一瞬で十分だった。
「ウォォォォォッ!!」
裂帛の気合と共に、アクスルを斬り付ける。
背中から肩を斬り裂けば、その腕がだらりと落ちた。
また、その衝撃から態勢を崩し、アイナへ倒れ込もうとしている。
「拙い……ッ!」
更なる一刀を加えようと、カタナを返して逆袈裟の一撃を叩きこもうとした瞬間、上から急襲したエモスが、その身体を蹴り飛ばしていた。
「オッラァァァァッ!」
しかも、着地そのままに頭を踏み潰し、見事に砕いてしまっている。
レヴィンの逆袈裟はエモスに奪われ外してしまったが、しかしそのフォローにヨエルが動いている。
大上段から振り下ろされた力任せの一撃は、再び腰から上下に両断した。
切断面から触手が伸びようとした所に、ロヴィーサが覆い被さる様に着地して、下半身を弾き飛ばす。
「無駄な足掻を……!」
その先で改めて斬り刻めば、下半身は泥となって地面に溶けていった。
上半身からは触手が助けを求めるように首を
そして、首なしの上半身だけになったアルケスは、蠕動と共に再生が始まった。
より一層、生気を失った頭が生え、肉が削げ落ちた顔はゾンビの様にも見える。
そして、胴体の切断面も蠕動したが、見せる動きはそれだけで、新たに生えてくる気配は見受けられない。
とうとう最低限の肉体を、維持する生命力さえ尽きたのだ。
「――終わりだ、アルケス」
腕だけで身体を起こそうとしていた首元へ、レヴィンはカタナの切っ先を向ける。
他にも周囲にはヨエルとロヴィーサ、エモスまでがいて、誰もが一撃をくれてやろうと窺っていた。
浮いた背中からは、これまでより遥かに少ない触手が飛び出る。
しかし、その僅かな抵抗すら、ヨエルに斬り裂かれて地に落ちた。
それこそが最後に振り絞った力で、汎ゆる抵抗が無意味と分かる瞬間だった。
それでも、肉の薄い顔で、アルケスは不敵に笑って見せる。
「終わりだと……? 終わりではない、全く終わりではない。壁の外に出たぞ……? 淵魔が……、淵魔の……、壁の外にだ……」
声は震えて、力が感じられない。
恐怖からの震えではなく、声帯を動かす満足な力さえ、その身体には残っていないのだ。
とうとう、身体を支えていた腕からも、その力が失われて倒れ込む。
それでもアルケスの顔には笑みが貼り付いていた。
「言っておくが、救援を期待するだけ無駄だぞ。我らユーカードの精兵、そして鬼族の精兵が、淵魔の侵攻を防いでる。仮に突破して来ても、接近する前にお前ぐらい殺せる」
それは紛れもない事実だった。
レヴィンに限らず、誰も彼も疲れ果てているが、最後の一刀をしくじる程、満身創痍ではない。
そして、精兵達にとっても、それは同様だった。
アイナが作った石壁を起点に、淵魔は二手に分かれていたが、その反対側となる現在地へは到達できないよう、彼らが壁として立ち塞がっている。
彼らとしてもギリギリで、既に多くの余裕はない。
だから、話す余裕など持たず、この場で即座に討滅するのが正しい行いだった。
それはレヴィンにも分かっている。
しかし、この勝利の時を手中に納めた時、謝罪の言葉を引き出したいと思った。
この世界に対して、無惨に利用された者達に対して、汎ゆる悪徳に対して謝罪すべきだと――。
だがアルケスは、そうした殊勝な性格はしていない。
それもまた、レヴィンはよく分かっている。
しかし、最期の時となれば、普段は出てこない言葉を引き出せないかと、そう考えてしまった。
「懺悔があるなら聞いてやる。――謝れ。お前の悪意に晒された、全ての被害者に対して」
「壁の外だ……、まだ終わってない……。まだ……」
アルケスの目は虚ろで、既にレヴィンを見ていなかった。
現実を受け止められないのか、それとも別の理由か――。
遠くを見つめたまま、ブツブツと呟くだけで、レヴィンに応じる様子は全くなかった。
「やれるんだ……、まだ淵魔がいる……。外に出たんだ、これから……」
レヴィンの顔が怒りで染まり、刃の切っ先がそれで震えた。
刃先を強く押し付け、頬を大きく斬り裂いた。
しかし、淵魔となった肉体からは、血の一滴でも流れはしない。
痛覚すら淵魔化によって失ったアルケスには、これは脅しにもなっていなかった。
そして、アルケスは変わらず虚ろな目を向けるだけで、やはり反応もない。
同じく剣を突き付けていたヨエルが、嘆息混じりに呟いた。
「……若、こりゃあ無理だぜ。それに、どうせ殊勝な台詞なんて出るもんか」
「しかし……! こいつがして来た事を思うと……!」
「分かるぜ、よく分かる。俺だってその顔面踏ん付けて、唾吐いてやりてぇよ。……けど、無意味だ。それなら、早くコイツを討滅してやる方が、味方を助ける手立てになる」
「そうだな、そうするのが一番だ……!」
レヴィンはいよいよ刃を振り上げ、頭上で止める。
アルケスから一切の反応はなく、この期に及んでも抵抗する素振りもない。
レヴィンは全員に一度、視線を向けて、その顔を見つめた。
誰からも同意する視線が返って来て、そして唯一アイナだけは、顔を背けて直視しないようにしていた。
「……あの世で永遠に悔いろ、アルケス」
レヴィンがカタナの柄に力を入れ、振り下ろそうとした、その時だった。
アイナが用意した石壁の上を、淵魔たちが駆けて来る。
それこそ津波が押し寄せるように錯覚する程、膨大な数での攻勢だ。
これだったのか、とレヴィンは歯噛みする。
壁の外に出ても尚、勝利を諦めていなかったアルケスは、これを待っていたのだ。
レヴィンはそれでも、淵魔よりアルケスの討滅を優先する。
「――チィッ!」
振り下ろされた刃が、アルケスの頭を両断し、首が飛んで落ちた。
しかし、切断したからといって、即座に生命力は失われない。
切断された部位から触手が伸びて、意地汚くその生命を留めようとしている。
完全に溶けて消えるまで……朽ちる直前であろうとも、その生命は健在なのだ。
「若、どうする!?」
「迎え撃ちますか、若様……ッ!」
「えぇい、チンタラしているから、そういうことになるのだ!」
エモスからも苦々しい口調で叱責され、注意がアルケスより淵魔に向けられる。
既に奴らは壁の縁まで到達していて、飛び掛からんと態勢を低く構えていた。
今すぐアルケスを細切れにしても、淵魔の突進までは止められない。
そしてアルケスを討滅したからと、淵魔は勝手に自壊する訳でもなかった。
「とにかく、今は――!」
――淵魔に対応するのが最優先。
そう指示しようとして、声が止まった。
キンッ、という澄んだ音と共に、周囲に広大な結界が張られたのだ。
それまであった、淵魔と相対する兵たちの怒号までが消え、外の音が一切入らなくなる。
「これは……!」
ロシュ大神殿でも見た光景だ。
まさかと思って頭上を見れば、予想以上に近い位置に竜がいる。
より厳密に言うなら神の赤竜で、それが緩い弧を描いて、滑空して来る所だった。
そして、その頭の上にはミレイユが、玉座として座り、鋭い目つきで眼下を睥睨していた。
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