反撃の狼煙 その3

「ぐぁっ……!」


 至聖処には、悲鳴と共に一つの人影が飛び込んで来た。

 そのまま転がり、石床へ倒れ伏したが、その意志までは尽きていない。


 起き上がろうとしていたのは神使のナトリアで、全身傷だらけであり、既に満身創痍の状態だった。


「も、申し訳ありません、ルヴァイル様……」


 何とか立ち上がろうとしたものの、上半身を起こすのが精々で、これ以上の戦闘は不可能に見えた。

 そして、それを一番悔しがっているのは、ナトリア本人に違いない。


 レヴィンは思わず顔を顰め、床に片膝立ちのまま乱入者を睨む。

 ――アルケスだ。


 いつかと同じ様に、顔を半分隠したままのローブ姿で、この場に現れた。

 そして半分しか見えないとはいえ、その姿を見間違えるはずもない。


 ルヴァイルとの対談は、ごく短い時間になる予定だった。

 そして、護衛の任を改めて許可して貰えれば、またすぐ別室に帰る予定でもあったのだ。


 この神処にアルケスがやって来るのは始めから分かっていた事で、そしてルヴァイルを脅し付ける為に、淵魔を用意して襲撃して来る事まで想定済みだった。

 それは既に、ルヴァイルも承知していた事だ。


 そして、その話を受ければとりあえず、ミレイユ放逐のその時まで、身の安全が保証されるという事でもある。

 それまでレヴィン達は神処を護衛する一兵士として身分を隠し、来る時に備えているつもりだった。


 まさか、その場面に遭遇するとは思っていなかったが、万が一に備えていたのは正解だった。

 実際に迷宮から送り出される直前になって、ユミルに持っておけと言われた時は、少ない確率に神経質過ぎると思ったものだが、何事も備えあれば憂いなしだ。


 ただ意外だったのは、アルケスが一人だけ従者を付き従えていた事だ。

 姿形は完全に人間で、肌の色が病的に悪いという以外、さしたる特徴もない。


 ――新たに選定した神使だろうか。

 しかし、神として表立って動けない以上、神の名を使って行動するのはリスクばかりが目立つ行為だ。

 単純に護衛のつもりなのか、果たして……。


 レヴィンが冷静に分析していると、アルケスがズカズカと乗り込んで来て、レヴィン達を腕の一振りで吹き飛ばす。

 石床を転がりながらも受け身を取り、早速正体がバレたのか、と身を固くした。


「く……っ!?」


 しかし、そうではない、と直後に分かる。

 単にレヴィン達がルヴァイルと対面する位置にいて、邪魔だから吹き飛ばしたに過ぎなかった。


 その証拠に、アルケスはレヴィン達を全く気にした様子もなく、そのままヴェールに包まれたルヴァイルを見つめ、そして宙に浮かんだ。


 視線を上げる――見上げる格好を許容できない故の行動だった。

 アルケスは、ちらりとだけレヴィン達に目を向け、そして再び正面を向く。


「……なぁ、ところで人獣が、どうしてこんな所にいるんだ? ケモノ臭くて敵わん。アレはお前の新しいおもちゃか?」


「随分と無礼な真似をする事……。そして、よくも顔を出せたものですね」


「そうとも、その為の準備が整ったわけだからな。俺が永遠に逃げ隠れしていると思ったか?」


「思いませんね。最後にはミレイユに見つかり、引き摺り出されるものとばかり……」


 その挑発めいた台詞に勘が触ったのか、アルケスはまたも腕を一振りした。

 それでヴェールが千切れ飛び、ルヴァイルの姿が露わになる。

 彼女の表情は、明らかな怒りと敵意に満ちていた。


「今さら少し攻撃されたくらいで、怖気づくと思いましたか。逃げ切れないと悟って、口利きを頼みに来たというのなら、聞いてあげなくもないですが」


「お前は立場というものを分かっていないな。何故、わざわざ顔を見せたと思う? 何故、こうして口を利いてやってると思うんだ? 必勝の策があるからだ」


「そう……」


 ルヴァイルは侮蔑も顕に、口の端に笑みを浮かべる。


「それは結局、ミレイユに蹂躙される程度の事を、策と言っているの?」


「言葉には気を付けろよ、ルヴァイル。今現在――いいか、今現在だ。どちらが優位に立っているか、分からない程マヌケじゃないだろう」


「さて……? たかが衛兵と神使を退けただけで、よくもそこまで増上慢になれるもの。どうせあなたの事だから、正面から倒した訳でもないのでしょう?」


「勝負は勝ってこそ意味がある。そして勝利しなければ、何を口にする権利もないのだよ。そんな単純な事も分からないのか」


「それで今はあなたが有利? 冗談でしょう? 階下にはまだ多くの神官騎士がいるし、何より事態はすぐにでも明るみに出る。されば、ミレイユが直ぐにでも駆け付けて来るでしょう」


 ルヴァイルが小馬鹿にした様に鼻を鳴らす。

 しかし、アルケスにとってそれは予想内の反応だったのか、こちらも同じ様に小馬鹿にした態度を取った。


「いいや、事態は明るみに出ない。お前こそが、その口を閉じて報せないからだ」


「馬鹿な事を……。あり得ません」


「そうかな? 神処周りを見てみろよ。神ってのは、覗き見が大好きなものだろう?」


 揶揄する仕草に、ルヴァイルは眉間の皺を深めた。

 しかし、見ろと言われて見ないままでは、その余裕の表れを確認する事も出来ない。


 ルヴァイルは視線をアルケスに縫い留めたまま、片手で魔力を制御して遠見の魔術を行使した。

 顔面から少し離れた右側面に、空中に投影された映像が映る。


 そこには、上空から見た神処が映し出されていた。

 山の上に作られたその姿は、上面から見ると底面に向かって層が大きくなる形をしていて、側面から見た場合、台形の箱を重ねたようにも見える。

 その全三層で構成される神処には、周囲に黒い影が蠢いていた。


 十や二十では利かない。

 それより遥かに多い不定形の化け物が、神処に纏わり付いて蠢いている。

 見間違えようもなく、それは淵魔に違いなかった。


「これ、は……!」


「お前は飛んで逃げられるだろうな、……お前だけは。しかし、その時は神処に居る全員を喰らってやるし、何より山の根本にある街も、同じ目に遭わせる」


「卑怯な……!」


「何とでも言えよ。それとも、見捨てるか? 全体の信者数から見れば微々たるもの……、損なっても問題ないって考えか? ――おっと、神ってのはそうであるべきだ。俺は奨励するがね」


 ルヴァイルは唇を固く引き結び、これに応えはしなかった。

 しかし、その瞳が何よりも雄弁に語っていて、決して思う様にはならない、と告げていた。


「まぁ、お前は大神側の神だ。そう簡単に頷けないってのは、分かってやれるつもりだよ。だから、教えておいてやろう。――インギェムはもう墜ちたぜ」


「馬鹿なっ!」


「馬鹿も何もあるか。俺に協力するって言質を取った。同じ様に信者どもを脅しに使ったし……、そしてお前自身もその脅しの道具だ。ルヴァイルだけには手を出すな、と言われたが……従順である限りは、と保障したらすぐに頷いたよ。情けないねぇ……?」


 そう言って自慢気に笑い、そして肩を竦めて首を左右に振る。


「しかし、良いのかねぇ。神ってのは、もっと平等に全てを扱うべきなんじゃないのか? 己の信者可愛さ、知己の神の命欲しさ、そんなのでコロっといっちまうのが、神の正しさなのかねぇ?」


「インギェム、までも……!」


「お前たちは互いに鎖を握る人質みたいなもんだ。どちらかが手を離せば、どちらかが死ぬって寸法だ。我が身が可愛いなら、敢えて手を離すのも一興と思うが……。どうせ出来やしないだろ?」


「この、外道が……!」


 ルヴァイルは唾吐く思いで怒りをぶつけたが、アルケスはむしろその罵倒が心地よくて仕方がない様子だ。

 完全な優位に立っているからこそ、見せられる余裕だった。


「どうする? 断るならそれでも良い。……とは言え、どうせお前には無理だろうがな」


「わ、かりました……。どうか、インギェムの無事を保障して下さい」


「あぁ、勿論。勿論、良かろうとも」


 アルケスの顔下半分が醜悪に歪む。

 肯定していつつ、裏ではどう考えているか、よく透けて見える表情だった。


 ルヴァイルが見せている態度も表情も、全てが演技だとはレヴィンも理解している。

 しかし、アルケスの心の奥底に隠されていた、醜悪でヘドロの様な心を見せられて、レヴィンは怒りを抑え切れない。


 握った拳は震え、それに合わせて身体も震えた。

 万が一、正体を見破られる事を恐れ顔を伏していたが、それがいつまで保つのか、それはレヴィン自身も分からない。


 ともすれば、怒りで感情が爆発しそうだ。

 ――仇敵が目の前にいる。


 この刃を突き立てると心に決意していたアルケスが、手を伸ばせば届く範囲にいるのだ。

 ここで攻撃する事は勿論、騒ぎを起こす事が全てを台無しにする分かっているから、レヴィンは我慢出来ている。


 しかし、我慢は限界知らずに。どこまでも溜め続けられるものではない。

 その時、ふと顔を横に向けたアルケスが、レヴィンを見て小馬鹿に笑った。


「ほら、お前が連れてきたケモノ共を見ろよ。恐怖で竦んで震えちまって、全くどうしようもない奴らだ。……あぁ、それとも、神の不甲斐なさを見せつけられて、それで怒りに震えてるのか?」


「余計な挑発は無用です。私に何かをさせたいのでしょう。それを早く言いなさい」


「……ふっ、それもそうだ。ケモノの事など、今はどうでも良いな」


 そう言って、一瞥するなりアルケスは正面に向き直る。


「要求するのは一つだけだ。これから三日後、インギェムが『孔』を開く。お前もそれに合わせて力を使え」


「孔に合わせて……? では、転移を? 一体どこへ、どの時代へ?」


「この世界にいて貰っては困るんでね。別の……あぁ、ニポンとかいう国にでも、送り出してやりたい。大幅に過去へ飛ばしてくれたら、詳しい時間までは指定せんよ」


「誰を相手にです」


「それはお前が知る必要のないことだ」


 ルヴァイルは知らない筈がないのに、その演技力は大したものだった。

 アルケスは不機嫌そうな顔をしているが、それは探りを入れられた事に対するものだ。

 これら全てが実は想定済み、などと予想だにしていない。


「しかし、対象との距離が遠ければ……」


「そんなもの、遠見の魔術でどうにでもなるだろう。――あまり俺を見くびるなよ。それぐらい知らないと思ったか」


 ルヴァイルはこれに応えない。

 ただ悔しそうに、顔を歪ませるだけだった。


「精々、裏を掻こうなど思わないことだ。見張りを置いて行く。俺が不興と感じたなら、その時は……」


「皆まで言わずとも分かっています。しかし、神処の外にいる信者達に、ここへ近付かないよう指示する事だけは許してください。無駄な犠牲を増やしたくはないのです」


「……それぐらいなら、まぁ良いだろう。そいつに手伝って貰え」


 そう言って従者らしき者を顎で差すと、アルケスはそのまま掻き消えてしまった。

 お目付け役兼、処刑人……そういう役どころの人間だろう。


 ――人間。

 ひどく顔色の悪いその相手は、レヴィンからしても、どういう手合か分からない。

 しかし、淵魔に組みする相手ならば、敵と見て間違いなかった。


 もっと淵魔らしい混合体ミクストラ辺りを連れて来ると思っていただけに、これは余りに意外だった。


 だが今のレヴィンは、ただ状況に流されなくてはならない状態で、解決に動き出す事を許されない身だ。

 今はただ、これからどうするべきかを、怒りで震える身体を抑え、必死に考えていた。

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