孤独な戦い その6
アイナの逃走劇は、その防壁一つで解決する程、簡単なものではなかった。
ただ、足止めは成功していて、全く無意味でもない。
そして、この防壁と床棘を用いた逃避行は、既に六時間も経過していた。
しかし、それで追跡を諦めるほど、獅子も単純ではなかった。
むしろ、更に怒りを燃やして、執拗になっている。
次に見つけた時こそ、必ず牙に掛けてやる、と言っている気がして、アイナは必死に必死を合わせて逃げた。
そして、逃げつつしっかり、壁と棘床を用意するのを忘れない。
ただし、頻繁に理術を使うのも考えものだった。
何しろ、ゆっくり足を止め、休憩する時間など取りようがない。
理力がなくなれば走り続けるのも難しくなり、しかし理力を使わなければ、魔物に追い付かれる。
その配分こそが肝要だった。
「階段を降りれば……!」
アイナに残された一縷の望みは、最早それだけだった。
魔物は階層を跨いで通れない。
そして、唯一……今となっては、唯一安全と言えるエリアが階段なのだ。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
息を切らしてアイナは走る。
次の曲がり角を曲がれば、その先にきっと階段が見えると信じて、走り続ける。
これまで幾度も裏切られて来た。
次こそはと思って、通路しか見えず焦燥感ばかりが募った。
しかし、ようやく遂に――。
遂に、最後の曲がり角を抜け、その先に階段を目にした。
「あった……!」
これまでとは違う、別の涙が頬を伝う。
体力の温存など無視して、逃げ込める安全地帯を目指し、アイナはひた走った。
その時、轟音と共に獅子の魔物が曲がり角から現れた。
「もう……!?」
これまでのペースなら、十分な距離があったはずだ。
追い付くには、まだ多く時間が必要だった筈なのだ。
しかし、その足元を見てみれば、それとなく何があった思い付く。
血だらけになった足は、罠を無理に踏み抜いた証拠だろう。
獅子の魔物には羽があるから、それまで棘は飛んで回避していたに違いない。
しかし、それでは空中で踏ん張りが利かず、それが壁破壊の遅れに繋がっていた。
それを止めて、無理して体当たりをしたのだ。
勢いよくぶつければ、一度で小さな罅が入るのは実証済みだ。
二度もぶつかれば穴が空くだろう。
そうして、壁と棘の地帯を突破したに違いない。
「ひぃっ……! でも……でも、あともうちょっと……なのに!」
階段は目の前だ。
猛追する魔物と、逃げるアイナ、果たしてどちらが速いだろう。
「ゴォォッ! ガァァッ!」
背後からの雄叫びは、その息遣いまで伝わって来そうな勢いだ。
実はもうそれ程距離はなく、その鼻先まで近付かれているのかもしれない。
しかし、流石にここで振り返って確認する勇気を、アイナは持っていなかった。
「ひぃ……っ、ひぃぃッ……!」
その時、必死に逃げる背中に、何かが掠ったのを感じた。
爪か、それとも牙か、何かが当たったらしい。
階段はもう目の前、アイナは逃げ切れることを信じて走る続けるしかない。
「ふぅ……、ふっ……!」
アイナは前のめりになって、頭を先にして飛び込む。
踏み込んだ足に、鋭い痛みが走った。
しかし、それでも何とか階段へと身を投じ――。
そのまま、ゴロゴロと階段を転げ落ちていった。
「ゴァァッ! ガァァッ!」
獅子の魔物が、階段の前で吠えているのが聞こえる。
前足を突き出し、階段へ入り込もうとしているが、見えない壁に隔てられて入り込めない。
獅子は血まみれの前足で宙を掻くことしか出来ず、それがより一層の怒りを募らせ、鬱憤を晴らすかのような咆哮が轟いた。
アイナはその間も転げ続けており、それどころか勢いを増して、中々止まることが出来ない。
頭や腕、背中に足と、いたる所が階段に当たって悲痛な叫びを上げている。
何とか止まろうと手を伸ばし、足を突っ張り、どこかに引っ掛からないかと手足を振り回した。
それが功を奏して、階段の中腹を過ぎた辺りで、ようやく動きが止まってくれた。
「た、助かった……」
二重の意味で、アイナは言葉を零して安堵の息をつく。
体中が痛みで悲鳴を上げていたが、今は助かった喜びに身を震わせる。
「生きてる、逃げ切れたんだ……」
言葉にするのは、本当だと実感したかったからだ。
そして、実感が強まる程に、アイナは瞳から涙を流した。
「良かった……、生きてる……」
アイナは泣きながら、自分の身体を掻き抱く。
そうして初めて、自分の打ち身がどれだけ酷いかも、実感する事になった。
「酷い傷……。うゎ、足から血が出てる……」
おそらく、階段へ飛び込んだ時に受けた傷だ。
まるで剣で斬り付けられたような傷跡で、アイナはそれをすぐに治癒術を使って癒やす。
続けて体全体にも使用すれば、それですっかり具合も良くなった。
「疲れた……。本当に……、疲れた……」
階段の幅は狭く、座ることは出来ても、横になるは不便な長さだ。
それでも疲れには敵わない。
疲労度は極地に達しており、このままでは一歩も動けそうになかった。
「少し、ほんの少し、休憩するだけ……。少し、休めば……」
また、再び歩き出せる。
アイナはその場で溶ける様に身体を崩していき、少しでも休める態勢を模索して、もぞもぞと動く。
それから程なくして、静かに寝息を立て始めた。
汗と涙で汚れた顔は酷いものだったが、そこにはやり遂げた安堵感の顔が浮かんでいた。
※※※
「う……っ、いた……、いたたた……っ」
固い地面で寝るのは慣れていたアイナだが、流石に階段で眠るとなれば、身体は悲鳴を上げていた。
酷く強張り、起き上がると骨がバキバキと鳴る。
身体は重く、倦怠感はどこまでも強い。
そして、自分は眠りこけていたのだと、今更ながらに気がついた。
「いけない、寝ちゃってた……!」
ほんの少しの休憩のつもりだった。
そして、呼吸を整えるつもりで、目を瞑ったと思ったらこの状態だ。
事態の重さを理解するにつれ、アイナは軽いパニック症状を引き起こしていた。
「どのくらい寝てたの……!? 残り時間はどれくらい……!?」
呟いた所で、帰って来る答えなど何処からもない。
それでも口にせずにはいられなかった。
自分に治癒術を使って、少しでも体調を元に戻し、慌てて階段を降りる。
そして、階段を抜けた先は、これまで散々見てきた物と同様、無機質な通路だった。
ただ違う所があるとすれば、道の幅が異常に広いというだけだ。
それまでは大人二人が両手を広げられる程の幅だったものが、今では五人で広げても余裕がありそうに思える。
その広い幅の通路を、アイナはおっかなびっくり進む。
流石にもう、心細くて泣いたりはしないものの、如何なる罠が待ち構えているか、気が気でなかった。
「道の様子が変わったなら、当然、それまでと違った工夫がある筈……」
それまで、両端の壁は常に視界の中に収まっていたから、確認するのも楽ではあった。
しかし今は、左右に首を振らねばならない。
アイナの姿勢も相まって、独り迷い込んだ子供の様にも見え、それがより場違い感を演出していた。
道はどこまでも一本道で、これまでの様に曲がり角というものがない。
「いつまで……?」
どこまで進めば良いのか、と漠然とした不安を感じ始めた頃、唐突にそれが現れた。
中央にぽかりと、四方を壁に囲まれた部屋があり、その中央には両開きの扉が見える。
「階層主の部屋……!」
アイナの声に喜色が交じる。
では、とうとうアイナはやってのけたのだ。
喜び勇んで近付いて行けば、近くには焚き火の焦げ後や、何かが居た痕跡がある。
野営をした時に出る痕跡で、レヴィン達はここで休憩を取っていたと分かった。
「良かった、皆ここに……!」
アイナは改めて階層主の部屋を見つめる。
今は物音一つなく、戦闘中の攻撃音や、部屋を震わせる衝撃などもない。
それでアイナは確信する。
「レヴィンさん達は、きっとやり遂げたんだ……!」
それが何より、アイナは嬉しい。
彼らは約束を守り、そしてきっと、最下層まで到達したに違いない。
アイナは結局、追い付けなかったが、それで良いと感じている。
残り時間がどれ程残っているか不明な中、そして辿り着くかも分からないアイナを、最後まで待ち続ける必要などないのだから。
そして、アイナを切り捨てる決断が正しいと、アイナ自身が認めている。
扉を押し広げようと手を乗せた時、はた、とその動きが止まった。
「入っても良いのかな……?」
何しろ、戦闘となったら勝ち目のないアイナである。
そして、同じチームメンバーとして居るが、この試練を乗り越えたのは、あくまでレヴィン達三人だ。
そのお溢れに預かれるかどうか、はなはだ疑問だった。
「……でも、入ってみないと何とも言えないし……」
それで、アイナはそろり、と音もなく扉を開け、その隙間から中を覗き込んだ。
そして、視界に入ったものを見て、アイナは驚愕する。
そこには、柔らかそうなソファーに座ったユミルが、手にワイングラスを持って、つまらなそうに揺らしていた。
すぐ脇にはワインボトルが一本置かれたサイドテーブルがあり、他にはそれ以外何もない。
これまで同様、無機質な空間が広がっている。
「これは……、アヴェリン様と同じパターン? 入って良いのかな……」
アイナはゆっくりと扉を押し広げ、身体を半身だけ差し入れて中へ入り込む。
ユミルはアイナの侵入にすぐ気付き、顔を向けると微笑みを浮かべ、ワイングラスを小さく掲げた。
「あの……」
か細い声を掛けても、ユミルは何も言わない。
戦闘が始まる雰囲気ではないし、かと言って、試練を言い渡してくる気配もなかった。
近付いて良いのか判断に困っていると、ユミルは空いている手で、ある一点を指差した。
それはアイナの右側で、そして壁際でもある。
指の動きに釣られて顔を向けると同時、凄まじい衝撃と共に身体が揺さぶられた。
「な、なぁ……!?」
顔を向けると、そこにはレヴィン達三人がいた。
喜色を満面に浮かべた三人に抱きしめられて、揉みくちゃにされる。
「良く来てくれた、アイナ!」
「待ってたぞ、チクショウ!」
「たった、独りで……ご立派です!」
最後のロヴィーサは目尻に涙さえ浮かべていた。
ヨエルに頭を乱暴に撫でられ、頭髪が乱れて頭も揺れる。
アイナとしては、てっきり階層主を突破していると思っていただけに、完全に面食らって混乱していた。
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