孤独な戦い その5
※※※
勇気を振り絞ってこれまでの道を戻ったアイナだが、結局それらしきギミックを発見できず、再び鉄格子の場所へと戻っていた。
そんな物あるかどうかも分からない、と事前に考えていたのは事実だ。
しかし、本当にないと分かって――ないと見切りを付けて戻るのは、どこまでも心に重かった。
これで追い付く可能性は、万に一つとなってしまった。
重い足取りで来た道に戻ると、やはり無情にも格子が道を閉ざしているのが見え、アイナは重い溜め息をついた。
砂時計の流れる砂は、既に半分程が流れ落ちていた。
では、片道三時間の範囲しか調べて来てない、という事になる。
「もう少し、先まで見ていたら違ったのかも……」
例えば、丁度往復可能な六時間ほど歩いて行けば……。
いや、とアイナは思い直す。
たとえそれで短縮出来たとしても、結局帰る時間に六時間使うわけで、それでは短縮できた意味もない。
「魔物が出なかっただけ、温情はあるのかも……」
恐怖で足が竦んでいたのは、精々最初の一時間だった。
そこからは少々大胆になり、角を覗き込む時、勇気を奮い立てる必要もなくなかった。
二時間経つ頃には、角を覗き込む事もなくなり、そして三時間経った時には、失望と共に道を引き返す事になったのだ。
「砂時計が落ちれば格子が開く……。それだって、実は本当かどうか分からないし……」
状況的に、砂時計で時間を報せる意味が他にないから、きっとそうだろう、と予想しただけだ。
そして、砂時計その物や付近の壁など、他一切に説明など書かれていない。
だから、アイナは砂時計の終了と共に、格子が開くその最後の希望に縋るしかなかった。
「……そうだ、寝とかないと……」
いつもはレヴィンが指示していてくれたし、ロケットの石で時間を確認できたから、凡その就寝時間は決まっていた。
しかし、今だけは全て自己責任で決めねばならない。
「独りじゃ警戒もロクに出来ないけど……」
それでも、眠らねば体力が保たない。
そして、きっと開く筈の格子から、いざ解放された時……。
アイナの孤軍奮闘は、再びそこから始まるのだ。
「レヴィンさん達に追い付く……」
アイナは三人に約束したのだ。
必ず追い付く、と約束した。
しかし、誰一人見張りのいない仮眠は恐ろしい。
きっとまともに眠れないだろうし、目を閉じれば魔物が襲い掛かって来そうで、全く気が気ではない。
それでも、約束を果たす為に眠らなければならなかった。
そう頭では分かっているのに、アイナは全く眠れなかった。
「ただ目を瞑っているだけでも、少しは体力が回復出来るかも……」
それを期待して、アイナは耳を傍立てながら瞼を閉じた。
※※※
物音があるとすれば、それはアイナの鼓動と衣擦れの音だけだった。
それ以外は完全な無音で、一切の物音が存在しない。
目を閉じてみたものの、アイナは一向に眠れる気配がなく、ひたすら長い時間を感じさせられる羽目になった。
独りは心細く、また小心者のアイナは、魔物が居るかもしれない空間で、安穏と眠れる度胸を持てなかった。
長く目を閉じていたが、それは何かが近付いて来たら、すぐにその音を察知する為のものでしかなく、結局一睡もしないまま、その時間を迎えた。
砂は殆ど落ちていて、残りは後ほんの少し、掌で掬える程しかない。
アイナは寝転んだ姿勢から立ち上がり、砂が落ちる瞬間を、今か今かと見届けた。
砂が中央の細い穴に、全て滑り落ちていく。
キラキラと降り積もっていた物が、遂に終わりを迎えた。
「……あれ?」
しかし、格子からは全く音沙汰がなく、消える予兆すらない。
「嘘でしょ……?」
まさか、あの砂時計は、ここに釘付けにする為の罠だった、とでも言うのだろうか。
あの砂が落ち切った時、格子がなくなる、と思わせる為の……。
「もし、そうなら……!」
とんでもないミスをしてしまった事になる。
もしも、あのまま戻り続けていれば――。
もしも、階段まで戻っていたら――。
その時は、新たな道が見つかったかもしれない。
後悔せずにいられず、アイナは頭を掻き毟る。
――今から戻っても間に合うだろうか。
そう思ったその時、格子が派手な音を立てて、急速に地面へ吸い込まれて行った。
「ひぅっ!」
突然の大きな音に、アイナは背筋を立てて跳ね上がる。
砂時計を見て――やはり何の動きもない――、それから消えた格子跡を見つめた後、そろりと足を踏み出した。
格子があった部分は縁取り線の様なものが残っていて、実に分かり易い。
そこを右足一歩通り過ぎ、そして何事も起きないと察して、左足も線を越えた。
「良かった、もうどうしようかと……」
その時、遥かな後方から、獣と良く似た咆哮が響き渡る。
「ガォォォオオオッ!」
「ひぃぃっ……!」
音が何もない空間だからこそ、その咆哮は大きく響いた。
遠くから響くことが分かっても、具体的にどれほど遠いかまでは判別できない。
しかし、恐ろしい魔物が、突如として出現したのは確かで、アイナにとってはそれで十分だった。
「に、にげ、逃げ……!」
それが何処にいるかも分からず、そして、どういう魔物かも分からない。
しかし、戦うことなど最初から頭になかった。
激しい唸りと地を蹴る足音、そして壁にぶつかる衝突音が僅かに聞こえる。
相当、乱暴で凶悪な魔物だと、アイナは身体を震わせ慄いた。
「お、追いつかれたら……」
――追い付かれたら、殺される。
それだけは俄に理解出来た。
アイナは脳裏に浮かんだ言葉をようやく飲み込み、それから弾かれる様にして走り出した。
レヴィン達に追い付けば、きっと助けて貰える――。
それだけを希望に、アイナは懸命に走った。
しかし――。
走り始めるより前に、既に動悸は乱れており、足も震えてまともに速度が出せていない。
恐怖に塗れ、目からは涙が溢れて頬を流れた。
「ひっ、ひぃ……っ!」
単に魔物がいる、という恐怖ではない。
恐ろしい魔物が、凶暴な性格を隠そうともせず、追ってきているのだ。
追われる恐怖、一方的な暴力の恐怖は、仲間と共に対峙するそれとは全く違う。
アイナは空気を掻き出す様に、少しでも遠くへ逃れるように、懸命に腕を振って駆けた。
罠があるかも、という想定は、すっかり頭から落ちている。
前方を警戒するより、背後から迫る獰猛な気配を注意せざるを得なかった。
「ひぃ、ひぃぃん……っ!」
情けない声を漏らしている事など、アイナは全く気付いていない。
とにかく今は、逃げる事しか頭になく、前へ逃げる事で精一杯だった。
無機質な通路は直線ばかりが続き、隠れる所など存在しない。
追い付かれたくなければ、ひたすら走るしかないのだ。
直線の通路は、ともすれば永遠と思えるほど長く続く。
角を曲がり、次の直線を走り、また曲がる。
アイナは走りに自信はあったが、それも制御力あっての賜物で、それが乱れに乱れた今では、今や見る影もなかった。
そして、だからこそ、魔物との距離は徐々に近付いていた。
魔物は角を曲がる度に身体をぶつけているらしく、その音で距離感が何となく伝わってくる。
「近付いてる……っ!」
音と衝撃が、一度鳴る度に大きくなっているのを感じていた。
そして、一時間も走った所で、遂に隣の列にまで追い付かれたと察した。
「グォォォオオオッ!」
アイナが角を曲がろうとしたすぐ横の壁から、強い衝撃音と共に振動が足まで伝わる。
とうとう、ここまで――!
アイナは涙を拭って、とにかく走る。
後ろを気にせずにはいられず、それがまた走る速度を遅くしていると、アイナ自身気付いていた。
それでも、確認せずにはいられない。
魔物の正体が分からないのは、それだけで恐怖だ。
しかし、それを視界に収めた時、アイナは見てしまった事を後悔した。
「ひ……っ!」
それは獅子の形をした魔物だった。
アイナが知る獅子より余程巨大でかつ、犬歯が二本、剣のように生えている。
サーベルタイガーの様にも見えるが、立派なたてがみを持つ獅子であり、そして背中には羽、そして尻尾に蛇を持っていた。
「ゴォォォオオオッ!」
咆哮までも巨大で、アイナの身体を直接震わせるほど威圧感がある。
角を曲がる度、一々ぶつかるせいで速度を落とすのだが、生来の瞬発力が失速した速度を取り戻し、長い直線が互いの距離を縮めている。
――駄目、追い付かれる!
最後の最後まで、このまま逃げ切るのは不可能だと、悟らざるを得なかった。
アイナはこの時になって、ようやく一つの理術を思い出し、理力を制御するなり即座に展開する。
「石壁生成!」
アイナは走りながらも背後を振り返り、そのまま両手を突き出すと、突如床から迫り出した石壁が、通路を完全に塞いだ。
「グォッ!?」
獅子の魔物は走る勢いのまま衝突し、そうして小さな罅を入れる。
それだけで、どれほど勢いよくぶつかったのか、分かろうというものだった。
「そんな、必死に理力を込めたのに……!」
その実、制御力が恐怖で空回ってしまい、普段の半分程しか反映されていないなど、今のアイナに気付けるはずもない。
しかし、アイナは即座に二枚目の壁を作り出した。
「一枚で駄目なら……!」
そして、石壁から距離を取ると、また別の理術を床に仕掛ける。
「上手くいってよ……! 『剣呑な道』!」
アイナが理術を解き放つと、床には踏み場もないほど多くの棘に覆われた。
人間ならば、足の甲を貫き縫い留める程の、巨大な棘だ。
しかし、これは獅子にも有効な筈だった。
「更に、『石壁生成』……!」
これで棘のバリケード地帯は、石壁で覆われた事になる。
踏ん張りも利かず、壁を砕くにも良い足止めとなってくれる筈だ。
アイナは恐怖で痛いほど鼓動する心臓を叱咤して、少しでも遠退こうと、つんのめる様な格好で再び走り出した。
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