魔王、謁見、再出発 その1

「それは……、侮辱と受け取って良いのか?」


 ミレイユの口から放たれた言葉に、怒りは滲んでいない。

 ただそれは、あくまで表面的な話で、この場に居れば背筋が凍る程の圧力を感じ取れるものだった。


 しかし、映像越し、音声のみ聞いているヤロヴクトルには、それが分からないらしい。

 ミレイユを怒らせているとは全く気付かぬ素振りで、むしろ声の調子を上げて応えた。


『侮辱……? まさかまさか……、これは提案だよ。男というのは、美女に頼られた時、大抵悪い気はせぬものだ』


 そう言って、勿体ぶった間を取ってから、更に続けた。


『しかし……、それにも頼み方一つ、言い方一つで、どうとでも気持ちが変化するのだ。これは気持ちよく協力させて欲しいという……、単なる提案をしてみたに過ぎない』


「それがつまり、媚びへつらい、私に頭を下げさせたい。……そういう事になるのか?」


『女が男を動かすのだ。そのぐらい当然だろう。例えば私の肩に抱かれ、胸元に顔を寄せつつ、熱っぽくおねだりしてみろ。そうすれば……うむ、喜んで話を聞く気になるだろうさ』


「なるほど……。なるほど、なるほど……。よく分かった」


『おぉ……!』


 ヤロヴクトルから、歓喜にも似た声が上がる。

 何を勘違いしたものか、自らの言説に説得され、ミレイユがその気になったと思ったらしい。


 常と変わらぬ表情だから、遠くから見る分には納得したように見えたのだろう。

 だが、レヴィンからすると、既に立っているだけで精一杯だった。

 気圧される雰囲気に、ビリビリと肌が焼かれるかのようだ。


「ヤロヴクトル……、お前は今、どこにいる?」


『俺の居る場所は最下層、百階だと決まっている。……ん? 俺にそこから動け、というのはナシだぞ。焦がれ求める者こそ、足を運ぶものだ』


「――ルチア、今すぐ百階までの階層全てを精査しろ。ルートの選定はいい、地図の作成、そして生体反応に絞って探れ」


「お任せを」


 ルチアも流石に、先程までのおふざけは鳴りを潜め、実直な態度で首肯する。

 即座に魔力を制御して、詳細な地図の作成を始めた。


『おっと、熱烈に求められるというのは、存外悪くないものだ。それが大神レジスクラディスともなれば、また格別か。……あぁ、これからは親しみを込めて、ミレイユと呼んでみても?』


「――今すぐ、その薄汚い口を閉じろ」


 強い言葉にてられ、レヴィンは思わずミレイユを見る。

 そこでは、遂に無表情の仮面を脱ぎ捨て、こめかみに青筋を立てた神がいた。


 ビキビキ、と音すら聞こえそうな程、太い血管が見えている。

 目は据わり、瞳孔が拡大して、眼球には充血すら見て取れた。


 しかし、表情は怒りに染まっていない。

 むしろ逆だ。

 口元には笑みすら浮かんでおり、それがまた恐怖を煽っている。


「可愛くおねだり、か……。あぁ、させてみせよう。飼い犬を可愛いと思うなら、好き放題させるのが最良ではない。最低限、粗相をしない教育を施すべきだ」


『うん……? 飼い犬……? 何を言って――』


 ヤロヴクトルの非難の台詞が、唐突に途切れて声が遠退く。


『――おい何だ、痛いな! 今いいとこ……』


 どうやら、背後に向かって何か言っているらしい。

 一体どこにいるものか、同室には何者かが居て、そちらに話し掛けた結果、声が遠退いていると思われた。


「ヤロヴクトル、私は寛大な神でいようと思っていた。多少の不敬、多少の雑言は聞き流そうとな。親しく間柄でありたい、その気持ちが根底にあったからだ。しかし、それが勘違いさせた原因ならば、改める必要がありそうだ」


『えっ、うん? 何だっ――煩いな、後にしろ! ……あぁ何だ、もう一回頼む』


「口を閉じろと言ったぞ」


 冷たく答えて、ミレイユはルチアに目配せする。

 すると、彼女から緊張した顔付きで首肯が返った。


「終わりました。マッピング完了です」


「百階層までこの直下に、誰か探索者は居るか?」


「いません。この直下、という限定的範囲に絞るならば。手を左右に広げて三人分の範囲なら、重なる部分はありません」


「良いぞ、十分だ」


『――おい、何だ! 何を言ってる!』


 ヤロヴクトルの言葉は完全に無視し、ミレイユは魔力を制御し始めた。

 その力の奔流は、並大抵の術士とは比較にすらならない。

 魔術師の頂きと思われるルチアでさえ、それには遠く及ばないと思われた。


「ヤロヴクトルの領域……それも五十階層ならば、早々地上には漏れないだろう」


 言うなり、ミレイユは魔力の奔流を解き放つ。

 それは魔術として形成された力ではなかった。


 単に内なるマナを魔力に変換し、それを外に出した原初の力だ。

 眩い光を放つそれを、ミレイユは真下に向けて射出した。


 地面を抉り、くり抜き、人間が五人横になっても余裕ある広さの穴が穿たれる。

 次々と階層をぶち抜いて、下へ下へと突き進んだ。


 投影された地図にもそれは映し出されており、ものの一秒と掛からず貫通していくのが見えていた。

 そして、それが見えていたのは、ヤロヴクトルも同様らしい。


『ばっ……! 何やってんだ! やめろ!』


「黙れと言ったぞ」


 十秒ほど続いた力の放出は、射出した時と同様、唐突に止んだ。

 ミレイユは手首を振って気怠げに息を吐くと、ルチアに顔を向けて問う。


「どこまで達した?」


「八十階まで、ですね。また、これによる探索者の被害はありません」


「チッ……露呈を恐れて、少し手を抜きすぎたか。……まぁ、いい。このまま降りた先で、もう一度やれば済むことだ」


「ですね、さっさと降りちゃいましょう」


『待て待て待て、お前ら! そんな迷宮の攻略があって堪るか! ふざけるなよ――だから痛いな、何ださっきから!』


 ヤロヴクトルが混乱の坩堝にあるのは、その声音から良く分かる。

 そして、その背後では彼を妨害する何者かが動いている事も、また察せられた。


 迷宮はヤロヴクトルの領域だ。

 本来なら、何かしらの不正があれば、妨害など入っても不思議ではない。

 それがないのは、彼の背後で動く、何者かがいるからに違いなかった。


「何にしても、今のウチね。さっさと降りちゃいましょ」


 言うや否や、ユミルが飛び降りる。

 暗い穴の中に身を投じるなり、アヴェリンとルチアもそれに続いた。


 神使達はそれで良いとしても、レヴィン達はそうもいかない。

 優に三十階層分もある高さを、無事着地する自信など到底なかった。


 だが、どうしようと途方に暮れる暇もなく、ミレイユの念動力に捕まって、彼女ともども全員、穴の中へと強制連行された。


「うぉああああああ!?」「――だぁ、何っ……これェェェェ!?」

「きゃぁぁああああ!」「ひぅ、うぅぅぅっ……!!」


 レヴィンの悲鳴が穴の中にこだまする。

 暗い穴と明るい階層、それが次々と代わる代わる目に映る。


 手を振り回したくとも、神が使う念動力を跳ね飛ばす事も出来ず、殆ど直立不動のまま落下を続けた。

 眼下にはユミル達の姿があり、彼女たちは『孔』を通った時と変わらぬ気楽さで、落ちるがまま身を任せていた。


 どれほど落下が続いたか分からぬのと同時、いつ地面にぶつかるのかと気が気ではない。

 死の恐怖に晒され、レヴィンは懸命に脱せないかと身体を動かす。


 しかし、神の魔術は堅牢そのもので、首から上を動かすことしか出来なかった。

 ――死ぬ。

 ――こんな所で。


 直感的に死を感じ、背筋から頭頂まで冷たいものが駆け上る。

 もう駄目だ、と思った瞬間、ミレイユの手から淡い燐光が生じ、それを眼下へ投げ付けた。


 魔術の光だ、とはその直後に理解した。

 そして、レヴィン達の身体が唐突に浮遊する。

 ――いや、浮遊ではない。

 落下速度が緩やかになり、まるで落ち葉の様な滞空を経て、無事八十階層へと着地したのだ。


「な、何が……」


「死ぬかと思った……」


「無事に済む手段があるなら、言っといて下さいよ……!」


「あぁ、『落葉の陣』を張るから、着地は気にしなくて良いぞ」


「遅いですよ、致命的に……!」


 レヴィンの慟哭も、ミレイユの耳には届いていない。

 未だ念動力で拘束中なので、地面に膝を付くことすら出来ていなかった。


 そこへ再び、頭上から男の声が響いてくる。

 先程まで同様、そして先程より喧しくなった、ヤロヴクトルの声だった。


『――おい、幾ら何でもやって良い事と、悪い事があるだろうが!』


『それは自分の行動を省みて言って下さい! 大神レジスクラディス様に何を言いました!? 相手をどなたと心得ます! 商売女とは違うのですよ!?』


 しかし、どうも様子がおかしい。

 どうやら言い争いをしていると分かるが、その相手はミレイユではない。

 先程から、ヤロヴクトルが痛い、煩いと文句を言っていた相手の声が、こちらにも届いていた。


『だが、強い自分を見せたいじゃないか。強い所を見ればこそ、あいつも俺に惚れるというものじゃないか?』


『あれで口説き文句を言っていたつもりなんですか!? 常識を疑いますよ! あれは挑発と言うんです! ブチギレて迷宮破壊して突き進んで来てるんですよ!?』


『あぁ、あれは酷いよな。常識を疑う』


『お前だ! お前の常識だ、この馬鹿! 馬鹿神! もう神使なんて辞めますからね! 一柱で怒られてろ、バーカ!』


 遂には痴話喧嘩が始まり、ミレイユも毒気を抜かれてユミルやアヴェリンと顔を見合わす。

 誰の顔にも困惑が浮かんでおり、どうしたものかと考えた結果、とりあえずこの館内放送に耳を傾ける事になった。

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