迷宮都市の災難 その8

 背中から地面に落ちる衝撃で、レヴィンは一瞬呼吸に詰まった。

 しかし、それも直後に落ちてくるロヴィーサを視界に収めて、全て吹き飛ぶ。

 寝転んだ姿勢で地面を蹴って微調整すると、見事ロヴィーサを受け止めた。


「おっ……、ぐふ! 無事か、ロヴィーサ」


「は、はい。申し訳ありません、若様」


 図らずも抱き止める形となり、レヴィンの胸の上に寝転がる姿は、まるで恋人同士の距離感だ。

 顔の位置も近く、ともすれば唇同士が触れそうになっている。


 それを自覚したのは、果たしてどちらが先だったか。

 互いに見つめ合い、その視線に熱っぽいものが混ざる。


 その時、一足先に着地していたヨエルが、滑り込みながら真横へやって来て、見事アイナを受け止めた。

 その動きにレヴィンは我に返り、優しくロヴィーサを横に落とす。


「おっと、危ねぇ……! アイナ、大丈夫だったか?」


「すみません、助かりましたぁ……!」


「――お、おう! 良かったな!」


 レヴィンは過度な反応で二人を労い、防具に付いた土を払って落とす。

 ロヴィーサは背中を向けたまま、咳払いをしていたりと、互いに挙動不審が拭えない。


 アイナは不思議そうな顔をしていたが、全てを察したヨエルは深く突っ込まず、彼女を優しく地面へ下ろした。


「いや、しかし……神様のおふざけにも困ったもんだぜ。穴蔵からスポーン、だもんな。まぁ、俺達は頑丈だから良しとしてもよ、女性陣にはもうちょい遠慮ってモンを覚えて欲しいよな」


「というか、ユミル様の悪ふざけは何なんですか? あれがなければ、もっと穏便に通過できたと思うんですけど……」


 セクハラ紛いの……ではなく、紛うことなきセクハラが原因で、起きた事態でもある。

 元々奔放で、やる事なす事、型に嵌まっていないのが、ユミルという人物ではあった。

 とはいえ、時と場所を考えてやってくれ、というのが全員の総意であったろう。


「まぁ、あの人がやる事に、ケチ付けても疲れるだけだしよ。――おい、ロヴィーサ。いつまでボーっとしてんだ、行くぞ」


 ビクリと肩を跳ねさせたロヴィーサが、背中で大きく呼吸すると、振り返って頷く。

 そこには常と変わらぬ表情が浮かんでいて、すぐに定位置――レヴィンの右斜め後ろに付いた。


 そうして少し離れた神々の元へ向かうと、そこでは苛烈な言い合いが始まっていた。

 直前の言い合いを聞いていれば、これは十分予想できていた事で、レヴィンは思わず辟易とした息を吐く。


「何だ、お前! ミレイ様に対し! あの様な振る舞い、不敬! 決して許される事ではないからな!」


「いや、言っても未遂止まりだしさ。アタシが本気なら、有無を言わさず、まず埋めてるわ。そこの所、よく考慮するコトね!」


「何を自慢気に語っておるか、馬鹿者! 今ここで、我が武器の錆にしても良いのだぞ!」


「それは困るから、全力で逃げるけど。姿を見失ったが最後……覚悟しておきなさい。知らずにあの尻を、喰われているかもしれなくてよ」


 本気なのか冗談なのか、分からない言い草だった。

 そして、怒りに染まったアヴェリンの顔色は、更なる怒りで赤くなりつつある。


 この場で唯一、止められそうなミレイユは、そちらよりも何故か焚き付けたルチアを説教していた。


「いや、だって仕方ないんですよ。あれは絶対、あの場で乗っかった方が楽しかったわけで……」


「楽しいかどうかで決めるな。あわや私の尻が減るところだったんだぞ」


「別に良いじゃないですか、一つや二つ」


「全部持ってかれてるじゃないか、それじゃあ……! 私の尻は二つしかないんだよ!」


 神と神使が、まるで子供みたいな喧嘩をしていた。

 レヴィンは頭痛を感じて額に手を当て、何とか正気を保ち力を入れて踏ん張る。

 長く付き合う程に、神のメッキが剥がれていく様でもあり、レヴィンの偶像がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。


 声を掛けようにも掛けられず、どうしたものかと思っていると、頭上から突然声が降ってきて構えを取る。


『何だ、何だ……。まさか、斯様な所に、斯様な神がいようとは……。いや、想像だにしていなかった』


「――誰だ!?」


 レヴィンは誰何しながら、周囲を見渡す。

 しかし何者の姿もなく、また気配すらもない。


 それでも声だけは聞こえる所からして、何らかの魔術だと当たりをつけた。

 声の主はレヴィンに見向きもせず、そのまま蔑む声音で話し続ける。


『しかも、尻がどうのこうのと……。我らが偉大な神とやらは、どうも慎みというものを知らんらしい』


「ヤロヴクトル……」


 レヴィンは構えを崩さぬまま、ミレイユが零した言葉に驚く。

 しかし、驚くよりも怒りを顕に、言葉を放ったのはアヴェリンだった。


「姿も見せず、挨拶もせず……! 貴様、大神レジスクラディス様に対し、余りに不敬だぞ!」


『いやはや……、不敬? 不敬だと? 我が迷宮に土足で上がり込み、思う様破壊してくれた輩が何を言う。お前は他人の屋敷に上がり込んでおきながら、近いという理由で壁を破壊して進むのかね?』


「む……」


『壁は部屋と部屋を隔てる仕切りだ。しかし、それ以外にも実利的な目的で、配置していたりするものだ。それを邪魔という、ごく個人的理由で排除されて堪るものか』


 ヤロヴクトルは、最初の第一声から不機嫌だった。

 そして、何故不機嫌なのかは、今の言葉が全てを語っている。


 迷宮を潜る前、アイナはまるでゲームみたいだ、と言った。

 そして、ミレイユはそれを肯定し、自らの欲望を満たす為に用意された庭だと評した。


 自らの庭を破壊されて、笑っていられる者は少ない。

 不機嫌なのも、それが不敬な態度として表れるのも、致し方なしという気がした。


『これだから戦神というのは始末が悪い。まず力で解決しようとする。少しでも文化的な心を持つのなら、最初から暴力という手段は使わないものだぞ。知的生命であるかどうか、その見識から考えるべきかもしれんな』


「まぁ……、お前の迷宮を蔑ろにして悪かった。それは謝ろう。だが、とにかく今は、少し厄介な事情がある。お前に訊いて欲しいことが……」


 ミレイユが頭を下げずとも謝罪を口にし、要件を伝えようと一歩前に出た。

 そして、返って来た言葉に、ミレイユは驚きを顕にする。


『それは、現在この世に大神レジスクラディスが二柱いる事と、何か関係あるのかね?』


「……知って、いたのか」


『偶然な、知る機会があった』


 ヤロヴクトルは声だけで分かる疲れた息を吐き、それから続けた。


『バカスカと壁を破壊する者を注目せぬ訳がないし、そうして先日、赤竜ドーワに乗ったお前を見た。何故、忙しくしている筈のお前が、先触れも寄越さず迷宮なぞに潜り込んでいるのか……? これはどうした事だと、調べない訳がないだろう?』


「まぁ、当然の対処か……」


『そして、どうやら現在、大神レジスクラディスは神処に居ると分かった。どちらかが偽者、そう考えたりもしたが……先程の魔術の使用感からして、別神とは思えない。ならば、同時間に同一神物がいる、と考えた方が合理的だろうな。そして、それを行える手段とて保持している』


 レヴィンはその話し方からしても、傲慢不遜の神だと思っていたし、欲望に忠実という評価から、もっと杜撰な神を想像していた。


 しかし、その実しっかりと合理的な考えも出来て、その評価を一変させる程の理知を見せた。

 インギェムの様な物事を深く考えない神がいたから、これもてっきりそういう類いかと思ったレヴィンだが、実はそうではなかったのだ。


「その説明をさせてくれ」


『いらんよ、興味なぞない。必要だからやったんだろう。失くした片方の尻を、取り戻しにでも来たのか? ……まぁ、どれほど下らなかろうと、どれほど正当性があろうと、関係ないものに首を突っ込むつもりはない。俺を巻き込むな』


「ところが、そういう訳にもいかない。これは世界の危機だ。神々も一致団結する必要が求められる。お前にも関係あるし、興味も持ってもらう。悪いが、巻き込むぞ」


 ミレイユが断言すると、ヤロヴクトルは押し黙った。

 沈黙が十秒と長く続き、一切の返答を見せないことに、レヴィンが居た堪れなくなった時、ようやく反応が生まれた。


『否が応でも巻き込まれる、そういう類いの話か……』


「まさしく」


『では、可愛くおねだりしてみろ』


「……は?」


 これはミレイユではなく、傍らのアヴェリンから発せられた。

 いよいよ、その不敬に耐えられず、怒りを顕にしていたが、分かり易く発憤していない。

 逆に感情が削ぎ落ち、能面の様な顔で宙空を睨んでいた。


大神レジスクラディスという奴は、男の機微を知らん。お前は何事にも平静で、そつ無くこなして事態を解決するが……男神としては面白くない。少しは馬鹿でいろよ。それで男を立て、男に甘えろ。弱みを見せて、媚びを売れ。そうしてやれば、男もやる気を見せるというものだ』


「……ほぅ」


 ミレイユからも、底冷えした声音が漏れた。

 そして、表情は全く笑っていない。

 アヴェリンの様な能面とも違うし、怒りを発露してさえいなかった。


 それでも、レヴィンにはミレイユが怒りを顕にしていると、嫌でも分かる。

 巻き込まれては堪らないと、周囲に目配せして距離を取った。

 そして、それは正解だったと、レヴィンは直後に知って、自分の判断を内心褒めた。

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