女神と歓談、男神と迷宮 その4
抱き着いたモルディは、一向に離れる気配がない。
ミレイユは彼女を抱き締め返して、その背を優しく撫でる。
それでようやく、モルディは惜しみつつ身体を離した。
「もっと長居して欲しいけれど……、そういう訳にはいかないわね」
「すまないな……。他の神にも、この事を伝達しないといけないから」
「この時代の貴女に知られず、隠密りに? 竜を使っていたら、そちらから漏れるのではないかしら?」
「あぁ、だから使っていない。インギェムの権能で移動してる」
ミレイユが困ったように笑って言うと、モルディは首を傾げた。
「でも、権能を使えば、察しの良い貴女のことだもの……。そちらの線でも気付いてしまうのではないかしら?」
「アイツが自分の気の向くまま、あちこち勝手に移動しては遊んでいることなど、今更のことだ。少しその回数が増えたぐらいじゃ、違和感を持たないんだ」
「……そうなの? インギェムはここに来たことなんてないわよ……? 怪しいと思えば、怪しく思えてくるものじゃない?」
「うぅん、多分……大丈夫だとは思うんだが……」
ミレイユが自身の記憶を遡っても、そこで何かの違和を感じ取った覚えはなかった。
何かを思ったかもしれないが、記憶に残っていないのならまた何か下らない遊びでもしているのだろう、と思ったに違いない。
「何もない……とは思うが、万が一何か言われたら、上手く誤魔化しておいてくれ」
「えぇ、そうするわ」
モルディは楽しそうに頷いて、それから声を忍ばせて笑う。
「貴女に隠し事だなんて、スリルがあって楽しいわね。上手く誤魔化せるかしら、なんて……、今からちょっとドキドキしてる」
「そう構える必要はないぞ。お前の言うことなら、私はきっと頭から信じるだろうから」
「あら、本当?」
機嫌よく笑って、モルディはカップを手に取り、口を付ける。
ミレイユもカップを口元へ運ぶと、二口、三口と動かし、全て飲み切ってしまった。
「……それじゃあ、また今度ね」
「うん、また近く時間が空いたら来る。……にしても、気が重い。次は面倒な相手だからな……」
「そう言うってことは、……ヤロヴクトル?」
ミレイユは返答しない。
しかし、あからさまに見せる嫌な顔が、何より雄弁に物語っていた。
「そう、ヤロヴクトル……。協力したいのは山々だけれど、何が逆鱗に触れるか分からない神だから……」
「というより、とりあえず噛み付く所があるだろ、アイツの場合は……」
「そうかも」
笑って同意し、それからモルディは文机へ目を向けた。
「本当なら、何か一筆書いて、便宜を図りたいけれど……。肩入れするのが気に入らん、とか言ってへそを曲げそうで……」
「大丈夫、気持ちだけで十分だ。実際、アイツの言い出しそうな事だし、目に浮かぶようでもあるしな」
「彼にも協力を仰ぐの?」
「嫌だが……、本当に嫌だが……、仰ぐしかないだろう。選り好みをしている場合じゃないからな」
ヤロヴクトルの権能は、『刑罰』と『恩寵』だ。
二つの権能は非常に広角な範囲で発動するので、敵に回すと厄介な力になる。
罰というからには、罪を犯してなければ発動せず、ならば正しく生きていれば関係ない――かといえば、そうではなかった。
この罪の範囲を、どう定義するかによる。
ヤロヴクトルは己の趣味嗜好に即した範囲で適応するが、悪意を以って罪を設定すれば、それで無条件に罰することが出来てしまう。
たとえば、人は肉を食す時、必ず何かを殺めている。
たとえば、木を切り倒して薪に変えてしまうが、樹木も当然生きているのだ。
野に咲く花が綺麗だと、たかが己の目を楽しませる為に、切り取って持ち帰る。
それら全てを罪と定義するだけで、ヤロヴクトルの『刑罰』は容赦なく襲い掛かる。
そして、『恩寵』については、無条件に得られる祝福みたいなものだ。
本来なら得られない力、体格、魔力など、持てる力を増大し――持っていないなら新たに得られる。
それが淵魔に対して使われた時、どうなってしまうかなど、考えたくもない。
ミレイユは極力ヤロヴクトルと接触したくない、関わり合いになりたくないと思っているが、個人的感情だけで、未来に禍根を残すわけにはいかなかった。
「一体、どんな無理難題を申し付けられるやら……。今から頭が痛い」
「思うのだけれど……」
そう言って、モルディは人差し指を顎先に当て、天井付近を見上げた。
「わたしは、貴女が優しい神で嬉しいと思うわ。大神としての務めを果たし、その責任を強く受け止めてくれているのが、貴女で本当に良かったと思ってる」
「それは……、嬉しい言葉だ」
「でも、多分それが原因だとも思うの」
「……なに?」
モルディは顎先から指を離し、それから視線をミレイユに戻す。
「端的に言うと、甘えられているのではない? このぐらいの我儘は許されるだろう。こういう態度でも怒られないに違いない。……そういう風に見られているのよ」
「……いや、私も怒る時は、しっかり怒るぞ」
「でも、それって神の務めを蔑ろにした時とか、あくまで対外的な部分に留まるでしょう? ミレイユに対して不敬な態度を取ったりしても、それを咎めることなんてしないし……」
「それは、そうだろう。小神と大きな摩擦を作りたくないし、かつての大神みたいに、頭を抑えつけたいとも思わないから」
モルディは大きく首を横に振って、今度は逆にミレイユの手を両手で握った。
「そうではないの。貴女は対等でいようとしてくれているし、それは有り難いことだと思っているのよ。友の様に接することが、どれだけ私の心を温めていることか……。でも、それだけじゃ駄目なの」
「分かってる……つもりだったが」
「貴女は強い。それが一つの原因だとも思うわ。一切の権能を無効化する、発動すら止めてしまえる力……だから、鷹揚に構えていられる。――でも、それをシャクだと思う者だっているのよ」
モルディは真摯な視線でミレイユの瞳を覗き込み、言い聞かせる様に言った。
「貴女は、自分に攻撃を向けられることに関して無頓着だわ。余りに無頓着すぎる。防げるから、どうせ効かないから……、だから許すのでしょうけど。でも、きちんと怒って良いのよ」
「耳が痛いな」
ミレイユが苦笑を零すと、これとは反対にモルディは柔らかな笑みを浮かべる。
「私みたいに救いと感じる者もいれば、それを侮辱と感じる者もいるでしょう。そして、ヤロヴクトルは後者のタイプ。今更こじれた関係を、すぐに修復は不可能でしょうし、あの性格だから簡単でもないでしょうけど……」
「そうだな……。初手から、そして今まで続く対応が、尽く悪手だったから、あそこまで捻くれた……そう見る事は出来るか。私以外には紳士みたいだしな」
「そういう訳でもないけれど」
モルディは苦笑して、小さく手を振った。
「私に対しては、憐れみが大きいのだと思うわ。だから色々、気を遣ってくれるの。仮に貴女がこれから行く先で、その対応にきちんと怒ったりしても……どう転ぶかは賭けだと思う」
「そうだな……。歯牙にも掛けないと思われていた相手から、ようやく目を向けられたと思うか……。それとも遅すぎだと、またヘソを曲げるか、だな……」
「そこで更にヘソを曲げそうなのが、いかにもヤロヴクトルらしい、という気がするけれど……」
「それじゃ、結局何の意味もないじゃないか……」
モルディは握っていた手を離し、労る様に手の甲を撫でる。
「これまでの付き合いがそうだったのだから、仕方ないわよね。貴女が態度を変えたからって、即座に殊勝になる性格をしていないもの。これまでの負債と思って、地道に返していくのが良いんじゃないかしら」
「……手厳しいな。……だが、そうか。まずは歩み寄りの第一歩か」
「そう、その通り。……大丈夫、遅すぎたということはないわ」
ミレイユは無言で返礼し、手を離す。
嫌な相手、よく分からぬ性格、天邪鬼的で己の欲望に忠実な、手の付けられない奴……。
そう思って、ヤロヴクトルとの接触は控えてきた。
会えばろくな目に遭わず、口を開けば嫌味な言葉と、自慢めいた自分語りには辟易していた。
しかし、それらはミレイユの歓心を買うことはなく、むしろ爪弾きする理由にさえなっていた。
ミレイユは直接的に攻撃したり、殊更強く言い含めたりしたことがない。
それがヤロヴクトルを、調子付かせる原因になったのは確かだ。
ミレイユの方が強いから、実力的に大人と子供以上の差があるから――。
しかし、ヤロヴクトルは神として先達であり、ミレイユより余程永く生きている。
彼なりの矜持があって当然で、そしてミレイユの態度から、そのプライドを傷つけられたと思っても不思議でなかった。
それが事実なら、確かにミレイユにも反省するべき点がある。
「貴重な意見をありがとう。それを参考に、ヤロヴクトルと話をしてみる」
「えぇ、一筋縄で行かないとは思うけれど、成功を祈っているわ」
ありがとう、と言ってミレイユが立ち上がると、モルディもまた立ち上がる。
ミレイユが退室すると分かって、まずもって先にレヴィン達が外へ出た。
まさしく逃げる様に去って行ったのだが、直前の行動を思えば誰も非難できない。
ユミルやルチアも順に去り、アヴェリンが扉の横で衛兵の如く待機して最後まで残ると、最後にミレイユと共に退室した。
モルディは部屋の外には出ず、入口手前で手を振る。
「また、いつでも来て。待っているから」
「うん。次は茶葉を持って遊びに来よう」
ミレイユも手を振り返り、ちらりと笑って背を向けた。
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