女神ハイカプィ その3

 最初に口火を切ったは、ミレイユの方だった。

 周囲から受ける視線の圧力、そして壇上から受ける圧力など、全く気にした素振りも見せず、気安い友人へ話す様に語り掛ける。


「久方ぶりだな、ハイカプィ。息災か?」


「お陰様で。大神レジスクラディスにおかれても、ご機嫌よろしくあられるみたいね?」


「勿論……と言いたいところだが、実はそうでもない」


「……あら」


 二柱の遣り取りは、儀礼通りというものではなく、むしろ大いにそれを無視したものだった。

 神と神の間で行われる挨拶とはいえ、場に相応しい挨拶や礼儀というものはある。


 ミレイユから話し掛けた時点で、その慣例を破っている所があり、その後の会話も定石から外れていた。

 ハイカプィが気の抜けた返事をしたのも、正しくそこに理由がある。


「少々、きな臭い事になっている」


「……へぇ、そうなの。でもそれ、あたくしに関係あるのかしら?」


 ハイカプィの格好は、肘掛けを使った斜に構えたもので、会話が始まっても改められる様子がない。

 ミレイユもまた殊更指摘していないが、対話をするに当たって、それは当然不適切に当たる。


 しかし、構わずハイカプィが再び口を開こうとしたその寸前、アヴェリンが前に一歩踏み出し、高々と声を上げた。


「貴様……、大神レジスクラディス様の御前にあって、いつまでそうした姿勢でいるつもりだ。敬意の意味を知らんのか……!」


「勿論、存じているけれど……」


 ハイカプィは、ちら、とアヴェリンに視線を向けたものの、すぐにミレイユへと戻す。


「そういう堅苦しい事は必要ないって、他ならぬ大神レジスクラディスが言ってくれたのよ? それを神使のあなたから、口に出すのは如何なものかしら?」


「……さま、だ。大神レジスクラディス様と呼べ。敬称を付けろ」


「あら。大神と小神という区別はあっても、上下を意味する区分けではなかった筈よ。立場的に……、そして対外的にそう見えるのは確かでも、敢えてそう見せているだけ」


 そう言って、ハイカプィは薄っすらと笑みを浮かべた。

 口の両端を僅かに持ち上げる、あるかなしかの笑みで、それがとても蠱惑的な笑みに見える。


「神々の間において、その関係は対等である。友として仲良くしたい……。そう、仰って下さったものね?」


「そうだな、それは間違いない」


「――しかし!」


 二柱の間で了承があっても、アヴェリンは食い下がらなかった。

 尚も声を上げて、壇上に向け指先を向ける。


「そこは百歩譲っても、神使までが壇上にて、見下ろして良い理由にはなるまい! 神と神使には明確な格差がある。それはどう申し開きするつもりだ!」


「そうねぇ……」


 ハイカプィはゆったりと頷くと、身体を曲げて背後を見やる。

 神使の三人に、ゆっくりと視線を沿わせていると、その一人が僅かな動きで首を横に振った。

 ハイカプィはゆっくりと元の姿勢に戻ると、やはり蠱惑的な笑みで言い放つ。


「どうやら、その必要はないみたい。このまま続行させて貰うわね」


 これにはユミルやルチアまでもが反応し、ピクリと肩を揺らした。

 アヴェリンの様に声まで上げないものの、不愉快だという雰囲気は発せられる。


 そして、二人程の実力者となれば、それだけで大きな波紋となって、周囲をざわつかせるのだ。

 それまで無言を貫き、姿勢すら乱さなかった鬼達も、平静ではいられない。


 一触即発の雰囲気になり掛けた所で、ハイカプィが小さく手を挙げた。

 それで鬼族は一切の動きを止め、また彫像の様な観衆に戻る。

 ミレイユは小さく眉を上げ、面白そうに口を曲げた。


「よく教育されているな。慕われているのか、敬われているのか、畏れられているのか……。それによって変わってくるが」


「無論、その全てよ。どうする事が最適か、どうすることがあたくしを喜ばせるのか、それを良く分かってくれているの」


「……そうか。平和な世にあって、お前の権能は喜ばれる。手放したいと思う者はいないだろう。よくやってくれている、とも思うが……」


「含みのある言い方ね」


 そう言って、ハイカプィは不愉快そうに眉根を寄せる。

 頬杖をやめると、若干前のめりになって顔を突き出した。


「あたくしは、神としてやるべき事をして来たに過ぎないわ。それまでの弾圧から――神々の抑圧によって、全てを取り上げられていたあの時とは違う。小さな家の片隅で、床磨きしか出来なかった時とは違うの」


「お前の労力を馬鹿にしたんじゃない。そうではなく……、平和な世が乱されようといているって話だ。――かつての様に」


「かつての……?」


 ハイカプィは前のめりだった姿勢を戻すと、玉座の背凭れに身体を預けた。


「かつての、とはどういう意味かしら? 十二の大神が帰って来たとでも言うのかしら」


「十二のそれとは違うが、似た様なものだ。放置すれば、あの時より酷い世界が広がる。だから、団結して抗わなければならない」


「今だってしているでしょう? 『虫食い』に対し、あたくしだって義務は果たしているわ」


「それでは足りない。……いや、足りなくなる。これから一年より先、さらなる災いが降りかかるだろう。お前も無事ではいられなくなるぞ」


 これにはハイカプィよりも、神使の三人が総毛立った。

 今にもミレイユへ掴み掛かりそうな勢いであり、若干の殺気も漏れている。


 それに触発されてアヴェリンが更に一歩踏み出し、ルチアが魔力制御の前段階、構える仕草を見せる。

 ユミルはそれらの陰となる形で、自らが動きやすい位置へ移動していた。


 正に一触即発だったが、ミレイユとハイカプィが手を挙げたのは同時だった。

 それで、それぞれの神使が元の位置に戻る。


「どうやら、脅す様な……私が恫喝でもしている様に感じたらしいが……」


「あら、違う? 言うことを聞かねば、ろくな目に遭わないぞ、と言っている様に聞こえたけど」


「まさか」


 ミレイユは一笑に付して、話を続ける。


「そこまで暴力的な神だと、思われていたとは心外だ」


「するかどうかはともかく、出来てしまう所に、そうした発想が生まれてしまうんだと思うわ。まぁ、これだと話が逸れる一方ね。今は素直に話を聞きましょう。……それで?」


「これから『虫食い』とは全く別種の、恐ろしい被害が発生する。それを止めたい」


「一年先に起こる厄災……。それが真実だとして、何故、貴女にそれが分かるの?」


 馬鹿馬鹿しい、とでも言いたそうな表情だった。

 権能次第で、未来を見通す事は可能かもしれないが、今いる神の中でそうした能力を持つ神はいない。


 そうであれば、ミレイユに断言できる筈がないのだ。

 そして、ミレイユの方にもまた、実際に起こると証明する手段がない。


 ルヴァイル達へ説明した時の様に、正直な顛末を話すのも躊躇われた。

 ここまで見ても分かる通り、ハイカプィはミレイユに対し、あまり好意的ではない。


 積極的に敵対する意思はなくとも、波風立てる事に躊躇はないだろう。

 そこで過去へ転移して来たことを告げれば、盛大な非難が待っている。


 下手をすれば、大神と小神の関係にヒビを入れ、その枠組から離脱する事態すら考えられた。

 淵魔とアルケス――そして、その奥に隠れる『核』と戦う為にも、ここで神々の結束を乱す訳にはいかない。


 その枠組から外れる事は、淵魔に喰われる危険性すら孕んでいた。

 最低でも、敵を利する形に持って行きたくないミレイユとしては、不実と思っても真実を話す訳にはいかなかった。


「理由は言えない。しかし、分かる。――何故なら、私が大神だからだ。この星、この世界の危機に際し、感付けないなど有り得ない」


「分かる様で、分からない理屈ね。……でも、それが事実としたら、確かに大変な事だけど」


「――事実だ」


 ミレイユがハッキリと断言すると、ハイカプィは黙り込んでしまった。

 口元に手を当て、視線を下げて何事かを呟いている。


 声には出さず、唇だけ動かしているので、何を言っているかまでは分からない。

 しかし、彼女なりに事態を正確に把握しようとしているのは、間違いなかった。


 ハイカプィは遠くへ視線を移し、そして鋭くする。

 周囲の鬼族は一切の身動ぎをしないものの、固唾を呑んで見守っていた。


 彼らにとって、話の多くは不明だったが、これから災厄が起こると断言された事こそ重要だった。

 誰とも知れぬ流れの魔術士などではなく、小神を束ねる大神が発した言葉である。


 これに注目しない筈がない。

 ハイカプィの背後で佇む神使もまた、祈る様な視線でその背中を見守っていた。


 おおよそ一分経過した後、ようやくハイカプィは口元から手を離した。

 姿勢を整え、背筋も正し、組んでいた脚を下ろした。


「……良いわ、信じましょう。これから一年の後、厄災がやって来る。それに対抗せねば、またに逆戻り……そういう事ね?」


「逆戻りよりも酷い事になるだろう、と思っている。というより、ほぼ確実だが。そして、これの打破には神々の協力が必要だ」


「大変な事になったものね……」


「あぁ、頭が痛い」


 ミレイユがぼやくと、面白い冗談を聞かされたかの様に、ハイカプィは相好を崩した。

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