それは空からやってくる その12(最後のこぼれ話)

 その日、アキラは自宅の庭で、日当たりの良い場所を選び、頬を撫でる風を楽しんでいた。

 アキラが居るのは領主の屋敷で、その屋敷に隣接している庭にて、木陰に置かれたベンチに座っていたのだった。


 一領主の邸宅というには狭すぎ、また質素過ぎる様式だが、どこでなりと鍛錬できるように、その庭だけは立派な広さを持っている。

 かつては多くの時間、この庭で鍛錬をし、時に妻や息子とも多くの汗を流した。


 そのアキラも今や齢八十を過ぎ、頭も総白髪で、肌には深い皺が刻まれていた。

 若い時の弾ける様な生命力は見る影もなく、今は朽ちるのを待つばかりの老木の様だ。


 現役を引退して久しく、今は子と孫が中心となり、淵魔討滅の最前線で戦っている。

 ミレイユが言っていた様に、淵魔との戦いは激しさを増し、力ある数個の冒険者チームを送り込むような戦いは、早晩出来なくなっていた。


 軍を組織し、それを運用するには爵位と地位が役立ち、そして、神の助力と神殿建立による龍脈の支配という発見があって、今も押し続けている。


 アキラは淵魔討滅の雛形を作り、そして子が発展させ、今はそれが孫に伝えられていた。

 やるべき事はやった――。

 そうした達成感が、アキラの胸には満ちていた。


「ひぃおじいさま! わたしくしに、くんれんを、つけてくださいませ!」


 アキラの座るベンチに、黒髪を綺麗に結った少女が走って来た。

 未だ六歳になったばかり、可愛い盛りのひ孫で、走る勢いそのままにアキラの足に抱きついて、少女はそのまま膝の上に乗った。


 その胸には大事そうに、子供用の木剣が握られている。

 ユーカード家に連なる人間は、ある一定の年齢に達すると、淵魔討滅に向けた訓練が開始される。

 遂にその出番がやって来たのだと、ひ孫娘は息巻いているのだった。


「おぉ……、アヴリルも、もうそんな年か……。でも、稽古を付けてくれる人なら、お父様なり、年の離れた分家の従兄弟殿だっているだろう……」


「いやよ! ひぃおじさまは、いちばんのせんしだったんだもの! かみさまに、いっぱいおみとめになられた、すごいせんしだったって、みんないってるわ! あたしも、ひぃおじいさまみたいに、なりたいの!」


「そうかい……」


 アキラは慈愛の篭った優しい顔で笑う。


「じゃあ、一番大事なことを教えてあげよう」


「はいっ!」


「戦いの中で、武器を手放しちゃいけない。そして、もしも倒れたとしても、すぐに起き上がるんだ」


 アキラが頭を優しく撫でながら言うと、アヴリルは不思議そうに首を傾げる。


「……それだけ?」


「たったそれだけの事が、とっても大事なんだ。これ以上を教えて欲しいなら、お父様から許しを貰っておいで。良いと言ったら、だけどね……」


「ほんとうっ!?」


 アヴリルは喜色満面に膝から飛び降りて、早速走り去っていく。

 アキラがその背を柔らかい視線で見送っていると、唐突に空から影が差した。


 それが何であるか理解するのに、一瞬の時間を要した。

 しかし、彼女はいつだって唐突で、――そして空からやって来る。


 アキラはベンチから立ち上がり、その場に膝を付こうとする。

 だが、実際には立ち上がるより早く、その肩に手を置いて押し留められた。


「そのままで良い。老人には、堪える仕草だろう」


「ミレイユ様……。不甲斐ない限りで、申し訳ありません」


「いいさ。年には勝てない。人間というのは、そういう風に出来ている」


 ミレイユが優し気な笑みと共に言ったが、その傍らに立つ女性はまるで正反対で苛烈だった。


「ベンチから立つのでさえ難儀するとはな……! その様子では、ミレイ様のお役に立つ所ではあるまい……!」


「師匠……。相変わらずのご様子ですね。でも、その見た目は……? 私よりお年を召している筈では……」


「不老や若返りの手段は幾つかある。そして、現実的に実行可能であるなら、ミレイ様に出来ぬ事はない」


 理屈においてはともかく、ミレイユは紛れもない神であり、この世の神全てを統率する偉大な大神でもある。

 それを考えれば、特に驚く事ではないのだろう、とアキラは思い直した。


「なるほど、尤もです。愚問でした。……それで、今日はどの様なご用向きでしょう? いえ、この様な場所で不敬でした。すぐ、家の者を呼んで……」


「それには及ばない」


 再び立ち上がろうとしたアキラの肩を、ミレイユは優しく押し返した。

 そして、正面から目を見て、話を切り出す。


「今日はお前に話を持って来た。……自分の身体について、既に察しは付いているだろう?」


「そう……ですね」


 アキラは虚を突かれた顔をしたが、すぐに自嘲にも似た笑みを浮かべた。


「自分のことですから……。やっぱり、そうだったか、と今お話を頂いて、確信しました……」


「お前の寿命は尽きかけている。放っておけば、今日にでも死ぬだろう。だが、私ならばそれを助けられるし、また若々しい身体に戻してやれる」


「それは、つまり……」


「うん。お前を神使に迎えたい。これまでの淵魔討滅、神殿建立の手助け、淵魔を隔てる壁の建設。そしてユーカード家が先頭に立ち、戦い続けてきた功績を称えてな」


 ミレイユはアキラの眼前へと手を伸ばす。

 断られるとは、微塵も考えていない顔付きだった。

 アキラは笑みを浮かべて一礼すると、しかし明確に拒否した。


「有り難いお誘いですが、丁重にお断りさせて下さい」


「……何故、と訊いて良いか?」


「本当に光栄なお話で、名誉な事だと思うのですが……。私には勿体ないばかりの待遇で、恐縮してしまいます」


 それを聞いたアヴェリンが、何かを言おうと前のめりになった。

 だが、それより前にミレイユが手を挙げて、彼女を制する。


「それが本音であるとは分かる。だが、全てではないな。聞かせたくない理由か?」


「いえ、違います。……失礼しました。お断りするというなら、全てを明らかにするべきでした……」


 そう言って、アキラは視線をミレイユから切り、空に浮かぶ雲へと移した。


「妻には全員、先立たれました。いつも私を支え、いつでも良き理解者としてあり、そして良き妻として尽くしてくれました……。きっと、今も首を長くして来るのを待っているでしょう。私は……どこまでも彼女らの傍に居てやりたい」


「そうか……。神の誘いを断るには、十分な理由だな」


「申し訳ありません……」


「謝るな」


 ミレイユはそう言って、出していた手を引っ込め、ひらひらと振る。

 それは今更思い直しても、もうこの手は握れない、というアピールでもあった。

 それまで言い付け通り黙っていたアヴェリンは、耐え切れぬように一歩踏み出し、脅す様に言う。


「そうとなれば、お前の葬儀に参列してやろう。精々、良い死に顔を用意しておく事だ。そこでも不甲斐ないようなら、必ずや引っ張り出し、躾し直してやるからな」


「それは……恐ろしい。精々、良い死に顔を用意して置くと致します」


「……馬鹿め」


 その馬鹿には、色々な意味が込められている罵倒だった。

 アヴェリンは足を戻して顔を逸らすと、それ以上はもう何も言わなくなった。


 ミレイユは一度、悲しげに目を伏せたが、次の瞬間には、いつもの無愛想顔が浮かんでいる。

 そうしてアヴェリンの手を取ると、そのままふわりと宙に浮かんだ。


 とはいえ、浮いた高さは、ひと一人分。そう遠く離れてはいない。

 だが、アキラにとって見上げる姿勢は高まり、そして逆光でミレイユの表情が見辛くなった。


「神使の件は断られてしまったが、お前の労苦には報いたい。……お前は何を望む? ユーカード家代々の庇護か? それとも家の繁栄か?」


「いえ、いいえ……」


 アキラはゆっくりと首を振る。

 ミレイユを見上げる視線は、眩しさに目を細めるせいもあって、実に優しげだった。


「ミレイユ様には、多くのものを頂きました。ただの親なし高校生が、こうまで誇りあり、充実した生を受けられたのは、全てミレイユ様との、縁あってのものです」


「お前の努力だ。そして、お前が勝ち取った人生だろう。私の賜物というのは、少し自分を卑下し過ぎだな……」


「いいえ、そうなのです。私はそう思いたい。貴女と出会わなければ、私の人生は実に空虚なものだった……。だから……」


 アキラは一度言葉を切って、呼吸を整える。

 ただ会話するだけでも、長く喋ることは、今の老体にとって堪えるものなのだ。


「だから、我儘を許されるなら……。我が子らを、ただ気に掛け、見守ってやって下さい。それだけで、十分です……」


「随分と欲がないな。……だがまぁ、実にお前らしい」


 ミレイユが頷くと、アヴェリンもまた、得心したように頷く。


「余りに些細な願いだが、そうして欲しい、というなら叶えてやろう。お前の子孫が危機の時は、必ず私が助けてやる」


「あぁ、師匠なら、安心です……」


 アキラは満ち足りた笑みを浮かべ、そしてアヴェリンはつまらなそうに鼻を鳴らした。

 言うべきこと、聞くべきことが終わったミレイユは、更に身体を宙に持ち上げていく。


「ではアキラ、私は行く。お前もあの世で、達者に暮らせ……」


「あぁ、ミレイユ様……師匠……。最後にお会いできて……私は、私は……」


 ミレイユの高度が更に上る。

 アキラはその姿が見えなくなるまで見つめ、そうして瞼を閉じた。

 そのまま大きく息を吐くと、満ち足りた笑顔のまま動きを止めた。


 身体が完全に弛緩し、ベンチの背凭れから横にずれ、肘掛けに傾く格好となった。

 それ以降、完全に動きが止まり、後に残ったのは柔らかな風だけだ。


 近くの枝に降り立った小鳥が、虫を啄みながら囀る。

 空は高く、雲は白い。それが長閑に西から東へ流れていった。


「ひぃおじいさまっ! おとうさま、おゆるしくださるって! おしえてもらいなさいって、いってくれたわ!」


 その時、母屋から小さな足を懸命に動かし、アヴリルが顔を紅潮させながらやって来た。

 喜色満面に木剣を振り回し、内から溢れる喜びを、抑え切れていない。

 アヴリルはアキラに駆け寄ると、その膝に登って肩を揺らす。


「ひぃおじいさま! ねぇ……! あれ? ねちゃった……?」


 アヴリルは遠慮なく肩を揺するが、アキラから一向に反応がない。

 それで仕方なく、今はアヴリルも渋々と諦める事にした。


「ひぃおじいさま、いいゆめ、みてるみたい。しあわせそうな、おかおだわ。おこしちゃったら、かわいそうかも……」


 アヴリルは暫く悩む素振りをさせた後、起こすのを止めて、その隣に座り直す。

 しかし、それも束の間のことだった。

 何故なら巨大な赤竜が、颶風を巻き起こして上空を横切り、飛んで行ったからだった。


「わぁ……! すごいわ! はじめてみた! かみさまがのってる、あかいりゅう! ひぃおじいさまっ! みて、かみさまよ!」


 アヴリルはベンチから降り、木剣を丁寧に置くと、両手を精一杯動かして手を振った。

 巨竜の姿は雄大で、見ている者の心を震わせる。

 雲を貫き、消えていくその姿を、アヴリルは見えなくなるまで、飽きることなく手を振っていた。


「んっ、つめた……!」


 その時、アヴリルの鼻頭に、一粒の水滴が落ちて来た。

 空は快晴で、雨雲など何処にも見えない。

 雨が降る筈もないのに、不思議な現象を目の当たりにして、アヴリルはただ首を傾げた。



  ※※※



 それから更に時が過ぎ、いつしか『竜のナミダ』という逸話が流布する。

 もしも、その涙を身体に浴びたなら、強靭な肉体が手に入るという。


 後に『東壁の女主人』、『麗傑剣豪』と謳われる、アヴリル・ユーカードが幼少のみぎり、実際にその身に受けた事で生まれた逸話だが……。

 それが本当に涙の効果であったのか、果たして定かではない。

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