それは空からやってくる その9
アキラの呟いた声は、余りに小さく、余りに乏しい為、他の誰にも聞こえていなかった。
突然の事態に思考が追いつかず、結果として一人取り残される事になったが、他の人間からすると膝をつかない態度こそ、特別な許しを得た印と映る。
ミレイユの乗る巨竜の傍には、もう三回りは小さな竜がいた。
そこにもやはり人が乗っていて、見ればアヴェリンだと分かる。
彼女は空中で竜から竜へ飛び移り、そのまま定位置と言える、ミレイユの右斜め後ろに立った。
そうして身体を屈めて、結跏趺坐で座るミレイユに耳打ちする。
ミレイユは一つ頷くと、肩の高さで小さく手を挙げる。
その仕草一つで巨竜が地面に降りてきて、颶風を巻き起こしながら兵団から離れた場所に着地した。
そのまま立派な爪の伸びる腕を交差させると、その上に顎を置く。
結果として、首を伸ばした先――その鼻先近くに、王の一団が位置する事となった。
ミレイユは竜の頭を玉座として、遥かな高みからヴァルデマル王へ声を掛ける。
「王城で会った以来だな。忙しない事で、心も休まらんだろう。……許せよ」
「神の御前なれば、ご尊顔を拝謁するは、恐悦至極! 許せなどと、勿体ない!」
「……相変わらず、固い男だな」
ミレイユは表情を緩めた訳ではなかったが、その声音は明らかな軽やかさがあった。
しかし、柔らかな声音もそこまでで、次の質問が飛ぶのと同時に固くなる。
「私の耳が確かなら、アキラを貴族に列したい、と聞いたが……。己が家臣に迎えたいと……」
「ハッ! もしもお許しいただけるなら、是非とも迎え入れたく存じます!」
「ふん……」
何気ない返事のようだが、そこには不満が見え隠れしていた。ただし、完全に否定しているようにも感じない。
頭を垂れ、視線を地面に縫い付けている者からすると、不愉快さを感じ取って萎縮していた。
しかし、ヴァルデマル王は言葉を取り消そうとはしない。
これからの国防に際し、御使いの力は必要不可欠と信じるからだった。
「アキラ、お前はどうしたい?」
「僕……ですか?」
「お前は如何なる意味においても、縛り付けられることなく、自由に振る舞う権利がある。王に請われては断りづらいだろう……が、そのまま去っても良い」
ミレイユの言葉にアキラは胸を熱くさせ、深く頭を下げる。
「そこまで気に掛けていただいて、ありがとうございます。しかし、王の仰ることは尤もです。あの異形……三体目が居ないと、誰が断言できるでしょうか。そして、もしも再び現れたなら……、他の者には対処不可能です」
「なるほど、即座に断れなかったのは、無辜の民を憐れんだからか……。確かに、この地に生きる者達にとり、アレらへ対抗するのは力不足だ。確かにアレは、たった一体で国どころか、大陸中を蹂躙し得る」
ざわり、と兵団から動揺が走る。
その動揺に当てられて、村人にも悲観する雰囲気が漂った。
そして、乞い願う声が漏れ聞こえる様にもなる。
神よ我らを救い給え、見捨てることなかれ、と呟くのだ。
「無論、私はこれを放置しない。人の手に余る事態は、これ即ち神の出番だ。我ら神の庇護のもと、民と大地は護られる」
「おぉ……!」
神がその言の葉で守護を約束した。
そうとなれば、人心は安堵に包まれ、どこか楽観した雰囲気が流れた。
それは兵士にとっても同様だったが、ヴァルデマル王だけは違った。
「では、我らはただ、神の庇護を賜り、安穏としておればよい、と……? 全てを任せよ、と申されるのでしょうか?」
「――口を挟むな、人の王。大神たる《レジスクラディス》様の仰せである」
アヴェリンが殺気を投げ付ければ、殊勝に頭を下げたものの、その眼光に陰りはない。
国を預かり、民の安寧を守る者としての矜持が、そこに見えていた。
ミレイユが小さく手を挙げると、アヴェリンは口を結んで一歩下がる。
「国防を、ただ神に預けるのも、王として不安な所だろう。特に、彼らからすればポッと出の神だ。果たしてどこまで信用して良いものか、迷うところでもあるだろう。その気持ち、良く分かる」
「滅相もございません、……が、心底を慮り下さって恐縮でございます」
「だから、まぁ……自分の裁量において動かせる戦力を、手元に起きたい気持ちも、また理解できる」
「ハッ! 真に痛み入ります……!」
ヴァルデマル王が深く頭を下げると、ミレイユは小さく頷く。
それは誰にも見えていなかったが、その場に漂う圧力が軽くなった事で、どう受け止めたか理解できたろう。
そこで、とミレイユの視線が、改めてアキラへ向く。
「質問は最初に戻る。お前はどうしたい? 受けるのか?」
「それは……」
「ヴァルデマル王の見立ては正解だ。これまでアヴェリンに、一つ調査を任せていた事でもあるが……。この大陸で、妙な気配を感じている」
そう聞いて、アキラは南東大陸へ連れ出された時の事を思い出していた。
アヴェリンは確かに、何かに急かされ、追い立てられているように見えたものだ。
着陸の時間さえ惜しみ、空中で放り出したのが、その良い証拠だろう。
「アキラが遭遇した件は、大事の前の小事に過ぎない。別の地にて五体、既に発見され……、そして同時に始末された。だが、これが終わりとは思えない」
「既に、五体も……」
「まだ広く分布もしておらず、新たに確認できた個体も存在しない。だが、あれは生物とは言えない。
この大地に住む者にとって、そしてアキラにとっても、考えたくない事態だ。
しかし、異形の体躯を切断した時点で、生物でないのは実感済みだった。
ならば、何か別の事象を元に生まれ落ちる、と言われても否定できる材料がない。
「実際に解析を試みたところ、あれは喰らう程に力を増やす能力を持っている。その際、生物の特徴そのものを吸収するようだ。そして、アキラが対峙した相手は、その中でも強固な個体だったようだな。――それは何故か」
「……まさか。刻印……もっと言えば、マナ持ちの人間を吸収したから……?」
マナを持たない物質は、マナを持つ相手に対し、全くの無力だ。
それは生物、無生物を問わない。
アキラが高所から落下しても、一切傷を負わなかったのも、それが理由だった。
逆を言うと、マナの無い大地こそが、強力な異形を生み出さない土壌となっていた、と言い換える事もできる。
しかし、これから新大陸はマナ持ち人間が流入し、更に言えば神々の手により、世界中がマナで満たされようとしている。
これでは敵に餌を与えるのと同じようなものだ。
そして、マナを持たない人間には、一切抵抗できないので、蹂躙されるしかなくなる。
「マナを……、世界に満たすのは、止められないのでしょうか? 魔獣や魔物の発生は、マナがあればこそ生まれる物でもあるはず……。これがあの異形に、どれほど利する事になるものか……!」
「手遅れだ。既に事は始まってしまった」
「で、ですが……!」
「堰き止める事は出来る。しかし、それは人の腕を縄で縛り、血流を止めるのと変わらない。壊死して腐り……結果、切り離すしかなくなる」
アキラは言葉が詰まり、それ以上何も言えなくなった。
「現状、アレはこの大陸にしか発生していない。果断な決断が必要というなら、敢えて切り離すのは有効な手立てかもしれないが……」
「そんな……!」
アキラが言い募ろうとした時、ミレイユが再び片手を小さく挙げる。
分かっている、と言うように、ゆったりと手を動かしてから、話を続けた。
「そうしたくないと思っているから、対策を考えていた。そこで……、三度訊こう。お前は貴族位を受けるのか?」
「……それが、何か関係あるのですか?」
「この地に根を下ろすかどうかは、大きな違いとなるだろう。――いいか、これよりあの異形の化生を『淵魔』と呼称する」
まるで泥のような体躯、そして両断した所で死なない不気味さは、正しくその名に相応しい。
アキラは粛々と頭を下げ、敵の名前を受け入れた。
「これよりは、淵魔と戦い、駆逐する時代が始まるだろう。あれはこの世に必要ないものだ。人のみならず、汎ゆる生命を冒涜する存在は、汎ゆる手を尽くし根絶せねばならない」
「はい……ッ!」
「だが現実として、如何な精兵と言えども、マナを持たない
「そう思います」
アキラは覚悟を以って、強く頷く。
ミレイユが何を言うつもりか、何を期待しているか、それを正確に感じ取った上で、強い意志を感じさせる瞳で頷いた。
「先頭に立って、戦える者が必要だ。それも長く……、マナが根付いた土地、人がマナを当然持つようになった時、確かな実績を受け継ぐ者が……」
「志願いたします! 先頭に立ち、皆を鼓舞し、淵魔を駆逐する日まで、長く戦い続けます!」
ミレイユはただ頷く。
しかし、その瞳はどこか悲しげで、申し訳なさを感じているようにも見えた。
「……長い戦いになるぞ。そして、『巣』なんて物があるとして……。それを見つけ、破壊できなければ、お前の子や、孫にも戦わせる事にもなる。爵位を受けるかどうかは、民を率いて戦うのみならず、指導者としての立場を確固たるものに必要となるだろう」
「この命一つで済ませられるなら、それが最善です! その様に奮闘してみせます! ですが、もしそうが叶わぬなら、我が子に使命を託します……!」
「そこまで背負う必要はないぞ。恩なら既に……」
「いえ! 僕が――私が、そうしたいのです! 貴女様の一助になれるなら、これに勝る喜びはありません!」
ミレイユはまたしても、悲しげに微笑む。
それは単に、既に終えた恩返しを、未だ続けようとする意志を感じ取ったからであり――。
それを言わせてしまった自分自身に、悔いている事でもあった。
「いっそ、お前の王国でも打ち立てるか? そちらの方が面倒がないだろう」
「いえ、身に余り過ぎます。王の器ではないと、自分自身よく分かっていますから……」
「そうだな……。お前は前線で、身体を張っている方が良く似合う。泥臭く戦う事こそ、お前の本領……。それは王では出来ぬ事か」
アキラは無言で粛々と礼をする。
未だもって周囲は平伏した兵と村民がおり、息を殺す様にして、神の会話に耳を傾けていた。
「淵魔は未だ、余りに未知数だ。数を増やす仕組みを解明できなければ、お前が頼りとする仲間だけではなく、多くの兵を率いて戦う必要が出るかもしれない。爵位はその為に便利な肩書になる」
「人を使った経験はありませんが、率いるに足る人物だと思われるよう、努力いたします」
「そこまで気張る必要も……、いや……」
途中で言葉を止めて、ミレイユは竜の頭から立ち上がった。
一拍の間を置いて、空中を滑るようにアキラへ近付く。
そうとなれば、アキラも立ったままでおられず、その場に膝をついた。
ミレイユは低くなった分だけ、浮遊の高さを調整すると、その肩に手を置いた。
「汝、
「ハッ! 謹んで、お受けいたします!」
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