それは空からやってくる その4

 サリサはまだ八歳と幼いが、森と共に育った子供だ。

 森の奥へ踏み込む事は許されていなかったものの、入り口付近なら庭の様に歩けるし、何より子供全般がそうであるように、言い付けを守る素直な子でもなかった。


 だから、ミーナを追って森に入っても、まぁ大丈夫だろうと、軽い気持ちで後を追った。

 そこに不安などなかったのだが……しかし、この時は森の様子が違った。

 獣たちが一斉に逃げて来て、津波の様に押し寄せて来る。


「ひっ……!?」


 サリサは咄嗟に木の幹へ身体を押し付け丸くなり、怒涛の津波をやり過ごした。

 獣の群れは木々を器用に避けて行き、その根元に隠れている誰かなど見向きもしない。


 そうして全ての獣が通り過ぎた後、一拍の間を置いて、また何か別の獣がやって来た。

 サリサはそれを木の影から見て、ぞっとする。


 それは獣ではなかった。

 どの様な獣にも当て嵌まらず、異様な姿形をしている。

 獣の亡霊が集まって、とにかく一ヵ所に集めたような、醜悪な姿だった。


「ここにいたら、きっと……」


 ――殺されてしまう。

 言葉にする勇気はサリサになかったが、それだけはハッキリと理解できた。

 逃げなくてはならないと分かるのに、足が竦んで動かなかない。


 そして、異形の獣もまた、即座に動こうとしなかった。

 鼻を鳴らし、臭いを嗅いで、何かを探している。

 ――あたしを探してるんだ。


 逃げよう。

 逃げなきゃ。

 そう心では思うのに、足は言う事を聞いてくれない。


 いや、身体が動くのを拒否しているのだ。

 動けば見つかる。見つかれば殺される。

 それが分かって、万が一の可能性に賭けている。


「フゴ……ッ! ゴフ……!」


 その時、木々を掻き分け、とりわけ大きな熊が現れた。

 この森の主、縄張りの支配者だ。

 それが異形の前に立ち塞がり、襲い掛かろうとしている。

 森の主は縄張り意識が強く、それを荒らす者は決して許さない。


「ゴォォォォ!!」


 異形の姿も大きく、森の主はその半分程しかない。

 しかし、体格の差など無視して、森の主は咆哮を上げると、猛然と突進する。

 腕を振り上げ、その頭へ叩き下ろされたが、決着はまさにその一瞬で終わった。


 異形の身体が半分に割れたかと思うと、そのまま森の主に噛み付いてしまう。

 頭から胴体まで、体半分が一気に噛み千切られ、熊の巨体は喉奥へと消えた。


「ひっ、ひぅ……っ!」


 余りに恐ろしく、余りに呆気ない。

 その衝撃的な光景に、サリサは涙が止まらなかった。

 謎の異形はそれで満足したのか、再び何かを探そうと一歩踏み出す。


 ――きっとこのまま、ころされる……。

 サリサは漠然と理解し、しかし逃げる勇気も出ず、ただその場に蹲り声を殺して泣いた。



  ※※※



 アキラ達は走る道々、子供の目撃情報を聞いて回った。

 異常な速度で駆け寄って来る人物に、最初は誰もが度肝を抜かれていたが、サリサの緊急事態を言えば素直に協力してくれた。


 その目撃情報を頼りに、やはり森へ行ったのだと確信し、その後を追う。

 辿り着いたのは先程と同じ森で、ミーナを連れて出て来た時とは、違うルートで中へ駆け込んだ。


 そうして奥へ進む程に、食い散らかされた獣の死体が見つかる。

 既に日は落ち、暗い影を落としているけれども、その異常性は嫌でも目についた。

 中には人間の腕までも見つかり、そして、かつて鎧を身に付けていたと分かる。


「兵士がここに居たのか……。一人じゃないな、巡回兵だろうか……?」


「何だろうと構いやしないさ。アイツは見た目通りに凶暴で、そして訓練を受けた人間程度じゃ、まるで相手にならないってことだろう?」


 イルヴィが眼光鋭く呟く。

 そして、射抜く様に見る先には、異形の獣が木々の間から顔を出していた。


「ハッ……、お出ましかい。待ちかねてたってか?」


「待て、イルヴィ。こいつ……さっきと同じ奴か? 見た目がどこか違うような……」


「あんな不格好で、継ぎ接ぎだらけの獣モドキ、違いなんて分かるもんか」


「そうだね……」


 イルヴィの吐き捨てる様な物言いに、アキラもとりあえず頷く。

 事はどうあれ、今は目の前の敵を倒す方が優先だった。


「何処から流れて来た魔物か知らないが、早々に出会えたのは僥倖だった。あのまま逃がしていたら、被害がどれだけ拡大していたか、分かったものじゃない」


「遠慮はいらないんだね?」


 スメラータが意気揚々と大剣を肩に担ぎ、身を低くして構えた。

 彼女の戦闘スタイルは、クラウチングスタートに似た格好から、一気に接敵して斬り掛かるものだ。


 隙も大きく、反撃に弱い部分がある反面、押せる状況にはどこまでも強い。

 そして、それをフォローするアキラの存在もある。


「一番手は頂くよッ!」


「――ダメだ、待てスメラータ!」


 異形の異常に逸早く気付き、アキラが横合いからスメラータを蹴りつける。

 肩を狙って蹴ったので、痛みはそれ程ない筈だった。


 蹴りつけた事で彼女の体勢が大きく崩れ、突き飛ばされ――、まさに間一髪。

 一瞬前まであった頭の位置に、鹿の頭が恐ろしい速度で伸びていた。


「あっぶなぁ……!」


 上手く受け身を取りながら、冷や汗を流して彼女は呟く。

 アキラは伸び切った瞬間を狙って、その頭を首の付け根から切り落とした。


 しかし、伸びた首から出血などもなく、そのまま鞭のようにしなって戻っていく。

 切り落とした頭部はその場で溶け、形を完全に維持できなくなると、そのまま跡形もなく消えていった。


「ありがと、アキラ。……にしても、何なのアレ。そういうのアリ?」


「アリもナシもないでしょう。でも、初めて見るタイプの魔物ね……。アキラ君、これは特級が対峙するに、相応しい相手と改めるべきだわ」


「そうだね、気を引き締めよう」


「正面から行くのは止めな。撹乱させるのが良いだろう。それに……、見なよ」


 切り落とされた首の先には、新たな鹿の頭が形成されようとしている。

 その再生速度は余りに早く、うかうかしていられる暇はなかった。


「弱点は分からない。けど、どこかにはある筈だ。散会して、それぞれ別方向から攻撃しつつ探すんだ」


「あいよっ!」


 小気味よい返事をして、イルヴィが駆け出す。

 それに合わせてスメラータと七生も、同時に動いた。

 そして、アキラも最後に地を蹴って、木々を盾にしながら接近する。


 そこで唐突に気付く。

 木の根の間に、身体を小さく丸めて、幼い少女が震えている。


「この子が……!」


 泣け叫びたいほど心細いだろうに、必死に声を押し殺しているのが分かった。

 アキラは咄嗟に近寄り、その肩を抱いて持ち上げる。

 びくりと震えた小さな子が、涙に溢れた目をまん丸に開いた。


「サリサちゃんだね? 大丈夫、お母さんに頼まれて捜しに来た」


「うっ、うぅ、うぅぅぅ……!」


 幼い娘の瞳から、更に涙が溢れ出る。

 優しく宥めてやりたかったが、今は異形が迫ってくる最中だ。

 そうした慰めは後回しだった。


 何より、敵は異常で規格外の存在で、幼い子を抱いまま、戦闘など出来ない。

 よく戦況を見極めてから――。

 初見の敵、そして何より常識外の敵に対し、慎重論は正しい選択の筈だ。


 しかし、異形はその常識をこそ無視して、木々を噛み砕きながら襲い掛かって来た。

 太い木の幹が、まるで爪楊枝かの様に折れ、再生中の頭などお構いなしに、身体を二つに裂いてアギトを作り出す。


 一直線にアキラ目掛けて襲う姿に、アキラは目を丸くして飛び退った。


「――いぃッ!?」


 アキラはサリサを胸の中に抱き込み、万が一でも傷を負わないよう懸命に逃げる。

 しかし、異形は逃げた分だけ追って来た。


 そこへ七生が横合いから斬り付け、眼球らしき部分を深く抉った。

 手応えは間違いないのに、やはり血の一滴も流れない。

 だが異形は、状況を不利と受け取る知性はあるようだ。


「ギィィィィイイイ!!」


 耳をつんざく悲鳴と共に、異形は木々を薙ぎ倒しながら、暗い森の奥へと隠れてしまう。

 イルヴィやスメラータも流石に戦慣れしているだけあって、これを迂闊に追おうとはしない。


 アキラは七生と距離を離しながら、どこから襲ってくるつもりか、慎重に気配を探る。

 異形の登場は、いつだって突然だ。

 あの様な姿だが、上手く姿を隠す術を身に着けているのだ。


 ――今の内に、この幼い娘だけでも外へ逃がすべきか。

 アキラ達が囮になっている今なら、不可能ではないはずだ。


 しかし、暗い森の中、子供を一人にするのも躊躇われた。

 アキラ達が直接届ける方が、何倍も安全なのだ。


 ただ、それだと戦闘の渦中に身を置かせる事になってしまう。

 守り切る自信はあるものの、悩ましい問題だった。


 決めあぐねている間にも、不気味な沈黙が続く。

 周囲に音はなく、鳥の鳴き声はおろか、虫の音すら聴こえなかった。

 森の中は暗く、夕闇が迫る時間帯、空には藍色の帳が降り、視界は更に悪くなる。


 ――何処から……。それとも、逃げたか……?

 アキラがまさか、を考えたその時、唐突に横合いから、異形のアギトが飛び込んできた。


「なにくそっ……!」


 左右から迫る、無数に生えた牙へ、アキラは刀を持つ腕を伸ばして突っぱねる。

 それだけではなく、刻印『年輪の外皮』を発動させて、身体に幾重もの防御膜を作った。


「――アキラ君!」


 もっとも身近にいた七生が、アキラに駆け寄る。

 しかし、アキラの刻印の頑丈さは折り紙付きで、誰しも無事を疑っていない。

 ただし、バキリ、ベキリ、とガラスのひび割れる音が聞こえていて、突破されるのは時間の問題だった。


 異形は顎を刀で刺し貫かれることなどお構いなしに、アキラをアギトで咥え込む。

 そうして、そのまま木々に体当りを繰り返し、喉奥へ押し込もうとしていた。


「ひぃ、ひぅっ! うわぁぁんっ!」


 サリサも流石に声を押し殺す事ができず、泣き叫ぶ。

 アキラの腕の中であり、そして防御膜の内側にいることで、彼女に傷の一つもなかったが、振り回される恐怖はどうしようもない。


 異形はアキラを拘束したままアギトを左右に振り、木々にぶつけては、とにかく暴れた。

 そこへ、追い付いたイルヴィが横合いから槍を突き出し、その足を地面に縫い留めた。

 更に追撃として、頭上からスメラータが降ってくる。


「オッラァァァ!!」


 木の枝を蹴りつけ、落下速度が増した一撃を大上段で繰り出す。

 アギトの根本から斬り付けた一撃は、胴体を真っ二つに斬り裂いた。

 そこへ更に七生が居合い切り、残った身体の半分を横半分に割る。


「ギィィィィッ!?」


 そうなると、流石の異形も身動き出来なかった。

 のたうつように身体を暴れ回らせたものの、それ以上の反撃もなく、次第に動きも散漫となる。


 そして、死体の腐敗を早送りで見るように、身体全体が大地に溶けて消えていった。

 後には何も残らない。

 そこから新たに何か生えてきたりしないか、最後まで注視し続けた後、何も起きない事を確認して、アキラはそっと息を吐く。


「倒した、か……」


「どこまでも異常なやつだったね……。何なの、これ? 魔物……で、良いんだよね?」


 身体が溶けて消える魔物など、これまで聞いたことがない。

 例外はスライムを主体とした魔物だろうが、それとて単に両断しただけで死にはしないものだ。


 油を掛けて焼くなり、魔術的攻撃で消滅させる必要がある。

 今は地面に、焼け跡にも似た痕跡を残した異形を、顰めた顔つきで見つめる。

 その時、アキラの腕の中で泣いていたサリサが、より一層大きな声で泣き始めた。


「あぁ、ごめんごめん……。怖かったね。でも、もう大丈夫だから……」


「ひぅ、ひっ、ヒン……!」


「ほらさ、もう大丈夫なんだから泣き止みなよ、ガキンチョ」


「もう、何て言い方するの」


 イルヴィが頭を撫でてあやすも一向に泣き止まず、そのぞんざいな子どもの扱いに、七生が苦言を投げて入れ替わる。

 七生はアキラからサリサを受け取るなり、優しく頭を撫でて涙の痕を拭った。

 時折、小さく上下に揺すったりと、その手慣れた扱いに、アキラは素直に感心した。


「意外……と言ったら失礼かもしれないけど、サリサちゃんもすぐ泣き止んで……。やっぱりこういうの、男より女の人だなぁ」


「そうでしょう? 母親に向いていると思わない?」


「露骨な上に、下手なアピールは止めるんだね。子供は優しくするより、躾が大事なのさ」


「ちょっと、あやすんなら、アタイだって上手くやれるんだけど!?」


 話が変な方向にズレ始めたのを感じ、アキラはいつもの口喧嘩が始まる前に両手を左右に広げて止める。


「まぁまぁ、今は無事に助け出せたんだし、早く親御さんに届けてあげようよ」


「それもそうね」


 七生が素直に頷いて、サリサを腕に抱いたまま、来た道を引き返そうと踵を返す。

 それについて異論ないのは共通していたが、アキラとしてはまだ気になる部分が残っていた。


「この異形は師匠に伝えなきゃ……。肉片の一つでも、サンプルとして採取できたら良かったんだけど……」


「溶けて消えるっていうんだからね……。そんな奴を採取も何もないが……、何もかも常識外の奴だったから……」


「身体を両断しただけじゃ、まだ身動きしてたよ。七生さんが残った方を斬り付けて、それでようやく力尽きたって感じだった……」


「じゃあ、そっちに弱点があって……、だから溶けたのか?」


 イルヴィの疑問に、七生は首だけ向けて顔を横に振る。


「何かそれらしいものを斬った、って感触はなかったわね。どこまでも、粘土細工みたいなヤツだった。筋肉もなければ、骨もないのよ」


「あ! それ、アタイも思った。確かに骨を斬った感触なかったんだよ」


「牙や爪に見えていたのも、実は見てくれだけが同じの、別物だったのかもね……」


 何にしろ、死体まで消えてしまったのでは、その検分をしようもない。


「切断面に内蔵も見えなかったわ。やっぱり、生物として見ると、不自然さばかり目に付くわ……」


「ともかく、新大陸特有のもの、と見るしかないだろう。マナがないから魔物もいない、と思っていたけど、もしかしたら……だからこそ、異常生物が存在しているのかもしれない」


「……そうね、私達に真実は分からない。今はそう考えるしかしないわ」


 七生が納得し辛い様子で、しかし首肯したその時だった。

 横合いから、また別種で類型の異形が、大きなアギトを広げ襲い掛かってきた。

 アキラは咄嗟に仲間を弾き飛ばし、自ら囮を買って出る。


「ギィィィヤァァァ!!」


「――ぐぁっ!?」


「まだいたの!? そんなの、聞いてないよ!」


 スメラータの理不尽な怒りが口を衝いて出る。

 そして、それは誰もが同じ気持ちだった。


「そう、違和感は最初にアキラ君が……! 別個体だったと気付いていれば!」


「御託は良いから、こいつを叩くんだよ! 七生はガキを守りな!」


 アキラはチームの要、そして盾役でもある。

 強靭な防御力としぶとさは、誰よりチーム全員が理解してることだ。


 異形はアキラを噛み砕けず、加え込んだまま、がむしゃらにアギトを振り回している。

 イルヴィとスメラータは、それぞれ別方向から斬り掛かろうと駆け出した。


 七生の腕の中には、不安に顔を歪ませたサリサがいる。

 守るのは当然だが、パーティの一員として――何より魔を討つ御由緒家の一員として、ただ逃げるのはその矜持が許さなかった。


「ちょっと揺れるけど、我慢してね」


 七生はサリサを抱いたまま、制御力のギアを一段上げて、二人の後を追い掛けた。

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