それは空からやってくる その2
ミーナが森に駆け付けた時、そこでは普段感じられない、一種騒然とした雰囲気を発していた。
――獣達が騒いでいる。
それはつまり、森に起こった異常事態を示していた。
狼が異常繁殖したとしても、こうはならない。
森に人攫いが出るという、まことしやかな噂と、関係ないとは思えなかった。
「父さん……!」
ならば、森に入った彼女の父とて、無事でいられる保障がない。
危険の渦中にあるかもしれず、ミーナは周囲を注意深く警戒しながら、奥へ奥へと走った。
既に日は傾き始め、空は橙色に染まりつつある。
この様な時間から森に入り込むなど、普通なら有り得ないし、あってはならない。
それは自殺にも等しい行為だ。
それでも、父の無事を祈るだけで帰って来ると思えないから、ミーナは走りに走った。
木々の間に、焼けるような西日の光が差し込む。
今はその光を頼りに探せるが、それも日が沈んでしまえば絶望的になる。
焦る気持ちを抑えて、ミーナは目を皿にしながら父を探した。
何処にいるかも分からず、そして迂闊に声を上げる事も出来ず、息を押し殺して森を探る。
「闇雲に探してたら無理だ……」
猟師は森の中に幾つも拠点を持っている。
それは獲物から身を隠す為だったり、簡易的な休憩所として活用する為の物でもあった。
獣が嫌う煙玉や、人間の体臭を紛らわせる臭い消し、簡単な傷薬なども用意してあるので、何かから逃げているなら場合なら、そこに隠れている可能性がある。
「まずは、そっちに行ってみよう……!」
当てもなしに探すよりは幾分、建設的だった。
急いで向かうと、そこには果たして、本当に父がいた。
木と葉っぱだけで作った、粗末な三角錐形の狩猟小屋――。
大人二人が入れるだけの広さしかなく、そして……そこに父が倒れている。
意識はなく、腹部から血を流し、それがズボンまで濡らしていた。
どうにかここまで辿り着いたものの、そこで意識を失ってしまったらしい。
「父さん……っ!」
ミーナは咄嗟に駆け寄り、傷を確認する。
父は血塗れの腹部を手で押さえつけており、意識を失う直前まで、生きる希望を捨てなかったと分かる。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
しかし、間違いなく生きていた。
「良かった、無事だ……!」
だが、命の危機は依然、変わらない。
適切な処置なくしては、決して助からないだろう。
傷を庇う手をどけて、その傷口を確認する。
「何、これ……」
獣の爪でもなく、牙でもない。
角で抉られた様にも見えるが、その様な獣は、この森に棲息していない筈だった。
「どこか別の森から流れてきたの……?」
そうと思うしかなかった。
凶暴な獣が縄張りを変え、だから森が騒がしくなっているのかもしれない。
「厄介な事に……」
縄張りに変化が起きるのは、森において珍しい事ではない。
しかし、森の主がすげ変わった場合、森が落ち着くまで九十日か、あるいはそれ以上の日数を要する。
その間は、どの獣も気配に敏感で攻撃的になり、狩猟には適さない期間となるのだ。
狩りは自粛を余儀なくされるだろう。
そして何より、その危険な獣を狩らない限り、猟師もまた容易に狩りを出来なくなる。
その間の食糧はどうする――。
領主はこの新たな森の主の狩猟に、協力してくれるだろうか――。
色々な考えがミーナの頭を一瞬で巡り、そして即座に意識を目の前に戻して、傷の治療に手を付けた。
「でも、こんな深い傷、診たことも治療したこともないよ……」
脇腹を深く抉った傷は幸い、斜め方向へ刺し貫いた様で、内蔵は無事に見えた。
しかし、それも結局、素人判断に過ぎず、傷の縫合だって必要だ。
それなのに、ここには縫合できるだけの準備がない。
「まず、薬草を傷穴に詰めて、包帯で巻いて……、それで……!」
大の男を一人で担ぎ、運び出すのは不可能だ。
その上、父を傷つけた獣が近くにいる。
血の匂いを嗅ぎつけ襲ってくるかも知れず、助けを呼びに行っている間に襲われる心配もあった。
「獣除けの香は、焚いておくとして……」
狭い狩猟小屋の中を漁り、他に何かないか、都合よく打開策が落ちてないか、懸命に探す。
その時、突然もの凄い衝撃を受け、ミーナは狩猟小屋から吹き飛ばされた。
「きゃぁああッ!?」
小屋はバラバラになり、同じく吹き飛ばされた父を、必死に掻き抱いて転がる。
――逃げなきゃ。
それだけは本能的に理解できた。
父を襲った獣がやって来た。そして今、逃げる間もなく襲い掛かろうとしている。
見上げた獣は超大で、全く見たこともない相手だった。
シルエットは鹿に似ているが、色々な部分で違いがある。
前足は狼に見えるのに、後ろ足は熊で、胴体こそ鹿だが、全身に羽毛を生やしていた。
肩からは角らしきものが螺旋状になって生え、尾てい部分から人の手足が連なり、尻尾の様に生えている。
「何よこれ……。何なのよ、これ……!?」
異様と言う他なかった。
獣の身体を千切っては合わせ、粘土細工の様に無理やり合わせて作ったもの――。
それが目の前で、殺意を漲らせて立っている。
「ギィィィィイイイイッ!!」
その咆哮までが異様だった。
壊れた楽器を無理に鳴らした様な不協和音が響き、心と身体が拒絶する。
未知の獣、異様過ぎる獣を前に、ミーナは恐怖で動けない。
父の身体を抱き、涙を流して震えることしか出来なかった。
「ギィィィイイイ!!」
獣は再び吠えると口を大きく開ける。
しかし、体積に対して鹿の頭はいかにも小さく、捕食には向かないように思われた。
それも束の間、鹿の頭が上下に割れて巨大な口が現れる。
無数の牙が生えた、熊でもなく、狼でもない乱雑な歯が並び、ミーナともども捕食しようと獣が迫った。
「誰か……ッ!」
助けなどない。
都合よく通り掛かる者など居ない。
それが分かっていても、助けを呼ばずにはいられなかった。
そして――。
思ってもいない者が、思ってもみない方向からやって来た。
「……ぉぉぉぉおおっ!?」
※※※
アキラが落下したその先に、異様な姿――異形の獣が、大きなアギトを開いて誰かを襲っていた。
魔物が棲息しない地、マナが存在しない土地……。
それが新大陸においての常識だ。
肌を擦り腕を鞭打つ木の枝から伝わる感触からも、それは間違いなかった。
本来なら肌の至る所が裂傷してよさそうなものなのに、実際は細い切り傷一つない。
だというのに、あの異形はどうしたことか。
魔物としか言いようのない、明らかに獣から逸脱した生物がそこにいる。
落下の浮遊感に叫び声を上げながら、アキラは抜刀一閃、その首を狙って振り抜いた。
「し、ししょぉぉおおおおっ! ――ぉぉぉぉぉおおっ!?」
異形の首は、その一太刀であっさりと斬り落とされる。
そうして、アキラが地面を踏みしめた瞬間、次々と仲間たちも落ちて来た。
「あいよぉ、っとぉ!」
「ォォォオ、ラァッ!」
「皆、警戒して!」
それぞれがアキラに倣って、ただ着地するだけでなく、落下速度を利用した一撃を食らわせる。
胴体の一部であったり、内臓を深々と抉る一撃で、それら全てが致命傷となる攻撃だった。
七生は唯一攻撃しなかったものの、それは最後尾にいたことで、敵の異常を察知できたからだ。
「おかしい、血が出ない! こいつ何なの!?」
それがどの様な異形であれ、魔物であるなら、それもまた生物に違いない。
必ず臓器や急所と言える部分があり、斬れば血も流れる。
しかし、目の前の異形には、それら一切がなかった。
「明らかに異常よ! 注意して!」
「首を落としたのに血が出ないってのは、確かに異常だ。有り得ない」
「……っていうか、アキラ! ここに魔物はいないって話じゃなかった!?」
アキラの独白に毒づく様に、スメラータが抗議する。
しかし、それを鷹揚に応えたのは、イルヴィだった。
「良いじゃないか。未知との強敵は、むしろ望むところだったろ? ほらスメラータ、お待ちかねの敵だよ」
「そうだけど、そうじゃないって言うか……。流石に首を落とそうと、胴体を抉り取ろうと、血さえ出さない相手はお呼びじゃない、っていうかさ……」
「ゴースト……いえ、アンデッド系? ……にしては、色々と説明付かない所もあるわよね」
七生の指摘に、アキラは頷く。
ゴースト系ならば、血が出ないのは、別段おかしな事ではない。
しかし、それならば身体の一部が欠損することも、頭部を斬り落とせたのも、また有り得ない話なのだ。
ゾンビならば欠損するだろうし、血を流さない場合もあるが、目の前に異形には見て分かる腐敗がどこにもない。
この異形はどちらでもなく……、異例中の異例。だから、判断に困っていた。
「頭を破壊しても生きているアンデッドは、術者が近くに居て操作してるってのが、相場だけど……」
「死霊術は禁忌で、口伝さえされない、朽ちた魔術じゃなかったっけ?」
「使えるのは多分、この世で唯一、ユミルさんだけだと思うよ。それに、僕を襲って遊ぶ為に使う事はあっても、無辜の民にこうした使い方はしないだろう」
「アキラになら使うってのが、まぁどうなのって感じだけど……。禁忌の言葉の意味、知ってんのかな?」
スメラータの当然すぎるツッコミに、アキラはあっけらかんと笑う。
「あの人が使いたい時には、不思議と禁忌の言葉は辞書から消えるんだ」
「チョー迷惑じゃん、それってぇ……!」
「――で、アキラ! こいつはその悪戯じゃないってんだね!?」
異形は今でこそ動きを止めているが、傷口が
そして、近くに怪我人と、それに付き添う娘がいることは、勿論アキラも気付いていた。
「今は怪我人を逃がすのが先だ! 動かない今の内に、僕らで運ぶ。――イルヴィ、最後尾で警戒を。殿を頼む」
「任せな!」
「僕が怪我人を、スメラータは娘さんをお願い」
「了〜解!」
「七生さんは前衛。敵が居たら斬り伏せて。娘さんに最短距離で森から出られるルートを聞いて、とにかく脱出を目指す。今はその方が良い」
アキラの指示に全員が同意すると、地を蹴って駆け出した。
木々の間を縫いながら、とにかく全力で異形から逃げる。
大抵の魔物や魔獣と戦ってきたアキラ達だが、常識すら通じない、全くの未知との戦闘は慎重になるべきだった。
幸い、重傷を負った異形は、即座に動き出そうには見えない。
受けた傷はしっかりとダメージになっているらしいが、急所を攻撃しても死なないとなると、情報が必要だった。
服装からして、この親子は山師に近い。
異形の事も知っているはずだ。
そして何より、今にも零れ落ちそうな命を助ける為に、アキラ達は懸命に走ると決めた。
それから実際走り出して、しばらくしての事――。
娘の方はアキラ達の速度について行けず、軽い錯乱状態に陥っていた。
「なにこれ、速い! 怖い! どうなってるのよぉぉ……!?」
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