アキラ達の帰還 その3
殴った音は、そう大きなものではなかった。
しかし、誰かが発した、あっという声を最後に、飯屋は静寂に満たされる。
客全員の視線が集中し、男も一瞬怯んだ所を見せた。
それでも、今更後に引けないのか、あるいは酒が気を強くしたのか……。
男は気炎を上げて、アキラを罵倒し始めた。
「どうしたよ、おい! どうした! 女の尻に隠れてばかりで、何も出来ねぇか!」
「どうしたものかな……」
当然ながら、腰の入っていない、しかも酒に溺れた男の拳など、アキラには全く痛くない。
水夫として鍛え上げられた肉体を持っていたが、アキラの卓越した魔力制御は完全に威力を殺していた。
しかし、それはそれとして、殴られた落とし前は付けないといけなかった。
このまま終わらせると、冒険者が暴力に屈したと思われる。
それは引いては、冒険者ギルド全体へ波及する問題ともなりかねない。
何かしらの形で、しっかりと謝罪を引き出し、沈静化させる必要があった。
「よし、アキラ、やっちゃえ! 一発で終わらせてよ! アタイへの愛の為に!」
「なに言ってんだい、バカだね」
そこで意外にも、水を掛けてきたのはイルヴィだ。
「やられたら三倍返しに決まってるだろ。三発殴って終わらせな。あたしへの愛の為にね」
「ちょっとイルヴィ、止してちょうだい。三倍返しはお礼の方だわ。順当に倍返しで済ませるべきよ、私への愛の為に」
「えぇ……?」
アキラは、ほとほと参ってしまった。
どうであれ、酔った男を殴り倒さねばならず、そして殴った回数次第で、彼女らの何れかへ愛を捧げることになるらしい。
そして、四発殴るのは、流石に過剰となって咎められる。
アキラはどうあっても、誰かに愛を捧げる必要に迫られてしまった。
「どうしたもんかなぁ……!?」
今の関係のまま――誰からも好意を持たれながら、誰も選ばないのは不実だと、アキラ自身よく分かっている。
しかし、決めろと言われて、すぐに決められることでもなかった。
それに、場所が場所なら、理由も理由だ。
日本における、学生時代のお付き合い、とは違う。
誰かを選ぶことは、その誰かとの婚姻を意味する。
加えて、現在のパーティにも歪みが出来るだろう。
今まで通りに行かないだろう事は、余りにも自明だった。
しかし、今のままが心地よいからと、先延ばしにし続ける事は不実に違いない。
アキラがいつまでも決められず、先延ばしにした結果が、今の状態に繋がったのだ。
スメラータ、イルヴィ、七生から、期待に満ちた視線が向けられる。
彼女たちはアキラが怪我を負うなど考えていないし――それは事実だ――、この喧嘩で誰を選ぶか、その事にしか眼中にない。
「こ、ここで……今、決めるのか……!?」
周囲には大量のギャラリーがいた。
そして、そのギャラリーも事態を飲み込むに連れ、今や喧嘩の事実よりどう決着が付くのか、そちらの方を見物している。
「おい、オラ! かかって来い、オラ!」
反撃がないと見て、男は更に調子付いた。
元より赤かった顔を、更に赤らめて、もう一発殴りかかって来る。
アキラはそれを素直に――無防備とも見える姿で受けた。
頬に一発、そして腹に一発、それでもアキラは手を出さない。
というより、一顧だにしていなかった。
殴られた事実を認識していないかのように、頬を撫でつつ上の空になっている。
それがまた、男の神経を逆撫でした。
「テンメェ、ふざけやがって! オラ、てめぇコラ!」
右、左、右、と幾度も男のパンチが繰り出される。
一つ一つはしっかりと当たっているのに、アキラは全く、びくともしない。
殴るだけでなく蹴ったりもするのだが、やった事が変わっただけで、アキラの注意を引けないのは変わらなかった。
「てめぇ、ぜぇ……、ふざけや……っ、ぜぇ……!」
しまいには殴り疲れて、男の方の息が上がってしまっている。
これには周囲の客の方が冷めてしまった。
大人と子供の喧嘩を見せられているようなもので、しかも遊ばれてすらおらず、丸きり無視の扱いだ。
どうするんだこれ、と誰しも思い出した時、店内に新たな客がやって来た。
冒険者風の大男は、店内の様子を訝しげながら見つつも、ズカズカと入り込んでくる。
そうして、アキラの顔を認めると、大きな声と共に手を挙げた。
「――おっ、アキラじゃねぇか。なんでぇ、お前らもこっち来てたのか」
「あぁ、ドメニ。そりゃあ、今は新大陸で話題は持ちきりだし。久しぶり、元気?」
「元気も元気、絶好調よ。……ところで、これどういう状況だ?」
入ってきたばかりのドメニが、怪訝に見るのも仕方がない。
アキラとは古い付き合いで、当初は衝突も多かったものの、困難を乗り越えた今では、気の良い冒険者仲間として良好な関係だった。
底辺を行き来していたドメニも、アキラの実直さを見習うにあたり頭角を表し、今では二級冒険者として、そこそこの名声を得ている。
ただし、アキラのことを好ましく思う一方、憎らしくも思う複雑な心境は今も変わらない。
アキラが棒立ちで殴られている状況は、彼としてもどう対応すべきか、迷うところではあった。
「ちょっと喧嘩、吹っ掛けられてね。女の陰に隠れる卑怯者、みたいな……」
「ほっほぉー! そりゃあ……!」
何かを言いかけて、突然止まる。
イルヴィから凄まじい殺意と共に、冷たい視線で睨まれたからだった。
ドメニは露骨に顔ごと視線を逸らして、絞り出す様に声を出す。
「……そりゃあ、大変だったわなぁ。しかしだ、お前だって悪いだろよ。誰からも想いを寄せられるなんて、そんな事あるか? 一人にさっさと絞れってんだ」
「そうすべきってのは、分かってるつもりだよ」
「つもりで済めば、話はこじれねぇんだよ! さっさと決めろ! そして、イルヴィを俺に寄越せ! お前が振れば、晴れて俺のモンになるんだ!」
「どういう理屈だい、そりゃ。あたしはアキラに振られないし、例えそうでも、あんたのモンになったりしないよ」
にべもなく手酷い振られ方をしても、ドメニは全く気にしない。
そして、これがアキラを憎らしく思う、ドメニの理由だった。
彼は想い人を取られた、と思っているが、一度として両思いだった事実はない。
最初からドメニの一方通行だ。
しかし、アキラさえ居なければ自分にも目があった、と主張して止まないのだった。
「まぁ、目の有る無しは置いといてだ。……で、こんな水夫に、良いように殴られてやってんのか? 何処のギルドのモンだ、てめぇ?」
「お、あ……。なんだ、関係ねぇだろ、オメェには……!」
ドメニはその凶相も相まって、筋肉の塊である巨体から滲み出る威圧感は凄まじい。
水夫も仕事で鍛え上げられた良い身体をしているが、ドメニとは比較にならなかった。
「漁業ギルドか? それとも船舶ギルドかよ? 俺ら冒険者に喧嘩売って、タダで済むとは思ってねぇよな? おぉ?」
「こ、こいつと俺の問題だ! ギルドは関係ねぇ!」
「――関係ねぇわきゃ、ねぇだろッ!!」
ドメニの怒号が店いっぱいに広がる。
それで緊張感をなくし、口々に好き放題見世物を楽しんでいた野次馬客達が、一斉に黙り込んだ。
スメラータなどは、軽薄に口笛を吹いて囃し立てているが、そんなマネが出来るのは彼女くらいなものだ。
客の中には、大変な事に巻き込まれるのでは、と顔を青くさせる者までいた。
「ギルドに所属する者同士、諍いがありゃ、ギルドを通すのがスジだ!」
「こ、こりゃあ諍いじゃねぇ。酒が入ったモン同士の喧嘩だ。たかが酒の喧嘩で、ギルドなんざ持ち出すヤツがいるか……!」
「酒の内の喧嘩だぁ? 上等だよ! テメェ、誰相手に売った喧嘩か、分かっててやってんだろうな!?」
頭一つ分は高いドメニが、威圧感と共に言い募る。
そして、その様な言い方をされたら、酔った男とて、自分がとんでもない間違いをした様に思えてくる。
今や赤ら顔はすっかり青白くなり、酒も一気に抜けていた。
ドメニの迫る顔を横に避けて、アキラの方を盗み見るが、流石のアキラもこれに助けの手を伸ばそうと思わない。
むしろ、ドメニの邪魔になると思って手出しを控えていた。
彼には想定している着地点があって、そこへ持っていこうとしている。
それを邪魔すまいと思っての事だった。
「アイツの胸にあるバッジを良く見ろ! 何色だ!?」
「え……、銀色だろ、……です」
ギルドは使う金属によって等級を認定している。
そして、銀と言えば二級であり、並より少し上という認識だ。
しかし、この返答にドメニは大いに憤慨して、アキラの胸に指を突きつけた。
「馬鹿野郎、よく見ろ! 角度によって色が変わる! 虹鉱のバッジだ! 史上十三組しか存在しない、そして現状二組しかいない、特一級冒険者パーティだけに与えられる、栄誉あるバッジだ!」
「特、一級……!」
ざわ、と周囲の客が揺れる。
高い実力は最低限の条件で、その徳や実績を考慮されて授与される、冒険者として最高の栄誉に与えられるものだ。
銀に見間違えられてしまうのも、小さな明り取りの窓以外、蝋燭しかない薄暗い店内で仕方なかった。
しかし、特一級冒険者は、その名の通り特別なのだ。
ギルドの顔、あるいはギルドそのものとも受け取られる。
それらが、アキラの胸元、そして他女性達三人の胸元にも輝いている。
酒の席であろうとも、ギルドへ直接唾吐くことは許されない。
それを男はやった、と見做されてしまう。
ドメニが怒りを顕にするのは、冒険者として誇りを持っているなら、むしろ当然なのだった。
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