悪魔の取り引き その7

「ミレイユ様……、改めてお尋ねしますが、まだこの町で逗留を続けるつもり……という事で、良いのですね?」


「そう言ったろう」


 憮然として言って、ミレイユは機嫌を悪くし、溜め息をついた。

 しかし、溜息をつきたいのはレヴィンの方だ。

 それをグッと我慢して、出掛かった言葉を呑み込み、レヴィンはユミルへ顔を向ける。


「どうして、こうもかたくなになってるんですか……」


「知らないわよ。何か妙に意地張ってる……っていうか、アタシも困ってるの」


「他の神使様からも、何か言って下さいませんか……?」


 何より、それが最も順当な手段である筈だ。

 神により近しく、そして神の代行者として動く彼女らなのだ。


 その言葉は誰より神へ陳言するに相応しい。

 しかし、視線を向けたアヴェリンからは無視を決め込まれ、ルチアからは困った笑みを向けられた。


「昨日、ユミルさんが言っていたのを傍で聞いていましたけど……。ミレイさんの意志は固そうです。これを覆すのは簡単じゃないですし、満足するまで待つ方が早いですよ」


「そんな……」


 完全に傍観する構えのルチアに、レヴィンは弱り顔で肩を落とす。

 そこへ先程まで無視していたアヴェリンが、視線だけ向けて言って来た。


「別に一日か二日くらい、日程を伸ばしても問題あるまい。そこまで急ぐ理由すらなかろう。船旅で掛かると予定されていた日数より、五日以上も早く到着しているのだからな」


「あれ、そうなんですか……?」


「そうだ。存在しない航路を使って、大幅な短縮が出来た。途中のトラブルで足を止めたりしたが、それでも十分、時間の短縮になっている」


「だから、その短縮分くらい、ここで逗留しても良いだろう……と?」


 アヴェリンは無言で頷いた。

 確かに、その論法はおかしくない様に思える。

 本来、旅での移動はままならないものだ。


 予定通り進まないのが前提で、早めに到着するなど滅多にない。

 船旅となれば風の気分次第といったところもあり、到着予定日が大幅に遅れるのは、むしろ当然と言えた。


「では……」


 問題ないか、と言い掛けて、レヴィンの動きが止まる。

 その想定で済んでいるなら、ユミルは急かしたりしてないし、その説得にレヴィンを使おうともしないだろう。

 一日や二日で済まないと思うから、ユミルは頭を悩ませていたのだ。


「いや、ちょっと待ってください。これ、本当に短期間で終わる話なんですか?」


「終わる……、だろう」


「……だろう?」


 アヴェリンの顔を逸らした返答に、レヴィンは懐疑の目を向ける。

 それからミレイユに視線を移し、真意を問うように見つめた。

 敢えて言葉は発さない。


 問い詰める様な不敬は出来ない理由もあるが、何より尋ねるまでもなく、その口から語って欲しかったからだ。

 しばらくして、ミレイユは根負けした様に息を吐き、それからレヴィンを見ないまま口を開いた。


「お前が心配する様な事にはならない。安心しろ。長くて……、ひと月もあれば飽きる。その前には旅立つ」


「ひと月……!?」


 レヴィンは瞠目すると、ユミルへ顔を戻して非難をぶつける。


「いやいやいや、おかしいじゃないですか……! どうして、そうなるんです。ユミル様、一応説得したんですよね?」


「いやぁ、うちの子って、時々変な凝り性というか、突発的なやらかしするからさぁ……。今回もそういう類いで……」


「時と場合があるでしょう!?」


 人の趣味にケチを付ける事などしないし、それが神ともなれば尚更だ。

 しかし、世界の存亡を賭けた戦い、その下準備に取り掛かろうという、大事な時期なのだ。


 それを思いの他気に入った娯楽で、身体を休めたいなど、神のする事ではない。

 終わってからやれ、と言いたい気持ちが募って来る。


 勿論、そんな事を言う勇気など、レヴィンにはない。

 だが、何故、どうして、という感情は尚のこと強かった。

 その憤りをぶつけるように、ユミルへ荒い口調で尋ねる。


「神というのは、人とは違う大局を見て行動するのではないのですか? 合理に従うというか、こう……口では上手く言えませんが」


「アンタが神に、幻想を持つのは当然だけどさぁ……。神が合理的で、摂理の体現者、とか思ってるなら、大きな勘違いよ」


「う……っ! そう、なんですかね?」


 痛い所を突かれた気がする。

 人は信仰に縋り、そして偶像に縋り、神の偉大さに酔いたいのだ。

 大いなる存在に抱かれ、不安のない先行きを望んでいる。


 だから神は間違いを犯さないし、その大局観で以て多くを救ってくれると信じたい。

 だが、それは確かに、ユミルが言う様に幻想なのだ。


 日本に行ってからこちら、神々の実に人間臭い部分を、嫌というほど見つめて来た。

 今回においても、そういう部分の現れとは思う。


 しかし、やはり問題は一つの場所に立ち戻る。

 ――それは後でも良いだろう。


「神々が合理的で大局観を備えているなら、そもそもアルケスは馬鹿な反乱を起こしたりしないわよ。神々は割と好き勝手やってるし、『刑罰』と『恩賜』の男神ヤロヴクトルなんて、そりゃあもう趣味に走って生きてるんだから」


「ヤロヴクトル様、ですか……。具体的には?」


「自分の欲望と、人間の欲望を満たすのが大好きって感じで、その趣味を活かして遊んでるわ。まぁ、西方大陸の安定に一役買ってるから、そう厳しいコトも言えないんだけど……」


「はぁ……」


 それだけでは全く実態を想像できず、レヴィンは首を傾げるしかなかった。

 ユミルも言いたい本題はそこではないので、ハエを払う様に手を振って、話を続けた。


「神がいい加減で、自分勝手なんて当然なの。ウチの子は、そういう部分じゃ大層理性的な方よ。だから一日、二日程度の滞在なら、笑って済ませるくらいだけど……」


「でも、ひと月とか言ってますよ……」


「そうね。そして、アタシの予想していた通りになったわ」


 ちらり、とミレイユを盗み見ても、機嫌良さそうにカップを傾けているだけだ。

 こちらの会話が聞こえていない筈がないのに、聞こえない事に決めたらしい。


「だから、昨日も言ったでしょ。これを覆せるとしたら、アンタの真摯な態度だけなの」


「本当に、それで行けるとは思えませんが……」


 何しろ、たかが一領主の嫡子、たかが一戦士の言葉である。

 神使の言葉よりも、なお高い説得力を持つとは思えない。


 しかし、ユミルから見つめられる瞳の中は、強い期待に満ちていた。

 そこまで思ってくれるなら、レヴィンとしても、言ってみないわけにはいかない。


「……ミレイユ様」


「何だ」


 彼女の言葉は素っ気ない。

 それがレヴィンをたしなめている様でもあり、出掛かった言葉が喉奥に戻る。


 助けを求めてユミルを見たが、早く言え、とジェスチャーで急かすだけだった。

 仕方なく、レヴィンは顔を戻して、ミレイユを見返す。


 ミレイユはこちらを見ていない。

 それが救いではあった。


 もしも、その目に射抜かれでもしたら、身体から力が抜けて何も言えなかったかもしれない。

 レヴィンはグッと腹に力を込めて、深く頭を下げると、精一杯の誠意と共に言葉を放った。


「ユーカードの一族の、末席に連なる者として、伏してお願い申し上げます。どうか今一度、その御考えを御改めなされ、正しき大義の元、行動する事を望みます。如何でございましょう」


「ユーカードの……うん。あぁ、そうだな……」


 ミレイユは何かに感じ入った仕草を見せた。

 レヴィンからはその姿勢から、ミレイユの顔を窺うことは出来ないが、声音と衣擦れの音からそれが分かる。


 ユミルが言う様に、やはりこの家名はそれなりの意味があるようだ。

 しばしの沈黙が周囲に降りたが、返ってきた言葉は期待と違うものだった。


「……誰の入れ知恵だ? まぁ、ユミルだろうとは思うが。しかし、ユーカードの名を以って歓心を買うつもりなら、私からも言える事がある」


「そ、それは……?」


 レヴィンは姿勢を大きく崩さぬよう、そっと窺う様に顔を上げた。

 自然、上目遣いの格好になり、媚びるようにも見えたかもしれない。


「私と初代ユーカードに何があったか、だ。特に家の興りや、南東大陸に渡ってからの動きなど、話す話題に事欠かない。宿に逗留している間、これを聞かせてやっても良い」


「うっわ、ズッル……!」


 ユミルから、ひたすら幻滅する、神使とは思えぬ非難の声が漏れ出た。

 しかし、ミレイユはまったく気にした素振りがない。


「どうする? 私は滅多にそういう話をしないし、今回を逃せば、またの機会があるとは思わぬことだ。一日で語り尽くせねば、二日、三日と伸びたりするかもしれないな……?」


「う……っ! ぐぅ……っ!?」


 それはまるで悪魔の取引だった。

 だが、要求する対価としては、破格に等しい。

 差し出すものは時間も、さりとて法外ではない。


 しかし、正しいと思う信義、そして道理を捨てる必要があった。

 これが神のすることか、と言いたくもなる。


「……どうして欲しい? 即座に出立するなら、この話は当然なしだ。お前が決めろ」


「ゆ、ユミル様……?」


「こういう取引を先にされた以上、アタシの口から勝手に語ろうものなら、そりゃあもう盛大にヘソ曲げられるわ。ここで拒否したら、二度と聞く機会を持てないか、大きな対価……あるいは代償を、支払うコトになるでしょう」


「そんな……」


 初代ユーカードは伝説の人だ。

 今にも伝わる全ての基盤を、一代で作り上げたと言って良い。


 口伝で継承される逸話や武伝は数知れず、本家のみならず、領内に暮らす人々の尊敬を勝ち取ってきた。

 逸話の中には到底信じられない、後で誇張されたと思われるものも複数あり、真偽が定かでないものは多数ある。


 それをここで確かめるチャンスではあった。

 しかし、それはレヴィンの好奇心を満たす以上の意味などない。


 道理で言えば、断るべきだった。

 世界の行く末、アルケスへの鉄槌、全てを円満に解決へ導くなら、優先させるべきものなど明らかだ。


 しかし――。


「流石のアタシでも、ガチ目に言うなと厳命されたら、それを破ってまでアンタに教えるつもりなんてないからね」


 ユミルはそう言って、額に手を当て苦悶に喘いだ。


「……先手を取られたアタシが悪いわね。昨日の内に話しておくんだったわ」


 ヨエルの表情は既に諦観に満ちていた。

 それはつまり、レヴィンはこの提案を蹴らない――蹴ることが出来ない、と判断したというコトだ。


 そして、それは事実でもあった。

 神でさえ、道理に沿った行動が出来ないというなら、どうして人間に、それが出来るだろう。

 レヴィンは項垂れるようにして、頭を垂れる。


「……初代様のこと、どうか教えて頂けませんか……」


 レヴィンは好奇心を餌にされ、神の誘惑に負け――。

 そして、ミレイユの顔には会心の笑みが浮かんだ。

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