悪魔の取り引き その4
けれども、とユミルはロヴィーサを横目で見ながら続ける。
「不調でいるのは確かだしね。無理に動かして、足手まといになられるのもイヤだわ。様子は見なければならないでしょう」
「申し訳ありません、不甲斐ない所をお見せして……」
ロヴィーサが横顔を小さく上下させると、ユミルは手を振って気にするな、と告げた。
「別にアンタのミスってワケじゃないから、そう畏まるコトないわよ。今後の旅路に深刻な遅れが生じるってモノでもなし。翌朝になっても快復しない、とかならともかく……」
「まぁ、のぼせただけですからね。慣れない初めての体験で、身体が敏感に反応してしまった可能性もありますが……。どちらにしても水分をしっかり摂って、ゆっくり休めば、翌朝にはサッパリですよ」
ルチアからもお墨付きが入って、ロヴィーサもホッと息を吐いた。
神々の行脚、それも世界を救う道程に、自分の不始末で遅れを出すことは出来ない。
その気持ちはレヴィンにも良く分かるから、握っていた手を励ます様に撫でた。
それを見ていたヨエルも、悪戯めかして笑って言う。
「まぁ、重症じゃないって言うなら良かったじゃねぇか。若に手を握って心配される役得もあるしな」
「何を……っ!」
ロヴィーサは咄嗟に起き上がって弁明しようとしたものの、それより早くアイナが肩を抑えて元に戻した。
ずれ落ちてしまった濡れた布を、改めて当て直す。
そうしながら、アイナは困った笑顔でヨエルに言った。
「あまり刺激しないで下さいね。命に別状ないのは確かですけど、興奮させてしまうと、いつまで経っても良くなりませんので……」
「そいつはスマンかった。……しかし、何事にもそつ無くこなして、弱点なんか無いと思ってたお前にも、苦手なモンがあったんだなぁ」
「不甲斐ないことです……」
「そっちの方が人間味があって良いけどな」
「……今までが人間味なかったみたいな言い方、止めていただけます?」
「これまたスマンかった」
敬礼する様な仕草をして、ヨエルはおどけて笑った。
ロヴィーサの顔にも、あるかなしかの笑みが浮いているので、本気で非難しているわけではない。
子どもの頃から、兄妹同然の付き合いなので、互いの距離感は良く分かっていた。
最初は赤かったロヴィーサの顔色も、今では随分と良くなっている。
アイナやルチアが言っていた様に、安静にしていれば明日の朝から出発できそうだった。
レヴィンが握っている手から伝わる体温からもそれが分かり、安堵の微笑みを浮かべる。
ロヴィーサを中心として、今や穏やかな雰囲気が発していた。
――しかし、それとは全く正反対の空気を発している者がいる。
それこそが、恨めし気な視線でロヴィーサを見つめるミレイユだった。
「……不調に快復の兆しがあるのは喜ばしい」
「そういうコトはさ、表情と言葉を一致させてから言っていただける?」
ユミルが言った通り、ミレイユの視線は恨み言をぶつけている様に見える。
ともすれば、言葉の裏を考えねばならない程で、ロヴィーサの身を案じる程だった。
「ロヴィーサの体調が快復しなければ、宿の逗留が長引くとか思ってないわよね?」
「……思ってない」
「そこは即座に返答して頂戴よ。変に考えさせられちゃうじゃない」
ユミルは眉根に寄った皺を指で解しながら、次いでルチアに顔を向ける。
「今日のところは、ロヴィーサが寝る前に結界張ってあげて。誰かさんが呪いを振りまくかもしれないし」
「そこまでするな! どれだけ信用ないんだ!?」
「そうは言っても……」
ユミルはロヴィーサに一度目を向け、それからわざとらしい目付きでミレイユを見る。
「ちょっとした事故があったら良いなぁ、って魂胆見えすぎ。一日くらいなら、と延長して、それからグダグダと間延びするのが目に見えるわ。ここで断固阻止しないと、一週間は軽く逗留続けるコトになるわよ」
「そんなに……? いえ、そんな事に、本当になりますかね?」
レヴィンが懐疑的な視線と疑問を浮かべた。
それも無理はない。
何しろこれは、
本作戦がどれほど重要か、今更口にする必要もなく、何より自覚があるのは、そのミレイユの筈だった。
今後の未来より、刹那の享楽に耽けるとは、到底思えないのだ。
しかし、ユミルはこれに自信を持って頷き、堂々と主張を開陳する。
「一週間くらいじゃ短いと思うべきかもね。下手すると……ひと月の間、居座ったりするかもよ」
「いや、有り得ないでしょう。全ての神と謁見するつもりなんですよね? ここまで未だ、ひと月と経ってないですけど、あと五神も会うこと考えたら、時間が幾らあっても足りないですよ。大陸だって、全く別々の所へ行くんですよね?」
「一年あろうと、足りるもんじゃねぇって思うけどな……」
ヨエルも会話に加わって、その指摘に同意する。
中央大陸から脱出することについては、地理的な問題もあって、港町まで辿り着くまでは早かった。
新大陸へ行く度に船を使い、そしてそこから神処へ赴く行程も加味すれば、一つの大陸にひと月では到底足りない。
少なくともその倍は見積もり必要があり、天候次第で足止めを食らう事さえあるだろう。
無為に時間をすり潰す余裕など、どこにもない筈だった。
レヴィンの考えを正確に読み解いたユミルは、これに大きく頷いて見せる。
「アンタが言いたいコトは、大体分かるわ。全ては旅程――そこに掛かる時間の問題よね。神々には基本、すぐに接触できるだろうから、そこでの足止めは考慮に入ってないし」
「そう……、そうなんです。各大陸の大きさや、港町から神処まで、どれだけ離れているかも知りませんから、偉そうなことは言えませんが……。それでも、余裕があるとは思えません」
「えぇ、アンタの推論は正しいわ。馬も使えないって言うなら、更に厳しい。時間内に全てを回るのは、不可能と言えるでしょうね」
「だったら……!」
抗議を続けようとしたが、それより前にユミルが片手を上げ、それ以上の発言と止めた。
「魔術にはさ、『転移』なんてモノもある。距離はそれほど問題にならないのよ」
「しかし、中級以上の魔術は、感知を考慮して使えないのでは……?」
「そうね、特に
それなら結局、駄目ではないか――。
思わずヨエルと目を合わせると、彼も同様の視線をレヴィンに向けていた。
ユミルは二人の様子に構わず続ける。
「だから、神器ってのがある。それも、インギェムの神器がね。こいつの権能を使えば、転移と似た様な効果が発揮できるのよ」
「それは確か、こちらと日本を繋げた力ですよね?」
「そう、だから距離の問題は解決できる」
だったら、船を使う必要もなかったのでは――。
これまたヨエルと目を合わせ、彼からもやはり同様の視線が返ってくる。
そして、その様子から何を言いたいか伝わったのも、また同様だった。
「権能の力は、神器に落とし込んだものであろうと、発揮すると神には分かってしまうのよ。中央大陸、それも
「では、既にこうして北方大陸にいる訳ですし、問題なく使えっても良い、という事になるんですか?」
「そうね。感知されるのは、やっぱり間違いないけど」
「駄目じゃないですか」
呆れにも似たレヴィンの反応に、ユミルはしてやったり、と笑みを浮かべた。
期待通りの反応が、大層お気に召したらしい。
「ところが、そうじゃないのよね。むしろ、ここで感知されるのは全く問題ないのよ。なぜって、インギェムはこの大陸内において、自分の権能で良く出歩くから」
「珍しくもないことだから、目に付かない……というより、気にされない?」
「そうそう。つまりね、今からインギェムの神処へ飛ぶ分には疑問を持たれないし、神処を起点……または経由して、他の神処へ直接飛ぶなら、そこは疑問に思われないのよ」
確かにそれなら、距離とそれに掛かる時間は無視できる。
上手くやれば、ひと月の時間で全ての神処を回るのも難しくなく、そして多くの時間を持て余せることになるだろう。
今更ながら、ミレイユが見せる、やる気の無さが分かりかけて来た。
ユミルの言うことが確かならば、時間に追われる心配はない。
しかし、それならばユミルが急ぐ理由は何なのだろうか。
「あら、気になる?」
「……顔に出てましたか?」
「顔には出てないわ。雰囲気から分かるだけ。それより問題は、ウチの神様のムラッ気なのよ」
そうと言われて、レヴィンは首を傾げた。
今やユミルに背を向けていた態勢を戻したミレイユが、『念動力』を使ってユミルから団扇を取り戻した。
アヴェリンに投げ渡すと、再び送風が開始され、ご満悦な笑みを浮かべた。
「……見て分からない? やる気の問題よ。そのやる気が、今のあの子に全然ないっていうのが問題なのよ」
「え……? は……? だって、世界の命運の瀬戸際なんですよね? 座して待つわけにはいかないと、そうした気概で反撃の狼煙を上げに行くのではなかったのですか? 神の決意って、そんな安いものじゃないでしょう……!?」
「でも、あれが現実よ」
親指でクイッと示す先には、だらけて蕩けた神の姿があった。
そんな姿、見たくなかった、と言いたくなる程度には、だらしなく寝そべっている。
そこに神の威厳なんてものは、微塵もなかった。
「……動いて、下さるんですか?」
「ようやく分かってきたようね。余裕がある、無理する必要なし。そう判断したら、必要となるギリギリまで動かないわよ。朝早く目が覚めても、出処ギリギリまで布団に齧り付く、なんて良くあるし。……だから、強制的に布団を引っ剥がさないとならないわ」
「出来るんですか……いや、やって良いものなんですか」
「可能、不可能の話をしてるんじゃないの。――やるのよ」
ユミルの目はどこまでも真剣で、冗談の影が見えない。
しかし、やれと言われても、レヴィンにはどうするべきか、どうしたら良いのかまるで分からなかった。
今はただ、ご満悦なミレイユの顔を、ただ暗澹なる気分で見つけることしか出来なかった。
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