悪魔の取り引き その2

 レヴィン達は埠頭へ接弦しようとしていた船から飛び降り、海面に着地した。

 湾内の海は大きく海面揺れを起こさないとはいえ、それなりに船の出入りがある。

 その為、緩やかであるものの、留まることなく揺蕩っていた。


「初めて海面に立ったけど、何とまぁ……得も言われぬ気分ね」


 ユミルが海面と足元を見やって、つまらなそうに笑った。

 そして、ミレイユもこれに同意する。


「足裏を通り過ぎる波に、足元が掬われそうで心許ない。遊び心で使うには面白いが、実際には結構不便だな」


「実地試験もせずにいたんですか、ミレイユ様……」


 レヴィンが疑いの眼で見ると、面倒臭そうに手を振るう。


「したに決まってるだろ。ただ、他の者に使用感を聞いただけで、私自身が試した訳じゃなかった」


「あぁ、そういう意味でしたか……。そうですよね、ご自身でなくとも術の成否は確認できますし……」


「使用感に問題なければ、術としては完成と見て良いもの。間違っても神が使う魔術じゃないのに、何で開発したのか意味不明だけど」


 ユミルが揶揄する様に言えば、ミレイユはむっつりと眉間に皴を寄せて睨み付ける。


「別に良いだろ。閃きは大事にしたいタイプなんだ、私は」


「閃きねぇ……?」


 特に非難する言い方ではないが、その目は無駄な事に無駄な労力を割くな、と告げている様ではあった。

 特別攻撃的でない言葉に反論するつもりはないのか、ミレイユは視線を逸らして歩き始めてしまう。


 彼女が歩けば全体がそれに合わせて動くので、必然、レヴィンもそれに付いて行った。

 辿り着いた湾口は、出発した港とも遜色ない程大きい。


 各埠頭には大型帆船が既に三隻停泊していたし、小型船舶も数多く見える。

 それら船の持ち主も、全ての興味は大騒ぎになっている船へと集中しているようだ。


 それどころか、この湾内全ての視線が集中していると言って良い。

 お陰で、誰にも発見されることなく港に降り立つことが出来た。


 それぞれが海面を蹴り付け、埠頭に登る。

 最後尾を歩いていたアイナは、ヨエルの手を借りて上がっていたが、その程度はご愛敬だろう。

 アイナはふらつく足取りで左右に揺れ、傍らのヨエルへ縋る様に腕を取った。


「何だか、まだ船の上にいる気がします。足元が揺れて……」


「ずっと船の上だったもんなァ……。その気持ちは分かる」


 ヨエルが微笑ましいものを見る目でアイナを笑い、それにつられてレヴィンも笑う。

 しかし、それらに一切興味のないミレイユは、埠頭とその周辺だけでなく、空にまで視線を巡らせて一つ頷く。

 そうして、一人歩き進めながら呟く様にして言った。


「さて、良い目くらましもあった事で、目立つことなくこの場を去れそうだ」


「それは結構なんですが、えぇと……それで、これから……?」


「我々は神々を巡る旅をしてるんだぞ。当然、これから神処へ向かうに決まっている」


 自明の様に言われて、レヴィンは困惑する。

 旅の目的は分かっていたが、それより気にして欲しいのは、空腹や倦怠感、そして蓄積された疲労だ。


 言葉少なく催促したのは、一泊の宿を求めての事だった。

 軍船の救援から始まり、水棲魔物を倒し、死骸を持ち運んでは海に投げ捨て、そしてナタイヴェルの討伐まで成し遂げたのだ。


 体力は既に底をつき、身体は休みを欲している。

 せめて一晩、英気を養って旅を再開したいと思うのだが、それを自分の口から言うのは憚られた。


 しかし、レヴィン達の顔色を敏感に感じ取ったルチアが、微苦笑を浮かべながら言う。


「ミレイさん、ここは一度休息を挟みませんと。私達と同じ扱いじゃ、彼らが可哀想ですよ」


「あぁ、そうか……」


 踏み出していた足をピクリと止め、背後を振り返ってレヴィン達を改めて見た。

 上から下まで眺めると顔の向きを転じ、皮肉げな笑みを浮かべてルチアに頷く。


「確かに配慮が足りなかったな。他の誰かと行動を共にする事なんか無かったし、だから当然の様に付いて来られると思っていたが……」


「それに臭いも酷いものよ」


 これにもまたユミルが揶揄する様に言って、レヴィンの首筋や、ヨエルと手首辺りを指差す。


「魔物の体液もしっかり浴びちゃってるんだから。海中でも魔術的防護があったから、水洗い出来てたワケでもなし。これ、半日放置したら更に凄いコトになるわよ」


「お前の言う通りだな、ユミル。いるだけで魔物を呼び寄せそうだ」


 アヴェリンまでもが、鼻に皴を寄せてそう言った。

 その様な態度を見せられると、自分達では分からないだけで、相当な悪臭を放っていると分かってしまう。

 ミレイユは身体の向きを変えて、歩む行き先を変更した。


「まず汚れと悪臭を取らねば、移動もままならないか。しかし、北方大陸こちらでは大衆浴場など完備されてないだろう。お手軽に、とはいかないぞ?」


「石鹸くらい何処でも売ってるし、水洗いさせればそれで十分でしょ」


「まぁ、最悪それで行くか……」


 レヴィン達の常識においても、風呂は贅沢という認識だ。

 どこの宿にも常設されているものではなく、貴族の娯楽という趣が強い。


 特に薪代が馬鹿にならないので、おいそれと湯を沸かせるものではないのだ。

 行軍中は水で身体を洗うのなど日常茶飯事なので、レヴィン達としても不満など全くなかった。


「タライ一杯の湯があれば、それで十分ありがたいって認識ですからね。こっちは既に肌寒いですし、せめて屋内であれば嬉しいですが」


「そこまで不自由させるつもりはないぞ。それに、港町は宿の数も多いものだ。その中には風呂付きのだってあるだろうさ」


「こっちはお湯を張った風呂じゃなくて、蒸し風呂が主流だった気がするけど……」


 ユミルが首を傾げて思案する素振りを見せれば、ミレイユは足を止めずに肩を竦める。


「どっちでも良いだろう。大して違いはない」


「拘り持ってる人間全てを、敵に回す言い分ねぇ」


 ユミルは愉快そうに笑う。

 確かに、その地に根付いた文化を蔑ろにする発言は、神であるからこそ不用心という気がした。


「余りのんびりしてもいられない。さっさと宿を探して、さっさと明日には町を出るぞ」



  ※※※



 風呂付きの宿というのは存外あるもので、それはすぐに見つかった。

 今は夏を過ぎた時分なので涼しいよりも、少し肌寒い程度で済むが、基本的に屋外へ設置された風呂に向かうのは難儀しそうだった。


 真冬ともなると一面が銀世界に覆われるらしいく、そうとなれば尚更だ。

 積雪量も多く、冬の厳しい土地であるが、薪の材料となる森林資源は豊富だ。

 だからこそ、大抵の宿には風呂があり、そして主流となるのが蒸し風呂だった。


 また、冬が長い土地柄、娯楽も少なく、良いストレス発散にもなるらしい。

 そうした蘊蓄うんちくを、ユミルが滔々とうとうと語ってくれた。


 宿で部屋を借り終わるなり、めいめいに過ごす事になる。

 レヴィン達は早速汗を流しに行こうとしたのだが、蒸し風呂は汚れを落とす所ではない。


 まず身体を洗って、それから風呂で温まる事になった。

 外で水を使って洗うのは、慣れた事とはいえ、寒風が辛い。

 男女別のコテージ風の蒸し風呂に入ると、それでようやく人心地ついた。


「蒸し風呂って聞いてたから、もっと煙で満たされてるんじゃないかと思ったぜ」


「それじゃ蒸してるんじゃなくて、燻されてるだろ」


 ヨエルの陽気なお惚けに、レヴィンも笑って指摘する。

 それから手に持った枝帚を、肩や首筋で払いながら、小さく息を吐いた。


「使い方は、こうでいいのか? 身体の汚れを落とすものじゃないと言うし、イマイチよく分からないな」


「肌に刺激を与える為なのかもしれねぇな。まぁ、こういうのは気分だぜ、気分」


「そうかもな」


 互いに笑ってから、レヴィンは額に浮いた汗を拭った。


「しかし、肌そのものに焼き付くような、それでいて纏わり付くような感覚は、ひどく独特だな。湿気と熱気が強まると、呼吸すら辛いのだと初めて知った」


「確かになぁ……。入ってから数秒、早くも俺は蒸し風呂ってやつに興味本位だった事を後悔したぜ。けど、それもまぁ……慣れるとそれも、結構我慢できるもんだな」


「汗を流すのは気持ち良い……のだが、強制的に汗を流させる、という発想はなかったなぁ」


 汗がとめどなく流れ、額を伝い、顎先へと流れていく。

 表面的な汚れは落としたはずだが、こうしていると、染みついた汚れが浮き出て、流れ落ちていく感覚を覚えた。


「苦しく感じつつ、どこか爽やかなものも感じる。癖になりそうだぜ」


「お、随分気に入ったんだな、ヨエル。俺は水でさっと済ませた方が、楽で良いんだが」


「ゆっくり出来る時間ってのは、それだけで贅沢だものなぁ……」


 戦場にしろ、領の屋敷に居た時にしろ、自由時間というものは余りなかった。

 常に淵魔を意識せずにはいられないし、自分の訓練だけでなく、練兵にも時間を割かなければならない。


 旅に自由な時間というのも余りないが、こうして翌日までゆったりと時間を過ごせるのも、旅の醍醐味というものかもしれなかった。


「さぁて、女側じゃどうなってるのかね? ロヴィーサなんか、ぶっ倒れてたりしてな」


「笑い話にもならないな。……俺達も、のぼせる前に出てしまおう」

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