第六章

悪魔の取り引き その1

 ナタイヴェルを縄で繋ぎ終えてから即座の出発となり、それからというもの、航海は順風満帆だった。

 そもそも陸地近海まで来ていた事もあって、新たに魔物が襲って来る可能性は低い。


 また、襲おうとする魔物がいても、その亡骸を見て恐れをなし、たちまち逃げてしまうのだ。

 亡骸の存在が、良い見せしめ効果を発揮している。


 そして、それは何も魔物が相手ばかりでもなかった。

 陸地に近付く程、商船を始めとした、数ある船舶に目撃される事も多くなる。


 その頃にはルチアの送風も行われなくなっていたから、常識外れの速度で走っていない船は、多くの目に触れる事となった。

 中には大型船が大きな帆で風を上手く掴まえて、こちらより早く通り過ぎて行く船もあり……だから、船長の船が入港する頃には、ナタイヴェル討伐の報はすっかり知れ渡ってしまっていた。


 湾内には人が溢れ、着港するのを今か今かと待ち構えている。

 灯台を過ぎる頃には、集まった人々の規模も分かるようになってくる。

 埠頭の縁ギリギリに立ち、その後ろには何重にも人垣が作られていて、少なく見積もっても、三百人はいた。


 それらの多くは船乗りで、残りは町人の野次馬だと思われた。

 埠頭に溢れた人だかりが、船を指差しては囃し立てている。


「これは、凄い歓迎ぶりだな……」


「まぁ、そうもなろうって話だがな!」


 船長は慎重に操舵しながら、満面の笑みを浮かべた。


「長年、ナタイヴェルには煮え湯を飲まされて来てたんだ! えぇ? 壊された船、殺された船員は数知れねぇ! それから解放されたんだ、この目で見てぇってヤツは多いだろうよ!」


「そうだな、当然の欲求だ……」


 レヴィンに限った話でなく、大物を仕留めた時は、その勲を誇示するのが普通だ。

 そして、それは仕留めた者の義務ですらある。


 これ以上、恐怖に怯える必要はないと示す為、そしてそれを何者が為したか知らしめる為……。

 しかし、その当然の行為も、今だけは問題だった。


 レヴィンは悩まし気な視線をミレイユに送り、そして何を言わんとしているか分かっている彼女も、表情を変えぬまま口を開いた。


「まぁ、当然……喧伝されるのは好ましくないな。討伐の報自体はともかく、それが何者に為されたか、知られないに越した事はない」


「やっぱり……、ですよね」


「お前達から、正当な賞賛を奪う形になるのは心苦しい。……が、分かってくれ」


「いえ……!」


 レヴィンは大袈裟に手を振るって否定する。


「とんでもない事です! 我々は名誉の為に戦ったのではありません。それは良く分かっています!」


 ミレイユが戦えと命じたのは、近海を荒らす魔物を憂いての事ばかりではない。

 被害状況やその年数を詳しく知っていた事からも、丁度良いと思って嗾けられたのは否めないが、その目的はレヴィン達を鍛える事が主軸だったはずだ。


 神が期待する基準に、レヴィン達は未だ達していない。

 だから鍛える必要があり、そして旅の道中、相応しい試練があったから、ぶつけた話だったのだ。


 そして何より、レヴィン達はこの時代のミレイユに、注目されるのを避けるべき立場だ。

 長年討伐を逃れて来た魔物を討伐されたとなれば、神の目が向いてしまう恐れは、決して低くなかった。


「そういえば、実際どうなのです? ミレイユ様のお立場からすると、既に討伐された事も、そして誰が討伐したのかも知っていたのでは?」


「……まぁ、そうだな」


 小さく首を上下して、それから悪戯めいた笑みを浮かべる。


「三十年の時を経て、ナタイヴェルが討伐されたのは、私の耳にも入って来ていた。そして、それが何者か詳しく知られていない、という点も。だが、状況を照らせば、余りにも明らかだ」


「それは……、なるほど。でも、複雑な気持ちです」


「お前たちの実力を認めるから、後押しされたと思ったからか?」


 レヴィンは暗い気持ちを、押し殺しながら頷く。

 この者達ならばやれる、という強い信頼を向けたからこそ、背中を押されたのだと思った。


 しかし、状況を照らし、討伐された過去を知ればこそ、後押しされたのだとすれば心境は異なる。

 全幅の信頼を向けて欲しいと、大それた事は言えない。

 それでも、信じて送り出して欲しかった、とは思う。


「そう情けない顔をするな。お前達を信頼していたのは本当だぞ。討伐された事実は知っていても、どう討伐されたかは知らないんだから」


「しかし、それは余りに些細な事では?」


「さて、どうだろうな。例えば、お前達が失敗しようものなら、アヴェリンかユミルが、上手いこと処理して倒してくれたろう」


 ミレイユはそれこそ、全幅の信頼をアヴェリンに向けて微笑んだ。

 アヴェリンはその笑みを向けられるなり、粛々と頭を下げる。


「綱渡りになるが、神の目を逃れつつ倒す事は出来た。だから、討伐の結果はどうあっても覆らなかったろうが、お前達ならば……お前達だけで倒せると思っていた」


「それは……、光栄です」


「納得できないって顔だな」


 ミレイユはこれに苦笑じみた笑みを浮かべて言った。

 苦々しく思うものではなく、微笑ましいものを見るような目だ。

 レヴィンはその視線に中てられて、またも大袈裟に手を振って否定する破目になった。


「いえ、そんな……! 光栄と思うのは本当ですし、信頼して欲しいとも思ってました! でも、何と言うか……本当に思って頂けた事が、余りに出来すぎに思えてしまって……!」


「期待しつつも、本当に期待されたら尻込みする。……そういうのは、まぁ、珍しくないな」


 ミレイユの目はどこまでも微笑ましい。

 まるで、レヴィンを通して別の誰かを見ているかの様だ。

 何とも釈然としない気持ちになったが、その気持ちが形になるより早く、船長から声が掛かる。


「さぁて、いよいよ帰港するぜ! お前達も準備しな!」


 甲板の上では既に、水夫たちが忙しく行き来していた。

 マストを畳み、それを強く結んでいたり、樽を転がして端に寄せ、素早く荷下ろし出来るようにしている。


 甲板の上は活気に溢れ、うだるような熱気に包まれていた。

 彼らからすると、到着して仕事は終わりとならない。

 ここからが本番でもある。


 そして、今回は特別な土産まで用意されているのだ。

 早く港に降り立ちたいと、疼いている様にも見えた。

 レヴィンは船長に向けていた顔をミレイユへ戻し、伺う様に視線を向けた。


「……どうされます?」


「逃げるのが一番、手っ取り早い。誰が討伐したか知らなかったのは、多分そういう事でもあるだろうから」


「分かりました。では、その様に……。今の内に隠れてしまいますか?」


 停泊してから動き出すのでは、余りに遅い。

 注目を浴びている状態で、人の間を掻き分けて逃げるのは難儀だろう。

 まさか、群衆を掻き分けて進むわけにもいかない。


「ユミル、幻術を使って全員の姿を隠せ」


「それは良いけど、隠れるだけじゃ逃げ出せないわよ?」


「だから、『水面歩行』を使って湾内を歩く。船と死骸に注目が集中してるなら、見破られる可能性だって少ない」


「それはそうね。今となっては、良い目眩ましとなってくれるでしょう。ちょっと不義理になるけどね」


 そう言って、ユミルは船長の後頭部を見つめて、儚く笑った。


「航海の後は、浴びる様に酒を飲むものよ。特にあぁいう海の男はね。良い酒の肴も手に入ったし、今日は大いに盛り上がったでしょうに」


「え、食べるんですか、あれ……」


 レヴィンが懐疑の瞳を向けると、ユミルは楽しげに笑う。


「食い出がありそうでしょ?」


「いや、先に毒の有無を確認しますよ。美味そうには見えませんし」


 牙の生え揃った大きな口は、何もかも吸い込んでしまいそうに見えた。

 暗い海の中から迫る姿が、レヴィンの目に焼き付いているお陰で、まず食べてみようという発想からして浮かばない。


 そもそも、魚を食す文化すら、ユーカード領にはなかったのだ。

 見れば、ヨエルやロヴィーサも、レヴィンと同じ様に恐々とした表情を向けている。


 意外なのは、アイナが平然としていた事だ。

 異文化の受け入れに寛容なのか、食魚に抵抗がいないからか……。あるいはその両方、という気がした。


「バカねぇ。本当に食べないわ、ちょっとした冗談じゃない。そうじゃなくて、魚竜と奮闘した場面やら、そこんとこの武勇伝一つを肴に出来るでしょ。実際に討伐したアンタらは、最低でも一年は飲む酒に困らないでしょうに、惜しいコトしたわね」


「惜しいと言えば、惜しい気がするな」


 ヨエルが言って笑って、ロヴィーサから咎める視線が飛ぶなり顔を背けた。


「目の前のタダ酒よりも、大事な事があります」


「まぁ、そうよねぇ……。遊べる余裕なんて、今のところないし」


 言うなり、ユミルは素早く魔力を制御して、それぞれに幻術を掛け、姿を曖昧にしていく。

 ユミル自身を除く全員の姿が、霞掛かって視認性が悪くなった。

 そこまで準備が終わると、ミレイユもまた全員に水面歩行の魔術を施す。

 最後の最後、ユミルが自身に魔術を向けながら、船長へその背中へ声を掛ける。


「申し訳ないけど、こっちは早々にオサラバするわ」


「――はん? あ、おい、アンタら!」


 そこにいる筈の者がいなかった。

 その事実を目の当たりにして、船長は慌てて素振りで周囲を見渡す。


「今度、また会ったら一緒に酒を飲み交わしましょうよ。今日のところは、面倒な部分、全部そっちに任せるわ。ごめんなさいね」


 言いたい事を言い終えると、ユミルの姿もまた掻き消える。

 後には船長の怒号にも似た呼び声と、船を歓迎する男たちの歓声が残された。

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