幕間

 ルヴァイルはその日、自らの神処にて、ここ最近慌ただしく済ませた役目を全て終え、余暇を楽しんでいた。

 最近お気に入りの白磁のカップに、お気に入りのお茶を淹れ、眼下に広がる人々の営みを見ながら飲む。


「今日も、良き日のよう……」


 神々が負う役目とは多岐に渡るが、最も重要なのが『虫食い』への対処だ。

 これは世界崩壊を招き兼ねない危険な因子なので、決して疎かには出来ない。


 次いで重要なのが神事であり、奉納を受けての謝意であったり、信徒に向けた演説など、これもまた多くの行事で埋め尽くされている。


 基本的に多忙であり、スケジュールが多く組まれているルヴァイルだが、時にぽっかりと、休める日というものが生まれる。

 全ての神は神事を大事にするが、優先度を高く持っているものではない。


 信徒が気持ち良く信仰し、また神が気持ちよく信仰を受け取れるように、ルヴァイルは疎かにしていない、というだけだった。

 ――『歳魂』と『時量』の女神、ルヴァイル。


 北方ハスィアム大陸を任される一柱であり、最も古くから在る女神でもあった。

 世界が再創生される以前から、そしてミレイユが大神レジスクラディスとして立つより以前から女神として在った。


 しかし、今は小神として、一つの大陸を庇護する役目を負っている。

 そこに不満などない。


 かつて、大神とは十二柱を指す単語であり、その一柱として君臨していたルヴァイルだが、そこに未練など全くなかった。

 むしろ、自分には過ぎた役目だったと自覚している。


 その十二柱も既になく、再創生より前から生きるのは、たった一人の友神、インギェムだけになってしまった。

 その彼女もまた、大神であった事に未練などなく、気軽に生きられる小神生活を満喫している。


「……ふふっ」


 ルヴァイルが空を見つめ、流れる雲の動きに口元を綻ばせていたその時、部屋の隅に『孔』が現れた。

 空間にポッカリと空いたその孔は、向こう側に何の景色も写していない。

 ただ暗く、ただ黒い孔なのだが、数秒と待たず、そこから一つの人影が出て来た。


「よぉ、来たぜ」


 軽く手を挙げて、気怠そうに首を回し、挨拶する。

 出て来たのは旧知の仲、そして唯一の友神である、インギェムだった。 


 『繋属』と『双々』の女神、インギェム――。

 ルヴァイルとはどこまでも対照的で、その見た目や性格まで、何もかも違うというのに、それがむしろ丁度はまった。


 互いに気安い間柄となり、古い友誼は今も固い絆で続いている。

 再創生より以前、ミレイユと共に、他十柱の大神へ反旗を翻した仲間でもあった。

 しかし、今は友誼のことはさておいて、軽く彼女を睨めつける。


「いつも、来る時はしっかり入口を通って、と言っているでしょう? どうして、そう自らの権能だけで移動するのですか」


「いいじゃねぇか、面倒くせぇよ。それに、お前と己の仲だろ」


 インギェムは『繋属』と『双々』の権能を使うことで、全く別のものを繋ぎ止めることが出来てしまう。

 繋属とは即ち、一方的に繋ぎ支配下に置く力があり、だからインギェムは契約を遵守させるとして、敬われる神でもあった。


「まったく……! その面倒くさがり、どこぞの大神から伝染ったのではないでしょうね?」


 少し厳し目の視線を向ければ、インギェムも流石に気不味そうに肩を竦める。


「まぁ、次から気をつけるよ」


「何度目ですか、その台詞は……」


 言っても聞かないと分かっていても、言わずにはいられない。

 ルヴァイルは手許に置いてあった、ガラス製の鈴を鳴らして女官を呼んだ。


 インギェムの姿を認めると、一瞬ムッとした雰囲気を見せた。

 自らのお茶のお代わりと、インギェムの分も頼むと、女官は一礼して去って行く。


「どうぞ、座って下さい。今日は『虫食い』の処理で外回りでしたね。……どうでした?」


「どうもこうもないさ。いつも通りだ。言っちゃあ悪いが、これがいつまで続くのかと思うね」


「本当に、言っては悪い発言ですね……。そんなこと、ミレイユの前で言わないで下さいよ。多分、一番辟易しているのは、あの方ですから」


「分かってるさ、アイツの前で、そんなこと言うもんか。……だが、イタチごっこだとは思うぜ。終わるのか、これ?」


 インギェムの言い分も、一部正しくはあった。

 終わりがあると思えばこそ、続けられる事はある。


 進捗が目に見えていれば……あるいは、やった事の成果が確認できれば、もっと違った思いが湧いて来るだろう。

 しかし、やっている事は、ひたすら穴を埋め続ける、不毛とも思える作業だ。


「これが本当に終わるのか、それについては、きっと終わるだろう、という希望的観測に過ぎません。淵魔と深い関わりがある以上、そちらが終わらない限り、『虫食い』もまた終わらない。……そういう気がしています」


「それはミレイユの見解か?」


「そうですね。私とミレイユの見解、半分ずつです」


「それじゃあ、そっちに期待するしかないか」


 インギェムが大袈裟に溜め息をついた時、女官が再び入室し、給仕を始めた。

 二柱の前に湯気の立つ茶器と茶菓子が置かれると、一礼した後、静かな動作で去って行く。


「……それで? 淵魔の方は順調なんだっけか?」


「えぇ、そちらは問題なく……。三百年の成果が出ていますね。あれらは今や辺境へ追いやられ、完全な締め出しも、秒読み段階に入ったと見做されたようです」


「そうすりゃ、流石に……」


「えぇ、『核』を突き止められるでしょう」


 淵魔の厄介なところは、無尽に湧き出す特異性も然ることながら、『核』はその何れにもなり得る部分だ。

 たとえ、実に淵魔を倒したところで、淵魔討滅は終わらない。


 別の淵魔に、次なる『核』が現れるだけだ。

 これを滅するには最後の一匹まで減らすか、あるいは、一塊になってしまう程、その勢力圏を減らすしかない。


「そうか、いよいよか。仮に島一つ分まで場所を限定させれば、後は島ごと滅してしまえば済む話だしな」


「そうですね、最後の一体まで減らす必要はない。龍脈を確保し、逃げ道を封じているのも、そうした理由からでしょう。本当に、最後の一匹まで減らす方が、現実味がありませんから」


「そう、だな……」


 暗い顔を見せたインギェムに、ルヴァイルは不思議そうに問いかける。


「どうしました?」


「いや、順調だな、と思っただけさ。……あぁ、そうじゃない。何というか、順調過ぎる。――そうじゃないか?」


「良いことではないですか?」


「そりゃあ良いことさ」


 そう言って、インギェムは両手を挙げて、頭の上で一度音を鳴らして手を合わせた。


「しかし、順調に追い詰められているって、『核』にしてみても感じている事だろう。……ただで終わると思うかよ?」


「現状、完全に封殺している様に見えます。少しずつ、着実に陣地を削り、逃げ出す余地を潰している。そして、『虫食い』は謂わば飛び地です。逃げ出すポイントを探っているのでしょうが……」


「でも、それを神々が察知次第、潰してる。神々の責務として、己らも身を粉にして奮闘している甲斐あってな」


「――完全な詰みです。他に何が?」


 ルヴァイルは、自信に満ちた顔付きで断じる。

 事実として、あらゆる手管を封じているのだ。

 逃げ出すことは叶わない。

 後は追い詰められて死ぬしか満ちはないはずだった。


「しかしだ、『核』の正体は、かつての大神……それも真なる大神。始祖の創造神だ。神性を捨て、化け物に身を落とし、意地汚く生にしがみ付いている。そんな奴が……」


「素直に負けを認めるか? ……確かに、それはそうです」


「未だ逃げ隠れしている、アルケスの方も気に掛かるよ、己は。アイツ一柱で、ミレイユを何とか出来ると思うか? 他の小神も全て敵に回して、アイツは何がしたいんだ」


「それは確かに、気に掛かっていた事ではあります……」


 だが、小神同士の結束は固い。

 ミレイユが恐ろしいのではなく、現状の世界に満足しているから、これを壊したいと思えないのだ。


 豊かな自然と大地、温かな信仰。

 無理に抽出する必要もなく、ただ生活の延長線上に向けられる信仰は、神として非常に居心地の良いものだ。


 かつてのように、畏怖と暴力をチラつかせて、無理に願力を向けさせる必要もない。

 豊かな生活基盤の上で向けられる信仰は、温かな願力として神を温めるのだと、ルヴァイルは改めて知ったのだ。


 それは他の神々にとっても同様で、かつて十二の大神が支配の頂点に君臨していた時、小神はその願力を生み出す為の機械に過ぎなかった。

 畏怖と暴力によって願力を生み出し、強制的に祈れと恫喝する。


 そして、最後に世界の礎として贄にされるのも決まっていた。

 どれだけ信仰を向けられようと、最後に待つのは死と分かっていれば、神とて真剣に信仰を集めようとはしない。


 そこでいっそ暴力と混乱で、神の思うがまま人民をおもちゃにしていたアルケスは、正しく異端だったと言えよう。


「アルケスに取り引きを持ち掛けられたとて、協力する神がいるとは思えません。逃げ続け、隠れ続けていれば、自身に向けられる願力も減る。……今も、減り続けているでしょう」


「見返りあっての信仰、なんて言いたくねぇけどよ。事実として、アルケスは何もしない。出来るはずがない……だろ? 着実に弱っているはずだ」


「願力を向けられる事で神となるのだから、願力を向けられない神は、消滅するしかありません……」


「アイツが勝手に自滅するタマか?」


「到底、そうは思えませんね。となれば、今も暗躍している――する為に、潜伏している。そして、最悪の想定として、淵魔と繋がっている可能性もあるわけですか……」


 表舞台に立たない限り、信仰を受け取れない。

 全くのゼロではないが、他の神へと宗旨替えされるのを避けられないだろう。


 常に目減りしていく願力に、忸怩たるものを感じるはずだ。

 いつか返り咲きたい、とすら思うかもしれない。

 だが、勝手をし過ぎたと判断され、いざ罰を受ける際、アルケスは逃げ出した。


 これがただで済むはずがない。

 アルケスは戻りたくても戻れない。


「追い詰められたアルケスが、一体何をするのか……。そんなの、想像もつきません」


「淵魔と手を組む……なんてこと、本当にあり得るのか?」


「あって欲しくありませんね」


「そう言うってことは、ないと断言できない、って意味でもあるわけか」


 まさしく、忸怩たる思いで、ルヴァイルは頷く。

 カップを口元に向け、小さく傾ける。

 好きな銘柄のはずなのに、ひどく苦みを感じてしまい、大いに顔を顰めた。


 その時、控えめなノックと共に、ルヴァイルの神使が顔を出す。

 古くから仕える、ルヴァイルが最も信を置く、ナトリアという名の女性だった。


「お休みのところ、申し訳ありません」


「構わないわ、どうしたの?」


「ミレイユ……大神レジスクラディス様がいらっしゃっております。ご予定にもなく、また先触れも受け取っておりません。それに、竜を使わず移動して来まして、いかにも怪しい……。追い返しますか?」


「何を言うの! ミレイユが突然、押しかけるなんて、妾に会いたくて会いたくて仕方なかった、という現れでしょう! すぐに通して!」


「お前って、なんでミレイユが絡むと、途端に駄目になるんだろうな?」


「何が駄目ですか! 妾は正常です! ささ、早く通しなさい! 命令ですよ!」


 ナトリアは酷く渋い顔をさせたが、結局何も言わず深く一礼し、去って行く。

 ルヴァイルの先ほどまで見せていた暗い顔は何処へやら、今ではすっかりウキウキと、心弾ませて来客の到来を心待ちにしていた。

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