ネリビンの魚竜 その7
レヴィンとロヴィーサが同時に刺し貫いたことで、気絶したナタイヴェルは目を覚ました。
海面に向かって無防備な姿を晒していたのも束の間、ビクンと跳ねて尾びれを振り回す。
「くっ……!?」
水圧を物ともしないその動きは、張り付き続けるのは困難だった。
上下へ激しく揺れて、今にも振り落とされてそうになる。
しかし、レヴィン達にとっても、ここが正念場だ。
決して手を離すわけにはいかなかった。
「こ……のッ!」
いつまでも、張り付いたままで、耐えているだけでは埒が明かない。
今までに類を見ない反応を見せたナタイヴェルだ。
敵もまた、何としても振り落としたい、という意志を感じる。
それはつまり、明確な弱点だと認めたようなものだ。
アイナの推測は正しかった。
――食用魚と同様に、エラは重大な弱点となり得る。
「必ず、ここで仕留めるッ!」
ナタイヴェルも馬鹿ではないだろう。
そう何度も、弱点部位に張り付くのを許すとは思えない。
――それに。
「
それこそが、どれだけ不利な状態でも、戦い抜く原動力となっている。
しかし、敵は余りに巨大だった。
最初から痛感していた事であるものの、それは弱点を攻撃している時でも変わらない。
「どれだけズタボロにしてやれば良いんだか……!」
エラは眼球の後ろ辺りから始まり、顎先に掛けて広く取られている。
船でいうならば、舳先から竜骨まで、船体の半分はエラである様なものだ。
一つか二つのヒダを傷つけたくらいでは、呼吸を妨げる助けにすらならない。
それを暴れる動きの中で、何とか隙を見つけて攻撃するのだ。
これが簡単な筈がない。
「くっ、ぐぅぅぅ……ッ!?」
時に上下へ振られ、時に急突進する水圧で吹き飛ばされそうになる。
しかし、それでもレヴィンは必死に食らい付き、ヒダへの攻撃を繰り返した。
鮮血が溢れ、海中をどす黒く染めては、暴れる動きで霧散する。
そして、反対側でも同様に血液が漏れているようだ。
それが視界の端で感じ取れ、ロヴィーサも振り落とされることなく、上手くやっていると分かる。
「これなら、何とか……!」
光明が見えてきた。
ナタイヴェルの出血量は多い。
そして、ヒダを傷付ける度に、呼吸は加速度的に難しくなっていく。
敵とて焦りが出るだろう。
勝利は目の前まで来ている。
それを確信した、その時だった。
暴れる動きに耐え切れなくなったのか、ロヴィーサが吹き飛ばされ、視界から遠退いて行くのが見えた。
流石にこれにはレヴィンも焦る。
「――ロヴィーサ!?」
勝利を目前にして油断した、などロヴィーサに限って有り得ない。
淵魔討滅に際しても、そうした油断が最もあってはならないと、きつく教育を受けている。
だから、吹き飛ばされた原因は、握力の限界だとか、別の理由に違いなかった。
助けに行くか、それとも攻撃を続行するか、一瞬逡巡する。
「いや、駄目だ!」
せめて自分の役目を終わらせなければ、助けに行く資格がない。
レヴィンもまた必死の思いで食らい付いているが、思いだけで達成できるほど甘くもなかった。
恐らく彼女の失敗同様、掴まり続ける握力を失いかけている。
自分の限界も近い、と認めなければならなかった。
だが、せめて――!
「せめて、片方のエラだけでも……!」
そうすれば、即座の戦闘停止は無理でも、運動能力の低下は免れない。
船に追い付く事はないだろうし、単なる移動で発する水圧も、よほど緩やかになる筈だ。
そうであれば、再びその巨体に近付くのは、決して難しくない。
レヴィンは決死の思いで、カタナを突き刺し、薙ぎ払い、斬り付けた。
握力にも本当の限界が近付き、腕も痺れ始める。
感覚そのものが消え始め、レヴィンの気は焦るばかりだった。
「――しまった!?」
それが悪かったのだろう。
集中力の限界もあり、ナタイヴェルの急制動に、レヴィンの手がとうとう限界を突破した。
結果として、半損程度に留められ、レヴィンもまた吹き飛ばされる事になった。
「くそっ! もう少しだったのに!」
後悔は勿論ある。
しかし実際、腕は限界だった。
ナタイヴェルの動きは激しさを増すばかりだったし、根性があれば耐えられるものでもなかった。
そのナタイヴェルと、暗い海中で目が合う。
感情を感じさせない魚類の眼、――そのはずなのに、怒りに満ちていると感じられる。
血走った眼が、しかとレヴィンを捉えた。
牙の生えた口を開け放ち、猛然と突っ込もうとしている。
海面に接している時は機敏な動きが出来るものだが、投げ飛ばされた海中では、敵の良い的でしかなかった。
レヴィンも力の限り泳いで、海面に向かう。
しかし、比べるまでもなく、ナタイヴェルの方が圧倒的に速さが上だった。
「仕方ないか……ッ!」
レヴィンは覚悟を決めて、振り返ってはその場に留まる。
大口を開けて迫る魚竜を見据え、カタナを正眼に構えた。
――どこまで通用するか分からないが、いっそ自ら口に飛び込んで攻撃するのも良い。
ある種の覚悟を決めた、その時。
頭上から別の影が、空気の尾を引いて突っ込んで来た。
「オォォォォオッ!」
それは大剣を腰溜めに構えたヨエルだった。
意識を全てレヴィンに向けていたナタイヴェルは、気付くのに遅きに失し、そして大剣の一撃は尾ひれを強かに斬り付ける。
両断とまではいかなかったが、半ばまでめり込んだ一撃なのは確かだった。
ナタイヴェルは急旋回し、尾ひれを庇う様に身体を丸める。
そこへ、密かに近付いていたロヴィーサが、トドメの連撃を見舞った。
「お前ら……!」
レヴィンの顔が思わず綻ぶ。
ロヴィーサが両腕を振り抜き、交差する形になるのと、尾ひれが切断されたのは同時だった。
ナタイヴェルは悲鳴を上げず、また声らしい声も上げない。
しかし、のたうち回る動きは、間違いなく苦しみに喘ぐものだった。
「良くやった!」
レヴィンが声を張ると、二人から快勝の笑みが浮かぶ。
しかし、未だ勝利したとは言えなかった。
尾ひれを失い、水を自由に掻けず、逃げることさえままならない相手だが、息絶えてはいない。
「ロヴィーサ、引き続いてエラを攻撃! ヨエルにも手伝わせろ! 俺も残りを削り切る!」
「承知しました、若様!」
今もナタイヴェルは逃げ出そうと必死だ。
しかし、身体を左右にくねらせるだけで、僅かながら前進しているに過ぎなかった。
先程のレヴィンと真逆の関係で、あっという間に追いつき、エラへの攻撃を再開する。
動きが殆どないものだから、血液は海中に滞留し、斬り付ける度、視界が閉ざされてしまう。
だが、ただ夢中でレヴィンは攻撃を続けた。
早く終われ、と祈りながら、カタナを振るう。
「……よし、これでもう十分か!」
最初は見事に整列していたヒダが、今では見る影もなくズタボロにされている。
反対側も同じようになっているなら、このまま窒息させられる筈だ。
レヴィンはその場を蹴り付け離れた時、ロヴィーサとヨエルも同時に上がって来る所だった。
互いに頷き、レヴィンは指を上に向ける。
意図を察した二人は、ナタイヴェルから距離を取り、海面へと向かって行った。
レヴィンもまた後を追いながら、ナタイヴェルの様子を注意深く観察する。
もはや抵抗の意志も見られず、今では痙攣を繰り返すばかりだ。
無感情の眼が海面を、ただ見つめている。
次第に身体からも力が抜け、海面に浮かんで行った。
その上昇速度に合わせて、レヴィンもまた海面へと戻った。
先んじて到着していた二人と、後方で見守っていたアイナが、海面に立ちながらレヴィンを迎える。
頭上から落ちてくる様に見えるナタイヴェルを、二人と共に見守った。
「勝てたな……」
「はい、危ぶまれる状況は、幾度もありましたが……」
「けどよ、勝ちは勝ちだぜ。アイナのお陰だ」
「いえ、そんな……! 皆さんの力です!」
アイナは謙遜するが、これは間違いなくアイナなくして掴み取れない勝利だった。
ヨエルにしても、自爆覚悟の刻印使用が出来たのは、その回復頼みだった所がある。
自分もダメージを喰らうが、死にはしない。戦線に戻れると期待したから、取れた行動だ。
そして、彼女の功績は回復だけでもない。
「尾ひれを半分斬り付けた時、やたらと急速に飛んできたが、あれは何かやったからだろう?」
「あ、はい、そうなんです。筋力増強、速度増加の支援理術を使いました」
「へぇ……、そりゃあ良い。しかし、いつの間に習得してたんだ?」
「レヴィンさん達が必死に打ち込んでいるのに、私だけ何もしない訳にはいきまんでしたから。結希乃様にもお願いして、使い物になるようお口添えして頂きました」
はにかむ様に笑うアイナに、ヨエルは我がことのように喜び、その頭を乱暴に撫でる。
頭をガクガクと揺らされたアイナは、それでも笑みを絶やさなかった。
ロヴィーサもまた控えめに笑いながらそれを見守っていたが、ナタイヴェルが近付いて来たことで顔を引き締める。
「――来ました」
「そこまで警戒いるんかよ?」
「未知の敵なのですから、これぐらい当然です。あれだって擬態かもしれません。最後に一矢報いる為、わざと油断させている可能性は?」
「そんな賢そうには見えんかったが……」
ヨエルはつまらなそうに言ったが、レヴィンには尤もと思えた。
未知の敵には、慎重すぎる位が丁度良い。
「ヨエル、ロヴィーサの言うとおりだ。死んだと確認できるまで、気を決して抜くな」
「了解だ、若」
改めて武器を構い直し、それぞれ距離を取った。
もしも一網打尽を狙っているなら、固まっていては良い的だ。
そして、それは現実の事となった。
それまで無反応を貫いていたナタイヴェルは、唐突に身を捩って大口を開ける。
狙いはヨエルで、その口を閉じるより早く大剣を振るって牙を斬り付け、その反動で逃れた。
――そして、それが最後の抵抗になった。
今度こそ微動だにせず、そのまま海面にぷかりと浮かぶ。
「あ、あっぶねぇ……!」
「ロヴィーサに礼、言っとけよ」
「勿論だ。すまねぇ、ロヴィーサ。助かった」
「いえ、他の誰がそうでも、私だけは警戒し続けるのが役目だと思っていますので」
ちらりとも笑わずそう返すと、ヨエルは苦笑混じりに呟いた。
「それでこそ、って感じだな。……ともあれ、若。今度こそ勝利宣言しても、良いんじゃねぇか?」
「そうだな。
レヴィンが海面に手を付いて反転すると、すぐ近くに船長の船がやって来ていた。
船の
『ウワァァァ……!!』
レヴィン達は万雷の拍手と歓呼の声を受け、一瞬呆然としてしまう。
しかし、ロヴィーサに小さく腰を叩かれると、力強い笑みを浮かべてカタナを掲げた。
今度は更に大きな歓声となって、レヴィンの全身をビリビリと震わせた。
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