ネリビンの魚竜 その6
たとえ海中であろうとも、地上の様に戦えそうとはいえ、ナタイヴェルに有利な環境なのは変わりなかった。
猛スピードで迫る相手は、海底方面から――レヴィン達からすると頭上の方向から、今まさに襲い掛かろうとしている。
「正面からやり合うな! 四散しろ!」
「隙を見つけて……それから、どうすりゃいい!?」
「狙うなら、魚鱗の剥がれた所です!」
「そ……ッ、ら……、すい……ッ!」
それぞれが四方に散りながら、口々に叫ぶ。
近くに密集していた時は聞こえていた声も、散り散りになり、距離が出来てしまえばもう届かなかった。
地上と違う部分は数あれど、本来なら届く声が聞こえないだけで、追い詰められた感覚に陥る。
仄暗い天井から、牙を生やした巨大な魚が迫るとなれば、尚更だった。
最初にナタイヴェルが狙ったはヨエルで、それを横っ飛びに躱す。
躱しながらも大剣を振るい、狙いすまして攻撃したのだが、これは当たらなかった。
水中での抵抗は大きく低減されているとはいえ、全く消えたわけではない。
その抵抗に慣れないまま攻撃した結果、生まれた遅延で当てそこなってしまったのだ。
しかし、どの程度の抵抗を受けるか分かっていれば、それに合わせたやりようもある。
攻撃を見事に躱されたナタイヴェルは、水面に吸い込まれるようにして消えた。
実際には水面へ飛び出した、と言った所なのだろうが、レヴィン達の視点からはそう見える。
ならば次は、大口を開けて海中に戻って来るはずだ。
避けろ、とレヴィンは叫んだものの、それがヨエルに届くことはなかった。
海面には暗い影が覆い、ヨエルの直上を覆い尽くさんとしている。
ヨエルもそれに気付き、咄嗟に避けようとした。
しかし、僅かに遅い。
攻撃そのものから避けられても、水流という、別の要素まで考慮に入っていなかった。
帆船程の巨大な物体が動くことによって生まれる流れは、海中にいる限り決して無視できない。
ヨエルは錐揉みしながら水流に流され、一人水中に引き込まれていった。
「拙いな……、くそっ! ヨエル!」
言葉が届かないとしても、レヴィンは叫ばずにはいられなかった。
水中に入り込んだ時、もっとよく検証しておくべきだったのだ。
足が離れた時どうなるか、また足を離して泳げるものか、そうした事を――。
だが、何もかも初めての体験で、困惑ばかりが先立つ中、そうした発想が生まれなかったのも致し方ないことだ。
悔やんでも仕方ないが、悔やまずにはいられない。
「――ヨエル!」
大声で呼びかけながら、レヴィンもまた水面を蹴りつけ、仄暗い天井へ向けて飛び上がった。
そうして、ナタイヴェルは大きく弧を描いて、また戻ってこようとしている。
ヨエルを狙うナタイヴェルを、このタイミングなら横合いから斬り付けられそうだった。
丁度、魚鱗の剥がれた側面部も狙える。
囮にするかのようだが、そもそも何かリスクを背負わず勝てる相手ではない。
「ハァァアッ!」
刀の柄の尻部分、
魚鱗のないナタイヴェルの身は柔らかく、鍔まで一気に貫くことが出来た。
しかし、魚の泳ぐ速度は非常に速い。
水流の重さをその身体で味わうことになり、必死の思いで身体を支える。
両足を大きく開いて巨体に張り付き、柄を握って何とか耐えた。
ただ、この荒れ狂うかに思える水流は、何も悪いことばかりではない。
流れに沿っていれば、そこから更に横へ引き、傷を開くのは造作もなかった。
「どうだ、この……ッ!」
大きく斬り裂き、血が漏れる。
水の中に濁った赤黒い、墨のようなものが急速に後ろへ流れて行った。
しかし、それも僅か数秒のことで、あっという間に血が止まってしまう。
「傷が浅すぎるのか……!」
人間に針で攻撃するようなものだ。
傷が作れようとも小さく僅かなもので、内臓に達する切り傷にまでは至らない。
「厚い身の部分を攻撃するんじゃ駄目だ!」
レヴィンはカタナを引き抜く動作で、ナタイヴェルを蹴り付けて離れる。
尾びれが作り出す水流に巻き込まれ、大きく吹き飛ばされたが、その尾びれを見て思い付くものがあった。
「そうだ、アイナも言っていた。機動力を削ぐんだ。尾びれを傷つけてやれば、上手く水を叩けなくなる!」
だが、問題もあった。
その尾びれこそ生命線――巨大な魚竜の推進力を生む為に、力強く横揺れしている。
水流を生み出す力ともなっていて、近付くだけでその流れに飲み込まれてしまうのは明白だった。
これではカタナを上手く振るえない。
もっと動きが緩やかでなければ、攻撃自体も出来そうになかった。
ナタイヴェルが悠々と過ぎ去っていくのを、レヴィンは苦々しく見送るしかない。
そのまま睨みつつ海中に漂っていると、身体は勝手に水面へと戻っていく。
地上との違いに戸惑うばかりだが、水面を強く蹴り上げれば、そのあと緩やかに落ちて――実際は浮上して――水面に戻るものであるらしい。
本来なら、身に着けた武具の重さを考えれば、そのまま沈んで行きそうなものだ。
しかし、水面を歩行させる為に、浮力と似た力がその方向へ戻してくれるのかもしれない。
――その時だった。
唐突に爆音が轟き、衝撃波が海中を揺らす。
先程も感じた、記憶に新しい衝撃だ。
もしや、ナタイヴェルに飲み込まれたかと思ったが、ヨエルはヨエル独自の手段で危機を脱出した、という事らしい。
自ら放った衝撃波をその身に受けて、砲弾の様に吹き飛んで来た。
思わず避けてしまい、ヨエルはそのまま水面を貫いて行ってしまった。
しばらくすると、着水する音が聞こえ、空を仰いで倒れているのが見える。
「――アイナ! 頼む、来てくれ!」
声は聞こえずとも、見ていれば状況は分かる。
ナタイヴェルを警戒しつつ走り寄ってきて、一つ頷きを見せると海面に手を付いて反転、ヨエルの治療に当たった。
「ヨエルの自爆覚悟の攻撃は、――しかし十分、意味があった!」
顔面付近で直撃した衝撃波は、ナタイヴェルの意識を刈り取るのに十分だった。
身体を横に倒して、ぷかりと沈み込もうと――浮き上がろうと――している。
時折、ぴくりと痙攣しているので、死んではない。
今の内にトドメを刺すべきだった。
「しかし、眼球を傷付けるだけで倒せるものか……」
重症には違いない。
視力を奪うことは敵を不利にし、勝利にまた一歩近付くことになる。
しかし、抉り出すほどの攻撃は出来ず、文字通り視力を奪うことだけしか出来ないだろう。
それでは倒せない。
「気絶も長時間、続くわけがない。ならば……」
尾びれをこそ、攻撃すべきかもしれない。
当初の思い通り、移動力を削ぐ方が先決だ。
……その様に思える。
だが、本当にそうだろうか。
「くそっ、未知との戦いはこれだから!」
明確な弱点を知らない、という点が痛い。
魔物であろうと心臓を貫けば死ぬのだろうが、その心臓を攻撃する手段がなかった。
ヨエルの大剣だろうと、流石にそこまでは届かない。
「何度も斬り付け、身体に穴を開けるか……? あの身は柔らかかった。不可能じゃないとも思うが……」
しかし、確証がなかった。
あくまで表面だけが柔らかいだけかもしれず、内臓を覆う筋肉は――そんな物があればだが――手こずる事になるかもしれない。
「若様……!」
懊悩し、攻めるに迷っている所へ、ロヴィーサが傍にやって来た。
「先程、アイナさんから助言を頂きました」
「ヨエルを助けに行く前にか……?」
視線を頭上に向けて問うと、ロヴィーサは頷く。
「四散した後、若様が攻撃を仕掛けている間、有効かもしれない攻撃を伝えられました」
「魚としての弱点って意味だな?」
「はい、魚は水中で呼吸する為に、エラを使うのだそうです。眼球の後ろ側にある溝がそのエラで、つまりそれを破壊してしまえば……」
「呼吸できずに、酸欠で死亡する?」
ロヴィーサは緊張を顔に浮かべて首肯する。
レヴィンは視線をロヴィーサに戻して、頷き返した。
「やってみる価値ありだな。どこを斬り付けても、無駄に終わりそうで困っていた所だ。有効な保障はないが、他の何処よりマシな目標に思える」
「では、やって見せましょう。丁度、対象が気絶している、今がチャンスです」
「ヨエルが捨て身で作ったチャンスだ、無駄にするな!」
レヴィンの号令で、水面を叩きつけるようにして走る。
今も時々痙攣する以外、未だに何の動きも見せていない。
「俺は回って海底方向から攻撃する。ロヴィーサは目標地点に到達後、十秒待ってから攻撃しろ。なるべく、タイミングを合わせたい」
「承知しました。痛みで目覚められては、効果も半減ですものね」
しっかりと頷いて分かれると、ロヴィーサは一直線に眼球近くへ位置取った。
レヴィンは心の中で一秒、二秒と数えつつ、巨大な身体に張り付く。
そうして、魚鱗に覆われた身体を蹴飛ばしながら、反対方向へと回る。
そうして回り込んだ先では、何も映していない眼球と、時折パクパクと開く巨大な口が見えた。
未だに動きがないことを確認して、ロヴィーサに教えられた溝部分に着地した。
そこは確かに、震えるような形で開閉している。
分かり易く大きな動きではないが、呼吸と言われれば、そうした動きにも見えた。
「七、八……。よし、約束の十秒は、今頃のはず……!」
レヴィンは手の中に握り込んだカタナを、その溝の中へと差し込んだ。
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