ネリビンの魚竜 その2
――頼みたいこと。
そう聞いて、この状況で想定できる事態は多くない。
海について、そして船についても、素人のレヴィンに頼むとなれば尚更だ。
ある種の覚悟をして、船尾への階段を駆け上がると、船長は開口一番に言った。
「おめぇ、あのデカブツやっつけて来い!」
「――無理ですよ!」
半ば予想していた内容だけに、即座の反応で言葉を返した。
船尾にやって来て、魔物の全貌がより鮮明に見えるようになったから、尚更無理だと分かる。
レヴィンも多くの魔獣や魔物、そして淵魔と戦ってきたものだが、今度の相手は正しく桁が違う。
その強さについては未知数だが、巨大な相手というのは相応に厄介なものだ。
熊を二回り巨大にした相手と戦ったこともあったが、巨体になれば腕の長さや大きさも、それに比例して巨大になる。
掻い潜って攻撃するのも大変で、身を切る思いをしたものだ。
そればかりではない。
今回は巨体なだけではなく、相手は海の上にいる。
戦うには大いに不利で、まともな戦闘になるかも怪しかった。
「やれと言われても出来ません! 海上や海中で、有利になるような刻印なんて持ってないんですから!」
「けど、おめぇら腕っ節に自信あるんだろ! それだけが自慢の野郎どもが、ここで芋引いて待ってるだけかよ! それでもおめぇ男か、えぇ!?」
「いや、言ってることが無茶苦茶ですよ! 腕っ節に自信があっても、あんなのと戦ったこともなければ、戦える状況にだってないのに!」
そう言ってから、今も傍らで無言を貫く、ミレイユ達へ顔を向けた。
今度こそ、困った時の神頼みだと思ったからだ。
ミレイユならば宙に受けるし、海上であろうと関係ないだろう。
隠密を心掛けるとは言っても、ここは見渡す限り海しかない。
見られる心配だってない筈で、それなら少しの時間くらい、戦闘に時間を割いてくれても良いと思った。
だから、期待の眼差しを向けたのだが、返ってきた答えは梨の礫だった。
「そんな目で見られたって無駄だ。動かないぞ、私は」
「し、しかし……! このままでは諸共、海の藻屑ですよ!?」
「お前たちが倒せば、そうはならない」
「そ――!」
それはそうだが、という言葉を、レヴィンは辛うじて飲み込んだ。
倒せるのなら、それに越したことはない。
しかし、海での戦闘経験など、レヴィンは持っていないのだ。
小さなボートにでも乗って、魔物の傍に寄れ、とでも言うのだろうか。
レヴィンは船とボートをロープで繋ぎ、引き離されない状態にした上で戦うことを想像した。
しかし、やはり良い想定には結びつかなかった。
足場が悪いだけでなく、この速度で進む帆船に曳かれるのだ。
海上でボートが跳ねて、立ち上がるどころではないだろう。
戦闘など初めから無理だ。
「戦える相手なら、倒せるかもしれません。ですが、そもそも戦えない相手と、どう戦えと言うのです!?」
「フン……、良く吠えたものだな」
何事もミレイユの前に出ず、控えている立場の多いアヴェリンが、冷徹な瞳を向けて言った。
「お前らは未だに分かっていないらしい。やれと言われたら、やれ」
「そん、な……!」
「まさかとは思うが……。足場が悪いなんて理由だけで、拒否しているのではあるまいな」
「十分な理由ではないですか!」
これが例えば坂の多い場所なり、岩が点在するなどの理由で足場が悪い、というのなら、どうとでもする。
しかし、今回はその足場がない、という話なのだ。
単に平場でしか戦いたくない、と言っているのとは次元が違う。
その上、今回は海中に落ちたらまず助からない、という状況も加えられていた。
帆船が猛スピードで走っている以上、ロープが切れたり、足を滑らせたりした時点で、レヴィン達の敗北は決定したようなものだった。
「落ちたら助からないんですよ! 身体のどこかにロープを括り付けていたとしても、結局……!」
抗議を続けようとした、その時だった。
船体に凄まじい衝撃が走って、縦に揺れた。
「おわぁぁ……!?」
「きゃぁぁあ!」
レヴィンは咄嗟に手摺を掴んで事なきを得たが、アイナは転がり落ちそうになっていた。
それをヨエルが咄嗟に庇って胸の中に抱き留め、片手で
「なんだ……!?」
見れば、巨大魚はすぐ後ろまで迫っていた。
背びれだけでなく、その眼球すら見えるほど、その魚体を海上に見せている。
大きな目玉は直径で成人男性ほどもあり、口の中には牙が見えた。
船長も操舵輪を握りながら堪えていて、背後を振り返っては苦しげな声を漏らす。
「まさかとは思ってたが、まさか本当にアイツが出たのか……!」
「アイツ……アイツって、あの巨大魚ですか? 何か対策とか知ってますか!」
「ナタイヴェルだ! ネリビンの魚竜だよ! もっと別の奴を想定してた! 普通、こんな近海には出てこねぇ! 巨公の鯨と言いコイツと言い、一体どうなっちまってるんだ!?」
ネリビンとは、北方大陸と中央大陸を繋ぐ海域のことを指す。
そして、ナタイヴェルという名が、背後から追っていた巨大魚にも見えていた魔物なのだ。
竜と名前が付いていても、実際には竜らしい部分は見受けられない。
竜ほど巨大な魚だから、付けられた通称でもあった。
その上、豪胆な海の男である船長にすら恐れられる程、厄介な海の魔物であるという事が分かる。
「閃光での目眩まし程度、奴には大して効果がなかった! 他にどうすれば!?」
「すまねぇな、あれ程の奴が相手とは思ってなかった……。いや、今の今まで近海にいなかった筈だ! いると知ってりゃ、囮なんざ引き受けるもんか!」
「――だから、どうすれば逃げられるんだ!」
「逃げられねぇよ! 海の藻屑になった船は数知れねぇ! 何かが犠牲になってる内に、他が逃げるしか手はねぇんだ!」
レヴィンは眼の前が真っ暗になるのを感じた。
こんな所で、という絶望感を覚える。
「多くの商船が船団を組むのは、何も大量輸送だけが目的じゃねぇ! 損切りさ! 被害が出るの覚悟で船を出すんだ!」
「討伐された事のない、魔物……」
「最近は、この海域も平和になったと思ってた。どこかに流れて行ったんだとな! だが、どうやら一時離れて、また戻ってきただけらしい! ――くそっ、ツイてねぇ!」
「ミレイユ様……!」
今度こそ、レヴィンは縋り付く思いで視線を向けた。
しかし彼女は、衝撃があった時も変わらずの仕草で、静かに佇むだけだった。
腕組した姿勢もそのままで、危機感どころか現実味が全くない。
最悪、自分だけは助かるとの思いからかもしれないが、事ここに至って平静なのは、むしろ不謹慎な気がした。
「お願いします、ミレイユ様! どうにかして下さい!」
「既に言ったはずだろう。そんな目で見ても無駄だ」
「そんな――!」
神とはここまで薄情な存在なのか、と恨めしくなる。
レヴィンは何か見返りを期待して、信仰していたわけではない。
それは確かで、都合の良い時だけ縋るつもりもない。
しかし、窮地にあった助けを求める存在が、これ程近くにいて何もしてくれないというのは、レヴィンに絶望を感じさせるには十分だった。
そこへミレイユに代わり、冷淡な視線をさせたまま、アヴェリンが言う。
「お前は何か勘違いしているな。これは窮地ではない、全く窮地と程遠い」
「これが、窮地ではない……?」
「人は人の手によって助く、とミレイ様は仰る。だが、人の手に余る事態で、手を貸す事を厭う方ではない」
そんな馬鹿な、と言いたくなる。
船は巨大な口と無数に生えた牙とで、簡単に喰らいそうな魔物が、尻に付いているのだ。
今すぐにでも、船尾を齧り取られてもおかしくない。
これが窮地でないのなら、世の大半に窮地は存在しないことになる。
神の手は、そう軽々しく差し出されるものでないのは、レヴィンにも理解できる。
低い障害に差し伸べる手はないだろう。
しかし、その障害の基準を、あまりに高く設定し過ぎではないか。
手を差し伸べる理由を減らす為、高い基準を設けているようにも感じられる。
そして、アヴェリンは続けた。
「お前には、ほとほと呆れる。どういう相手であれ、どれだけ巨体であれ、そしてどうした攻撃方法を持っているか知らずにも、戦わねばならないのが淵魔という敵だ。あれは淵魔ではないが、どうせ無理そうだと思えば、お前は尻尾を巻いて逃げるのか?」
「勿論、戦います! 戦いますが、しかし――!」
「戦えない相手、勝てない相手にさえ、行けと命じることはない。出来るから、やれと言うんだ」
その言葉に、レヴィンは一瞬、訝しむ。
本当だろうか、という気持ちが湧くと同時に、こんな状況で嘘は言うまい、とも思う。
発破を掛けるつもりだろうと、無理と分かって掛ける人でないだろう、とも思うのだ。
それならば……本当にレヴィン達ならば、このナタイヴェルを倒せると、本気で思っているという事になる。
「それに……」
ミレイユが口を挟んで、視線を宙に向けた。
空の中から何かを探す視線だが、空に青い空と厚く白い雲しか見えない。
「どうやら、これは売られた喧嘩であるらしい。我々を亡き者にしたい奴らの仕業かな」
「亡き者……!? それって……」
「前に言ったろう。ある種の神使は、機会を窺っていると……」
「では、今回のこれも……!? 巨公の鯨に続いて、ナタイヴェルの襲撃は、確かに出来過ぎかと思いますが……!」
ミレイユは頷き、目を細くさせた。
「どうやら、そういう事らしいな。偶然にしては余りに不可解。では、誰かがこれの画を書いたのだろう。この状況を人の手で作り出せない以上、出来る存在は限られてくる」
「では、ミレイユ様が、この船に乗っていると知られていた……?」
「知ったのは偶然だろうな。こちらも知られないよう、相応の準備はしていた。しかし、神使は必ず神処に篭っているわけではないし、神の信仰を広める為、活動している事も多い。どこにいるかまで私は把握してないから、きっと先の港町で、偶然発見されたな」
「一体、どこの誰が……!?」
ミレイユは細めていた目を閉じ、静かに首を振った。
「そこまでは分からない。向こうも分かり易い痕跡は残していないし。……だから、これは神使同士の喧嘩、という形で治めてやっても良い」
「……よろしいのですか?」
アヴェリンがそう問うのは、つまりナタイヴェルの相手を、レヴィン達から自分たちへ移すからだろう。
そして、彼女ならば問題なく倒してのけるのだろう、という信頼感もあった。
「私の期待が間違っていた、と言いたいなら、そうさせるさ。私はレヴィン達なら倒せると思ってる……が、他ならぬ本人が無理と言うなら、無理強いはしない」
レヴィンは胸が詰まる思いがして、言葉にも詰まる。
そして、己の不敬を恥じていた。
――何が高い障害を設定した、だ。
ミレイユは……レヴィンが慕い、進行する尊き神は、レヴィンならば倒せると疑っていない。
これまでの態度も、その信頼感から来るとしたら、レヴィンにとってこれ程嬉しいこともなかった。
目尻に涙が浮かびそうになるのを、ぐっと堪える。
「――いえ、やります! 俺達でやってみせます! どうか我々に勝利を献上する栄誉を、お与え下さい!」
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