ネリビンの魚竜 その1

 軍船が先行して海域から離れていくのを、レヴィンは船尾に立って眺めていた。

 そして、それは海中に今も潜む魔物にも、その姿が見えていることだろう。


「おい、ユミル! 今だけあの“貴婦人”を出すのは止めてくれ!」


 船長から張り上げられた大声は、舳先に座るユミルの元にも届いた。

 彼女は、ひらひらと手を振って、分かっていると主張する。

 今もなお変わらず魔物を威圧してしまえば、逃げた奴らが何処へ向かうか、想像に難くない。


「よぉし、それじゃ行くぞ! それ掴まれ、取り舵いっぱい!」


 マストは既に全開となっていて、風を受け止める瞬間を、今か今かと待ち構えている。

 ルチアが抱く様に持っていた杖を掲げると、背後から強風が巻き起こった。

 甲板には吹かない、完全に制御された強風は、垂れ下がっていたマストを一気に膨らませた。


「――う、ぉっ!?」


 上空でのみ吹き荒れる風に、船が一気に押し出される。

 船とは思えぬ急発進を見せ、レヴィンも反応が遅れて身体が揺れた。


 足を一歩踏み出して、片足一本で体重を支え、バランスを取る。

 あまりの急加速は船長にとっても意外だったらしく、珍しく悲鳴を上げている。


「おいおい、何て事してくれんだ! この馬鹿ッ風をどうにかしてくれ! マストが折れちまう!」


「折れない様に調整してますよ。それに、マスト全体を防護してますので心配いりません」


 涼しい顔のルチアが言った通り、彼女は魔術で送風しながら、防護の魔術まで使用していた。

 刻印を使う時でさえ、同時使用というのは神経を使うものだ。


 それを、彼女は刻印の補助なく、完全な自力制御で魔術を展開していた。

 神の御業と勘違いしてしまう程の高難度制御に、レヴィンは思わず不躾な視線をぶつけてしまった。


「ふふっ……」


 しかし、ルチアは小さく笑みを向けるだけで、何を言うでもなかった。

 彼女なりの優しさというより、無理解に対する哀れみのようでもある。

 居た堪れない気持ちになったレヴィンは、視線を船尾の更に後ろ――海中に追って来る影がないか確認した。


「……目立って何かが追って来る影はないな」


「見えてねぇだけだ! 追っては来てる!」


 船長が叫ぶ様に言って、操舵輪を重そうに回す。

 実際、速度が出る程に、細微な操作を要求されるのだろう。

 本来なら有り得ない速度が出ているのだから、その操作難度も飛躍的に上昇しているはずだった。


「だが、獲物が二手に分かれたと気付き、どちらの船を追うか考えてる頃だろうさ! そろそろ、こっちに引き付けてやらなきゃならねぇ!」


「それは、つまり……」


 レヴィンは死骸の山へと目を向け、そしてアイナはげんなりとした顔を隠しもせずに肩を落とした。

 その様子にヨエルが笑って、彼女の肩を叩く。


「何も三人、四人掛かりでやる事じゃないだろうぜ。さっきは急ぎで、人手も足りなかったから手伝って貰ったが、ここからは男の仕事だな」


「……ま、そうなるか」


 嫌といっても、毒があるわけでも、実害が出るわけでもなかった。

 とにかく、臭いがキツい。

 海産物と縁がなかったレヴィンには、特にこの生臭さは強烈だった。


「とはいえ、他にやりようもないのなら、手掴みで投げ入れるしかない」


「だな。『念動力』の刻印が、今ほど欲しいと思ったこたぁないぜ」


 そうは言っても、念動力の魔術は、それほど使い勝手の良い魔術でもない。

 あくまで軽い物を浮かせて動かせるのであって、自重の半分ともなると、もう微動だにしなかったはずだ。


 いつだったか、ミレイユがレヴィンを持ち上げ、投げ飛ばした事が強烈な印象として焼き付いているが、同じことを出来る人間はまずいないのだ。

 所持していた所で、どのみち大して意味はなかったろう。


 現実逃避にも似た思考から帰って来て、レヴィンは甲板へと走り出す。

 その後にヨエルも付いて来て、問題の死骸の前に立った。

 レヴィンは操舵中の船長へ振り返り、声を張り上げて尋ねる。


「次々と投下して良いのか!」


「いや、ある程度、間を置いてだな! まずは続けて五つ、投げ入れてみろ!」


「了解だ!」


 レヴィンはヨエルと目を合わせ、言葉もなく頷き合うと、それぞれ一体ずつ魔物の身体を掴んだ。

 時間が経過する程に悪臭を放つ身体は、その表面もぬめりがあって持ち難い。


「どうにか触る部分を少なく出来ないかと思ったが、これは無理だな」


「片手で引き摺れたら、それが一番だったがよ……。言ってられねぇか」


 何しろ、今も船は凄まじい速度で前進しているのだ。

 下手に魔物を置き捨てることになれば、残った魔物が次にどこを目指すかなど明らかだった。


 魔物に敵愾心を持たせ、後を追う様に仕向ける為には、素早い投下が今すぐにでも必要だった。


「えぇい、ままよ!」


 レヴィンは一大決心のつもりで、両手を使って抱き起こし、死骸を抱えて船の端に走った。

 船へ乗り降りする場所を選べば、他より幾らか楽に、死骸を投げ捨てる事が出来る。


 ヨエルと協力して二往復半、手際よく五体の死骸を捨て終わると、船長から次の指示を待った。

 そして船長は現在、マストの見張台にいる水夫から応答を待っている。

 魔物がどう動くか、そこで確認しているのだ。


 その直後、水夫が旗を振るのが見えた。

 レヴィンは手旗信号の意味を知らないから、魔物が食い付いたかどうか、その動向は分からない。


「どうなんだ……?」


 固唾を飲んで見守っていると、船長から再び指示が飛んだ。


「落とせ、落とせ! じゃんじゃん落とせ!」


 食い付いた故なのか、それとも食い付かない故なのか、それはレヴィンにも分からない。

 だがとにかく、言われたまま死骸を掴んで、再び海に投棄し始めた。

 そうして、またも二往復終えた辺りで、ヨエルが毒づく。


「くそっ、体中に臭いが染み付いちまうぜ!」


「海の真っ只中だ、水浴びするには困らんさ」


 ただし、真水ではないので、髪などがガビガビになるのは避けられない。

 臭いを我慢するか、体中の塩っ気を我慢するか、どちらか選ばねばならないだろう。


 じゃんじゃん投げろ、の指示通り、レヴィン達は待てと言われない限り、投棄を続けるつもりだった。

 死骸の数も半分程に減り、死骸の山が崩れてくると、中には両断された魔物の姿も次々と出て来る。


 血や臓物が溢れ、甲板を汚していて、更に臭気が酷くなった。

 魔物に触れずとも、その場にいるだけで臭いが移りそうな程だ。

 そろそろ鼻も利かなくなって来たその時、後方から大きな衝撃音が鳴り響いた。


「なんだ……!?」


 驚いて振り返って見れば、船尾の向こう側では水柱が立っている。

 そればかりではない。

 何か巨大な魔物が、船を目掛け追って来ているのだ。


「これも……予想通りなのか?」


「そうだと良いが……」


 水夫達の動きが、にわかに激しくなっている。

 動揺と浮足立った気配まで感じ取れ、到底範疇の内だとは思えなかった。

 船長が声を張り上げ、水夫達に指示を出す。


「両舷構え! 刻印使え! 後ろのデカブツを下げさせろ!」


 水夫の内、両舷で控えていた者達が、後方に向けて手を突き出す。

 同時に放たれた数十の刻印魔術は、後方へと飛んで行き、そして数々の光を弾けた。


 それは目眩ましにも使われる、非殺傷の閃光魔術だ。

 大抵の魔物なら、その強烈な光に目を焼かれ、追撃の手も緩まるのだろう。 

 だが、巨大な魔物はまた違った。


「何だよ、あれ……! 全然、勢い収まらねぇぞ……!?」


「巨公より二回り小さいとはいえ、それでも船と同じくらいは大きい。それで効果が薄いのかも……」


「そもそも、アイツにはそんなチャチな攻撃、通じないってだけじゃねぇのか!?」


 勝算があったから囮を引き受けた――。

 その筈だったのに、予想外の大物がやって来て苦戦を強いられている。


 魔物は魚をそのまま巨大にした様な相手だが、体躯の殆どは海中にあって、背びれが見えているだけだ。

 そのせいで、上手く閃光から逃れたのかもしれない。


「続けて撃てば効果もあるのかね……?」


「海中に逃げられるだけ、という気がする。速度もあっちの方が僅かに上だ。船に体当たりでもされたら、全員海に放り出されるぞ」


 危機感に煽られて、レヴィンはミレイユを縋って見つめる。

 しかし、やはり今になっても動く気配がない。

 緊張感の欠片もなく、腕を組んで成り行きを見守っていた。


「そうだ、ユミル様は……!」


 彼女ならば、幻術と組み合わせた威圧で、あの魔物を退けられるはずだ。

 そして、その程度は既に船長も思い付いていて、ユミルに指示出すところだった。


「おい、ユミル! おめぇ、あのデカブツどうにか出来ねぇか!?」


「あれだけ巨大だと、ちょっとねぇ……。低級の幻術と組み合わせるだけじゃ、効果薄ね。下手に刺激すると、更に興奮しそうだし……」


「何だよ、おい! 頼むぜ!?」


 レヴィンも船長と、全く同じ気持ちだった。

 持ち札はふんだんにあり、低級魔術しか使えないユミルではない。

 それならば、持てる手段で退けてくれ、と思ってしまう。


 しかし、彼女にも――神と神使たちにも、深い事情があった。

 この一年、潜伏する必要がある以上、派手に力を振るえないのだ。

 その見つからないギリギリの使用範囲が、低級に絞った魔術運用だった。


 そうであれば、思いこそすれ口にする事は出来なかった。

 レヴィンが歯噛みしながら事態を見守っていると、船長からお呼びが掛かる。


「そっちはもう良いから、全部投げ捨てちまえ! そしたら、すぐこっちに来い! 頼みたいことがある!」

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