海難救助 その7
「む……?」
気楽に聞こえる軽やかな女性の声に、メロベティは剣呑な視線をそちらへ向けた。
だが、黒髪を靡かせ登場した絶世の美女を見て、その相貌が緩む。
船長を始めとした水夫たちは、今にも飛び掛かりそうな一触即発の雰囲気だったが、それも彼女が発する特殊な雰囲気に気圧されて押し黙る始末だ。
水兵達は困惑している有様で、どう対処して良いか分からないようだった。
争いに巻き込まれたくないと思っている様でもあるし、怪我を負った仲間の方が気掛かり、と思っているようでもある。
実際、アイナの手助けに奔走する者や、怪我人を少しでも楽な態勢にしてやろうと、介護している者もいた。
「海上で、斯様な素晴らしい女性に出会えるとは思ってもみなかった。あるいは、男を惑わせる艶美な女神かな? しかし……」
色目を使ってユミルへ微笑むと、表情を切り替えて船長を睨む。
そこには侮蔑が含まれた、冷淡な視線が向けられていた。
「よもや、そこな婦人を船に監禁しておったとは……。断じて許し難い。我が船で匿うとしよう」
「何だてめぇ……、好き勝手言ってるんじゃねぇぞ。俺から水夫を奪って、客人まで奪おうってか? 俺がどうぞお好きに、とでも言うと思ったかよ?」
「言うべきであろうな。少しでも賢いつもりであるのなら、海軍の偉大さを理解している筈だ。我が国の法律においても、水兵を補充するにあたり、指揮官の独自裁量で可能とされている。これはと思う者がいれば、好きに雇用できるのだよ」
「何が雇用だ。早い話が、軍船に乗せる限りにおいて拉致を許容するってだけじゃねぇか。お前らは昔っから変わらねぇな!」
鼻白み、唾を飛ばす勢いで船長はまくし立てた。
しかし、メロベティは怒りで歪む船長の凶相に全く怯まず、涼しい顔で言ってのける。
「権利の内だ。お前如きに、とやかく言われる筋合いはない。ご婦人についても同じこと。より快適で安全な船へ、お移り頂くだけ。貴様の様な醜男が傍にいては、彼女も気が休まるまい」
「余計な節介って意味、知ってるか?」
「完全な善意で言っているのだ。女やもめの貴様らの事だ、どういう卑劣な真似をされるか分かったものではなかろう」
乗客を手に掛けるつもりなのだろう、と暗に批判されて、船長の顔は赤からどす黒い赤色へと変貌していた。
かく言うメロベティこそ、ユミルへ向ける下品な視線を隠せていない。
下劣な品性を持つのはどちらかなど、この場で判じるまでもなかった。
ユミルはその視線を受けながら、まるで何事もなかったかのように受け流し、それから船長へ顔を向ける。
「……それで、どうする? 海軍の船に手を出してでも、救援に向かいたいってのを尊重した先が、これなんだけど?」
「俺もここまで酷ぇのが乗ってるとは、夢にも思ってなかった。少しは改善したって聞いてたがよ、上のボンボンは何も変わっちゃいねぇ!」
「ま、確かにここまでのには、中々お目に掛かれないって感じよね」
メロベティにとって、自分を無視した会話は何より許し難いことだった。
それも己を揶揄した会話となれば尚の事だ。
「それ以上は侮辱と見做すぞ。――女、お前も素直について来れば良い!」
「会話できない相手と、会話しない主義なの、アタシって」
目を合わせぬままメロベティへと近づき、その額へ立てた指でごく軽く押す。
すると、途端に目の焦点が合わなくなり、その場に棒立ちを始めた。
その異様な光景に、船長の赤ら顔がすっと元に戻る。
「……何したんだ?」
「ちょっと意識飛ばしてやっただけよ。このままじゃ話も進まないし、その前にアンタこの男、殺してたでしょ?」
「かもな……!」
「正直、死んだところで構いやしないんだけど、後が面倒になるもの。このまま起きてるんだか、眠ってるんだか分からない状態にしときましょ」
それについては異論ない船長だったが、憤懣やる方ない雰囲気は崩れなかった。
鼻から盛大に息を吐き、肩を怒らせ腕を組む。
遠巻きに見守る水兵達を睥睨すると、怒りの心境もそのままに声を張り上げる。
「――次席指揮官は!!」
水兵達は互いの顔を見合わせて、困惑した様子を見せた。
今更ながらに探して首を巡らせるが、それらしき人物を発見できず困っている。
誰からも声が上がらない事に業を煮やして、船長はそれまでの鬱憤を晴らすように声を張り上げた。
「全員、死んだって事ぁないだろう! さっさと前に出てこいッ!」
「あの……、僕です……」
おずおずと、小さな肩を更に小さく竦めて前に出て来たのは、まだ年端もいかない少年だった。
体格は細く、成長期に入ったかどうかすら怪しい。
流石に船長も虚を突かれ、瞠目して少年を見やった。
「おめぇが次席指揮官か?」
「あの……、はい。多分……そうだと思います。一番下ですけど、下士官です……」
「他は全部やられたってのか!」
船長が怒鳴り付けるように問うと、少年はそれだけで泣き出しそうになってしまう。
ユミルが少年の傍に寄ると、優しげに肩を撫でて船長を睨みつける。
それこそ、まだ幼い少年を注意する様な、母親の様な怒り方をした。
「こらこら、生き残ったのがこの子だけなのは、怒られる事じゃないでしょ」
「怒っちゃいねぇよ! 嘆いただけだ!」
「だったら、それらしく見せなさいな。いま一番困ってるの、多分この子よ」
そう言ってユミルが肩を抱いてやると、少年はより一層恥ずかしそうに肩を竦めた。
「いっちょ前に照れてんじゃねぇ! 他に使える奴がいねぇなら、お前が責任取って船を動かさなきゃならねぇんだ! シャキっとしろ!」
「ぼ、僕がですか……!?」
「他にいねぇんだ、そうするしかないだろう! すぐにこの海域から離れなきゃならねぇ! ――危険だ!」
危険、の一言で少年の肩がビクリと震える。
それに釣られる様にして、周囲で事の成り行きを見守っていた水兵達にも動揺が走った。
「き、危険なんですか……!? 魔物は全て倒したんじゃ……!」
「倒したもんか。生き急いだ奴が、勝手して船に乗り込んで来ただけだ。少しでも賢い奴はな、そもそも船や
「じゃ、じゃあどうしたら……!?」
「だから、逃げなきゃ始まらねぇ。先走った奴らが全滅した、そんなのは嫌でも気付く。再び襲い掛かられるのも、時間の問題だ」
少年の顔からみるみる内に血の気が引き、顔色が真っ青になっていた。
事態を飲み込めないだけでなく、非情な現実を受け入れられないと告げている。
「で、でも、魔物は群れていても、軍隊みたいに動いたりしないんじゃ……? し、知られたからって、襲って来ますか……!?」
「当然、襲って来るだろう。奴らは軍隊じゃないが、群れているには違いない。仲間を殺されたら報復を狙う。当たり前の話だろうが?」
「じゃ、じゃあ、応戦準備を……!」
少年は幼くとも軍人だった。
その場で蹲り、嵐が過ぎ去るのを待とうとはしていない。
マニュアルに即した動きを取ろうとしているのは分かるが、それではいけなかった。
船長は凶相に笑みを浮かべる。
この幼い少年将校は、震えながらも己の重責を理解し、それに励もうとしていた。
足りない経験ながら、必死に打開しようと賢明になっている。
そうした心意気を持つ男は好ましい。
船長はこの少年将校を好きになり始めていた。
「おい少年、名前と階級は?」
「ハッ! シャープ・ケスエフ少尉であります!」
「結構だ、少尉。これからお前がすべき事を説明する。――傾注!」
シャープが両手を真っ直ぐ太腿に沿わせ、踵を鳴らして背筋を伸ばす。
すると、他の水兵も同様に倣って態度を改めた。
「まずお前がする事は、あそこの役立たずを船長室に閉じ込めることだ。何をするか分からねぇ、無能の上官こそがお前たちを殺す。――分かるか?」
「ハッ、よく分かります!」
「結構。次にやるのが怪我人の搬送だ。あの嬢ちゃんが凄腕だとしても、刻印には限りがあり、全員を診るのは無理だ。戦力外はいるだけ邪魔になる」
「はいっ!」
シャープはこれにも首肯して、元気よく声を張り上げた。
船長も機嫌よく頷き返すと、船全体に響き渡るような大声で続ける。
「魔物は次に船を――船底を狙う! 水中に引っ張り込もうとするだろう!
「はい! しかし、速度において勝る相手からは……に、逃げられると思えません!」
「備えは!? 海中の敵に作用する、刻印部隊は用意されているか!」
「う……よ……、用意されておりません! 今回は遠洋訓練の予定はなく、近海を一周して、新兵ばかりで無事帰って来ることを目的としておりました!」
これは半ば予想できていた答えだった。
新兵以下の動きしか見せていない時点で、どういう集まりか分かろうと言うものだ。
そして、陸から僅か二日の距離で遭遇する魔物といえば、小粒の敵ばかりと相場決まっている。
群れで襲って来る魔物は、もっと遠くまで足を伸ばさねば出会わない。
それこそ、巨公の鯨とでも遭遇していなければ、この様な事態は起こり得ないのだ。
そして、それを予想していないのは当然で、到底咎められる事ではない。
「なら、やる事は決まりだな! 魔物の亡骸を俺の船に移せ! 即座にだ!」
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