海難救助 その2
レヴィンは憤慨したい気持ちを胸の奥に仕舞って、苛立たしく息を吐いた。
海軍の蛮行が気に入らないからといって、口出しする権利はない。
そういう世界もあるのだと知り、反面教師とする他なかった。
レヴィンが明らかに不満そうにさせたのを見て、船長は凶相を歪めて笑う。
「気分悪くしたかい。それじゃあ、悪くしたついでに、もう一つ教えてやろうか」
「……まだ、何かあるんですか?」
「言う奴が言うには、軍船ってのは牢獄以下なんだそうだ。マトモな奴なら、海軍に入るより囚人を目指せってのは、いっそ至言だと思うぜ」
「戦うことなく死んでいくからか……」
軍人として、兵として、最も求められることは、大義の為に戦うことだ。
それすら与えられることなく、劣悪な環境で死んでいくだけならば、何のために軍へ入隊したかも分からない。
多くは志願でなく徴兵であると言うなら、その志すらないだろう。
ただ無念の中で死んでいくことを思い、レヴィンはやるせない気持ちになった。
しかし、船長の答えは、それともまた違うものだった。
「船っていう密閉した空間で、強制労働の中死んで行くのも、そりゃあ残酷だと思うぜ。けどよ、問題はその後さ」
「後……?」
「死体が出るんだ、船の中でな。どうなると思う?」
「まさか……」
おためごかしとはいえ、軍人という身分を与えられた者なのだ。
祖国の土で眠れてこそ、安寧の死を迎えられる。
だが、大量の死体が出る前提で航海するのなら、その処理は……。
「海に……、捨てられるのか?」
「いやいや、流石にそこまで非道じゃねぇよ。魔物に追われ、万策尽きた場合、撒餌として使われる場合もある……が、それだって最後の手段だしな」
「最後の手段だとしても、そんな使い方、許して良いものなのか……!」
「全滅するよりはマシ、そういう理屈だ」
これには船長も気を悪くしているのが分かった。
不機嫌そうな表情を凶相の上に浮かべ、不快げに鼻を鳴らしている。
そして、レヴィンはそれ以上に不快に思っていた。
もしも、隣にいたロヴィーサが、そっと肩へ手を添えていなければ、感情を行き先を見失っていたかもしれない。
「だが、実際はきちんと、死体は本国まで輸送されるのが殆どさ。せめて遺体だけは、丁寧に埋葬してやろうってな。その心意気こそ買うがね……」
「そもそも、殺すなって話だろう」
「そりゃ、その通り。何より問題なのがよ、死体は安置しておくべきって考えなんだよ。船倉の下に置かれるわけなんだが、……死体ってのは腐臭を放つ」
「それは、そうだ……」
「食い物は駄目になるし、病気の原因にもなる。それで体調崩してそのまま……って奴も多い。持ち帰るのが当然とはいえ、それで死体が増えるのなら、果たして本当に正しいのかどうか……」
そもそも、戦闘以外での死亡を出さなければ良い。
事故による死亡は、船の上で付き物かもしれないが、必要以上に発生してしまうシステムこそが問題だ。
ルールを変えなければ意味がない。
そして、変えられる者がいるとすれば、それは国の中枢近くにいる人物だ。
外様のレヴィンは勿論、忸怩たる思いを抱いている船長もまた、厳しい顔をさせるしかないのだった。
「んぁ……? あれは……?」
レヴィンが難しく考え込んでいた時、船長が前方を睨んで声を上げた。
その声に釣られて顔を上げると、遥か前方に不自然な波打ちが立っていた。
そうかと思えば海中から何かが突き出して来て、盛大に波しぶきを上げる。
山と見紛う程の巨体が、海中から身体を出したのだと、その次の瞬間に分かった。
「な、なんだぁ……!?」
魚にも似た、しかしそれとは決定的に違う海の生物が、海から身体を突き出し、そして背中から倒れていく。
その衝撃で、更なる飛沫と共に波が生まれた。
幸い、船を呑み込む様な津波でこそないものの、波打った海は船を持ち上げ、次に急下降する。
「うぉぉぉ……!?」
船が波の頂点を跨ぐと、次に来るのは波に沿った降下だ。
一つの波を潜り、また更なる波から身を守ろうと、レヴィンは手摺へ必死に掴まった。
「気を付けろ、皆! 振り落とされるな!」
「おう、任せとけ!」
「アイナさんはお任せを」
「ひぃぃぃん……!」
ヨエルは自分で自分の世話は出来るし、ロヴィーサに至っては、アイナの面倒を見る余裕すらあった。
しかし、その中でアイナだけは、半泣きで手摺にしがみ付いている。
神と神使はどうだ、とレヴィンは視線を移すと、そこには手摺に凭れ掛かるだけで、全く無防備な姿で波に備えていた。
歯牙にも掛けない余裕の表情で、これを危機とすら認識していない。
掛かる波飛沫を鬱陶しそうにしているだけだ。
この者達については、普通の尺度で心配する必要などないのだ。
レヴィンは認識を改めつつ、叫ぶように問いかけた。
「あ、あれは何なんですか!?」
「泊まった宿屋の名前になっていただろう? あれが『巨公』と呼ばれる鯨だ。滅多に見られるものじゃないぞ、ツイてるな」
「言ってる場合ですか!?」
ただ海面から顔を出しただけで、船が転覆し兼ねない波を生む。
実際、船の進路上から波が来たから、上手く乗り上げることが出来ていた。
横から波を受けていたら、それだけで転覆していたとしても、全くおかしくはなかったのだ。
「だ、大丈夫なんですか、これ……!?」
「大丈夫たぁ、どういう意味だ!?」
船長が取り舵、面舵、と忙しく操舵しながら、顔だけレヴィンに向けていた。
その凶相を歪め、大胆不敵な笑みを見せる。
「大丈夫に決まってらぁ! この程度の波、荒波の内に入らねぇよ! こちとらは荒れ狂う波と雷雨の中、何度も無事に航海を成功させて来たんだ! この位ぇで、どうにかなるもんか!」
「大変、心強いお言葉ねぇ」
ユミルが飛沫で濡れた前髪を掻き上げながら、緊張感のない声音で囃し立てた。
そこに船長の怒号が被る。
「お前ぇはいいから、こっちに魔物を近づけさせねぇでくれ! 右舷を見てみろ! 巨公の出現で触発されたか、波で揺られて機嫌悪くしたんだか、こっちにやって来そうだぜ!」
「はいはい、お任せあれ」
「――お前ぇら、気合入れろ! これから右舷に避けて、巨公をやり過ごす! 振り落とされねぇで、しっかり働け!」
「オォーッ!」
荒波に揉まれて来た、と言った船長に嘘はなかったらしい。
水夫たちは、このいっそ絶望的光景を見ても、全く先行きを諦めていない。
それどころか、船長の声に従って、マストを整える為に登ったり、大波に備えた行動をそれぞれ自主的に行っていく。
わざと針路を魔物の群れへ向けるのは、巨公が進もうとする方向に舵を切れないからだ。
本来なら大きく転進して、また別の機会を窺う場面なのだろうが、ここにはそれを覆す別の要素がある。
「さぁ、貴婦人のお通りだ! 道を開けやがれ!」
波で大きく上下へ揺れる甲板にあって、ユミルの足取りは確かだった。
水夫でさえ揺れる船の動きに対応しようと、手近な物に掴まったり、ロープに掴まったりしている。
だというのに、ユミルは平地を歩くかのような気軽さだ。
それはまさしく、貴婦人の歩みと言っても違いなかった。
舳先へ辿り着くと、やはり無防備な体勢で横向きに座る。
一つ間違えれば海の底だが、誰もその事を指摘しない。
して意味ある助言ではないのだと、そこへ辿り着く歩き姿を見て、思わなくなったのだろう。
レヴィン達はといえば、態勢を低くして、手摺を掴まって見守る事しか出来ない。
巨公は特別、何かをしようと浮かんで来た訳ではなく、こちらを襲い掛かろうともしなかった。
その姿が、いっそ不気味ではある。
何を持って出て来たのか、襲って来ないのか、レヴィンは気が気でない。
それこそ、波を生むだけで船を転覆させられそうな魔物だ。
体当たりなどされたら一溜りもない。
「あんなに巨大なら、武器の攻撃なんて、それこそ意味がない!」
「押し退けるのも、躱して避けるのだって無理だ! どうするんだ!?」
レヴィンが半ば狂乱して叫ぶと、それに呼応するようにヨエルも叫ぶ。
これが陸地ならば、と思う。
陸戦ならば、レヴィンも善戦してやる気持ちになるし、勝ち筋が見えるまで諦めたりしないだろう。
しかし、周りは逃げ場のない海であり、そして足場は魔物の一撃で砕ける脆い船なのだ。
侮辱する訳ではないが、現実問題として、巨公がその気になれば、どれだけ立派な船でも大破は免れない。
レヴィンは事ここに至って、自分達がどれだけ脆い足場で戦闘せねばならないか、ようやく自覚した。
己の力量とは関係ないところで、勝敗が決する。
足場を崩しさえすれば相手の勝ち、という勝負は余りに理不尽だった。
だが、そこにミレイユから、実に静かな声音で注釈が入る。
「あまり、そう騒ぐな。大丈夫だ、あれは襲って来たりしない」
「本当ですか……!?」
「そうとも。単に、呼吸する為に浮上して来ただけだ。あぁして背中から落ちる程、大きく海面から顔を出すのは珍しいが、敵意はない。身体に張り付いた、別の魔物を振り落とす為の行動、なんて言われてるが、実際の所は分からないしな……」
「ミレイユ様でも分からない事があるんですか……」
レヴィンがぽかん、とした顔で言うと、楽しそうに笑う。
「無論、あるとも。いずれにしても、こちらから攻撃しない限り、大人しいものだ。あちらからすると、寝返り程度の動きで、勝手に沈没されるようなものだろう。気に掛けてすらいない」
「そういうものなんですね……」
「実際の問題は、大量の魔物と遭遇してしまう方だろう。だが、それもユミルが上手くやるしな」
見ると、魔物との遭遇は間もなく、という距離まで来ていた。
ユミルは相変わらずの余裕で、舳先に座っては鼻歌でも歌っていそうな雰囲気だ。
魔物からも、近付いて来る船にはとっくに気付いていただろう。
魚類系の魔物が一斉に顔を向け、威嚇するように声を上げた。
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