貴婦人の道 その8
「まぁ、そりゃあなぁ……!」
船長はユミルの失笑めいた台詞を、豪快に笑い飛ばして続けた。
「人を乗せるのはともかく、船に女を乗せるってのは、そりゃあ嫌がるもんだ。しかし、預けられた荷は一つか二つ、ろくな稼ぎになりゃしねぇ。貯金もないから、自分で手頃な貿易品も扱えねぇ。こうなりゃ選んでいられねぇってんで、乗せてやったのさ」
「ですが、どうして女が乗るのを嫌がるのでしょうか? 迷信でもあるのですか?」
ロヴィーサの素朴な疑問には、ユミルから応えがあった。
「男ばかりの船に、女が一人入るのよ。何が起きるか分かろうってモンでしょ」
「……何が起きるんです?
しかし、それで即座にピンと来るほど、ロヴィーサも察しが良くなかった。
小首を傾げた所に、呆れた溜め息と共に続きが返った。
「だから、
「あ、あぁ……。そういう……」
「言っとくけど、結構笑い事じゃないからね。全員を等しく袖にするならともかく、少しでも気があるフリをすると、我も我もと押しかける。……船上っていうのはね、秩序と治安が大事なの。統率を喪った船は、まともに動かない。統率するのも簡単じゃないしね」
「まぁ、ユミルはその辺、よく弁えてたから大事にはならんかったが……」
その時の光景が目に浮かぶようだ。
ユミルは確かに絶世の美女と言って良いが、高嶺の花な所がある。
一度袖にされたら、男も尻込みしてしまうだろう。
そして、その状態を堅持できたから、船長もそれを信じてまた乗船を許可してくれたのだろう。
「しかし、それがケチの付け始めってヤツだ。波に煽られ、航路から外れ、風に流され、本来とは全く違う方向に行っちまった。元の航路に戻るしかねぇが、そうすると食糧が足りねぇ。只でさえ、ないに等しい積荷の仕事、これもまた間に合わねぇ。二度も続けて契約違反、これじゃ仕事は続けられねぇっと来たもんだ」
その時のことを思い出してか、船長の肩は落ち、今にも泣き出しそうな顔をした。
「生きて帰ろうと思えば、勿論、航路を戻すしかなかった。だがそれは、期日までに荷を届けられねぇことを意味した。また仕事に失敗したら、海賊にでもなるしか道はねぇ。だが幸い、流された方向は、荷下ろしする町方向ではあった。外海を突っ切るか、あるいは戻るか、そういう選択に迫られた……!」
「そ、それで……?」
すっかり話に入り込んだヨエルが、身を乗り出して聞きに入っている。
その手は固く、手に汗握っているのが良く分かった。
「外海を突っ切れば、予定より早く到着するくらいだった。だが、外海は魔物の楽園だ。広い海じゃ点のようでしかない魔物もよ、獲物を見たら、これ幸いと襲い来るもんさ! 腕っ節が幾ら強くてもよ、船に穴開けられたらどうしようもねぇ。突っ切るわけにはいかなかった!」
「でも、突っ切った……! そうなんだろ!?」
「そうともよ。俺にはそうするしか、もう道はなかった。信用なくして海賊に落ちるのも、一つの手ではあったろう。だが、俺ぁ……俺には、妻も娘もいる。今の安全な暮らしを捨てられねぇ。俺は一端の男でありたかった、あいつらに誇りある父と夫でいたかった……!」
「そうだろうよ! 男ならなぁ、犯罪やって得た金で、飯食わせたくねぇよなぁ……!?」
「だから、外海を突っ切ることにした! 逃げ切る為に必要な刻印だってある! だが、問題は数だ。逃げ切る間に全て使い果たしたら……? それこそ、海の藻屑になりかねねぇ……!」
船長の舵を切る力が、いや増しに増す。
当時のことを思い出した舵切りが、そのまま表面に現れているかのようだ。
「だが、こいつを乗り越えねぇと俺に先はねぇ! やってやる、やるしかねぇって奮い立った!」
「おぉ……!」
ヨエルが両手の拳を握る横で、いつの間にかレヴィンも加わっている。
二人揃って船長の話に聞き入り、すっかり反応の良い、聞き手に嬉しい聴衆となっていた。
「だが、あぁ無情……! 魔物の一体は凌げても、次の一体、更に一体、出現する魔物数は増える一方だった。ただ逃げるだけの船が獲物だと、魔物たちも理解してたんだな。後方から追いつこうとする奴らだけじゃなく、前方からも次々と姿を現した!」
「万事休すか……!?」
「普通ならそうだ! だが、そこでやって来たのがユミルよ!」
「いよっ、待ってました!」
ヨエルが合いの手を入れると、船長は俄然良い顔をして、抑揚を付けて場を盛り上げては語り上げる。
「悠々とした足取りでよ、そりゃあ美しいもんだった……! 周囲じゃ忙しくマストを調整する水夫がいるし、魔物を払い除けようと船の周囲じゃ刻印が放たれて、そこは戦場そのものだった! 逃げる場所もない、船倉の奥に篭っていた方が、まだ安心ってもんだ!」
「そりゃ危なっかしい!」
「だが、そういう世界とは一切、関わりないって感じで、自分ひとりの世界を歩いているかのようだった! ……それで、ユミルは一体どこ行ったと思うよ?」
「……え、うーん……、何処だろうな? 攻撃に参加しようとした、とか? 船尾とかに」
丁度、自分たちのいる所だろうか、とレヴィンは周囲へ目を向ける。
しかし、船長は大袈裟な動作で首を振った。
それから指先一本立てて肩を上げると、そのまま船首部分を指差した。
「ユミルは何を思ってか、あの舳先……船首像まで歩いて行ってよ。丁度、その真上辺りに座りやがった! あの先端から突き出てる棒の辺りだぜ? まるで椅子に腰掛けるみてぇによ、横座りに風を受けてんのよ!」
「すげぇ、何のために……!?」
「俺ぁ……、気が触れちまったかと思ったね! しかしだ、それからというもの、どうにも魔物の動きがおかしい。攻撃が散漫になり、遂には近付こうとしらしなくなった!」
「何でだよ……!?」
ヨエルが前のめりに訊き込むと、船長は横顔だけを向けてニヤリと笑った。
「それこそ狙いだったからさ! ユミルの姿を見るなり、魔物どもは一斉にやる気を削がれた! 前方から向かって来た魔物は、その道を譲ったぐらいだ。次々と同じように倣うもんだから、海には遂に、一本の道が出来た!」
「お、おぉ……!」
「我が道を行くが如しだ! 俺にはそれが、まるで魔物が頭を垂れているように見えたね! 譲る事によって出来る、貴婦人の為の道だ!」
「すげぇ……!」
ヨエルが少年心を全開に、素直な感嘆を見せるものだから、船長も大いに気を良くした。
当時を振り返って、目の端には涙さえ浮かんでいる。
「お陰で俺は三日も早く、荷を届けられた……! 荷主には感謝されたし、評判も戻った。俺の舵捌きは天下一って煽てられたりしてな……。お陰で、俺は再び真っ当な道で、仕事を続けられるようになったのさ」
「いや、良かったなぁ。……てことは、ははぁ……、それがつまり……」
「そうとも、『海の貴婦人』と名付けるに、これほど相応しい逸話があるか? 舳先に座ってるユミルも、また美しくてよ……! 魔物が迫ってくるのなんざ、まるで見えてねぇって感じで、髪を風に靡かせて……」
感動を噛み締める様に顎を上げ、それから万感の溜め息と共に顔を戻した。
「俺にとっちゃ、幸運の女神そのものよ。だから、頼まれたら断れねぇ! 今回も急ぎだって言うから、外海を突っ切る航路を取る。――ユミル、今回も期待して良いんだよなぁ!?」
「良いわよぉ。そのまま、突っ切っちゃって」
「へへっ……! 実はよ、今回もまた見られるんじゃねぇかと思って、それを期待して乗せてんだ。頼むぜ、俺の女神……!」
「アンタに拝められちゃ、女神だって裾捲って逃げ出すでしょうよ。けど、アタシになら許すわ。危険なんて、裸足で逃げ出す航海を約束してあげる」
「へっ! そうこなくちゃよ! おい、野郎ども! 気合入れろぉ! 今回はいつもより、ちっとばかしスリリングだぞ!」
『オォォォッ!』
水夫達から気合の乗った返事があって、船長も機嫌が良い。
そこへレヴィンが彼の斜め後ろに立ち、しっかりと頭を下げた。
「すまない、俺はあなたの事を誤解していた。見た目の凶悪さもあって、ろくでもない人物だと……! そんなに熱い思いを持ってる人だとは……!」
「まぁ、見た目の悪さは自覚してるから、それは良いけどよ……」
「てっきり、ユミル様に色目を使うゲス野郎かと思ってた。俺は自分が恥ずかしい……!」
「意外と言うな、小僧……。反省してんのか、それとも貶してぇのか? どっちか一つにしてくれねぇかな……?」
「いや、すまない……!」
今度は素直に謝罪だけして頭を下げる。
船長はそんなレヴィンを見て、それからユミルに皮肉げな視線を向けた。
「……にしても、ユミル
「そんなワケないでしょ。今までもこれからも、貴族になる予定なんかないわよ」
「だよなぁ? お前が貴族ってんなら、俺は王族にだってなれるぜ」
「――レヴィン、そいつ殴って」
言われるままに後頭部を殴りつけ、予想以上に重い音が響く。
操舵輪から手を離しそうになり、船長は目の端に涙を浮かべながら声を張り上げた。
「何しやがるんだ、バカみてぇに力入れやがって! 何で殴った!?」
「いや、殴れと言われたもので……」
「お前、俺が船長だって分かってんだろうな!? 船の全責任を持つ、この俺に手を上げるってのは、本当なら重罪だ! お前は王様を殴れ、と言われたら殴るのか!?」
「いえ、そこまでの方とは存じませんでしたが……。でも、ユミル様の命令を無視すると、後が怖いので……」
「レヴィン……? 何が怖いのか、後でじっくり聞かせて貰いましょうか……?」
「とんでもございません!」
レヴィンが背筋を伸ばして返事すれば、船長からボソリと小声で囁かれる。
「なるほど、おっかねぇ……」
「……でしょう?」
「聞こえてるわよ」
呆れた声がレヴィンに届いて、背筋を伸ばしたまま体中に力をいれる。
ミレイユは一連の流れを見て、声に出さず笑っていた。
どちらの反応も怖くて振り返れず、直立したままの姿になる。
ユミルに顔を向けた船長は、静止すること数秒、ゆっくりと顔を戻して正面を向いた。
「ナニモノなのか、これまで深く考えて来なかったが……。これからも考えない方が良さそうだな」
「賢明です」
レヴィンの声は波に流され消えていったが、ユミルの耳にはしっかり届いていたようだ。
声を上げていないというのに、レヴィンには彼女が深い笑みを浮かべているのが手に取るように分かった。
結局、振り返る勇気も出ないまま、レヴィンは船に揺られるに任せた。
ヨエルが隣で肘を突っ付き、非難する声を上げるものの、今となっては時すでに遅しだ。
青い空に、白いマストは良く映える。
背後を振り替えられないので、ひたすら空へと視線を向けた。
それが僅かな平和な時間だと理解していても、今だけは逃避せずにいられなかった。
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