貴婦人の道 その7

「さぁて、ボチボチ良いとこだろう……」


 船長が操舵しながら、周囲を見渡してそう言った。

 現在、船は湾港から離れ、周囲に他の船の影はない。


 船にはそれぞれ航路があり、決められた通り、それに沿って進むものだ。

 だから、海がどれほど広かろうとも、各々好きに船が散らばることもなかった。


 手広く貿易をしている湾港都市と言えども、最初の目的地はそれほど多くない。

 大抵は二手か三手に別れる程度のもので、考えなしの方向へ進むなど有り得ないのだった。


 何しろ、水や食糧などの補充なくして、船は動かせられない。

 直進する方が距離的に近いと分かっていても、一切の補充なしに到達できないと分かるから、遠回りであろうと陸地沿いに進む。


 だから強い風の吹く外海へ出て、そこで風を掴んで距離を稼ぎ、また陸地へと戻るのだ。

 航路としては半円を描くような形になり、遠くの地を目指すほど、その半円の回数が多くなる。


 レヴィンはそうした常識を一切知らない身だが、他の船が連なって、続々と左右へ散るのを見て、それが普通の事だと悟った。

 そして、自分の乗る船だけが違う方向を目指していると、同時に知る。


 船の大きさは、それぞれ違う。

 個人用と思しき小さな船もあれば、十人乗り程度の船もある。


 こちらのガレオン船が小船に思えるほど、巨大な船まであった。

 大抵は船団を組んでおり、たった一隻で進む船など見受けられない。


 そして、そのどれもが、自分達が乗る船と同じ航路を進んでいなかった。

 何故、この船だけ明らかに違う航路なのか……。

 一抹の不安が胸をよぎったその時、船長が大きく声を張り上げる。


「帆を下ろせ! 全開だぁッ!」


 それまで五分開きだったマストの帆が、勢い良く下ろされる。

 帆を縛る縄をマストに登った水夫が、手作業で行う様は、見ている方がヒヤヒヤする程だった。


「ただでさえ、揺れる船上だ。しかもあれ程の高所となれば、相当危険な作業だろうになぁ……」


「ヨエル、それだけじゃありませんよ。高所の作業は受ける風の強さも、揺れの強度も違って来ますでしょう。見ている程に、簡単な作業ではないと思われます」


 ロヴィーサの私見は、正鵠を射ているように思われた。

 船上から離れて上に行くほど、揺れの影響は強くなるのだ。


 甲板では僅かな傾きでも、遥か頭上で受ける傾きは、何倍にも変わることだろう。

 それでも臆せず、自らの仕事を真っ当する水夫に、レヴィンは敬意の感情が湧き上がった。


「大したものだ。あれを身一つでやってたら、命が幾つあっても足りなく思える」


「それを言ったら、淵魔だって相当ですよ、レヴィンさん」


 アイナはレヴィンたち三人へ、尊敬と畏怖が込められた視線を送った。


「あれと正面から何度も戦ってたら、命が幾つあっても足りません」


「それもそうかもな」


 レヴィンはそう言って、からりと笑う。


「我が事になると、すっかり分からなくなってしまうが……。確かに、普通の人から見ると、何度となく討滅し続けてては、命が幾つあっても足りないか」


「なんでぇ、そっちの小僧たちは冒険者か!」


 船長が笑って横顔だけを向ける。


「そりゃあ、命の掛け方が違うだけで、どっちも恐ろしいものを相手にしてるに違いないだろうよ! こっちは時に女神にも、そして荒ぶる神にもなる、海って厄介なのが相手だ」


「微笑み掛けてくれるコトがある分、魔物よりかはマシかもね」


 ユミルが言い添えると、船長は機嫌を良くして笑った。


「違ぇねぇ! ま、こっちも魔物と相手する事が、ないわけじゃあねぇがな!」


「海の魔物か……。戦った事がないから、勝手が分からないな……。巨大な魚とか襲ってくるのか?」


「まぁ、そりゃ色々さ。こっちは基本的に戦わず、逃げるのを優先だ。刻印も、そうしたモンがメインになってるしな」


 ほぉ、と半ば感心した様に息を吐き、それから手摺の外へ顔を向ける。


「まぁ、戦えと言われて、泳ぎながら武器を振り回すわけにもいけないものな」


「そうとも! いっそ船に乗り込んで来るような輩なら、袋叩きにしてやるんだが!」


 船長が豪快に笑って、それから大きく舵を切る。


「こっちは船底に、穴を開けられた時点で負け、みたいなもんだ。分が悪すぎらぁな! それなら最初から、追い返すか、逃げ切る方向で動いた方がマシだ」


「そりゃ、確かにそうだよなぁ……。馬車を守りながら戦うってのとは、全く勝手が違うだろうしよ」


 ヨエルが悩ましげに唸ると、これにも船長は豪快に笑う。


「小さな穴でも開けられたら、水夫全員が道連れよ! なるべく陸路近くに航路が走ってんのも、船団を組んで移動するのも、そうした場合すぐに逃げられるように、って安全策でもあるのさ!」


「確かに、他の船は船団を組んでいましたよね。それに、港から出てから、陸沿いに二手へ分かれていたようでした」


 ロヴィーサがその時の事を思い出して頷いていると、隣のアイナが首を傾げる。


「だったら、どうしてこの船は真っ直ぐ、海を目指したんでしょうね? 船団なんて組んでませんし……、危険はないんでしょうか?」


「危険だぁ? なに眠たいこと言ってやがる! あるに決まってんだろ!」


 恐怖や不安など、おくびにも出さず、船長は黄色い歯を剥き出しに笑った。

 それから、強い期待を感じさせる視線を、ユミルへと向ける。


「ユミルは俺にとっちゃ、幸運の女神そのものさ。『海の貴婦人号』……この船の名前だって、こいつから取った名前なんだぜ?」


「貴婦人……」


「海の……」


 レヴィンとヨエルから同時に視線を向けられ、ユミルは手摺に身を寄せたまま、斜に構えて首を上げる。


「何よ? 言いたいコトがあるなら、さっさと言いなさいな。聞くだけ聞いてあげる。そのあと思いっきり、ボコるけど」


「いえ、まさか! 異論なんて!」


「大変、よくお似合いです!」


 その時ばかりは、レヴィンとヨエルは手摺から手を離し、背筋を伸ばして返答した。

 三人のやり取りを横目で見ていた船長は、最早クセになりつつある、豪快な笑みを飛ばして言った。


「ウチの若い奴らを思い出すぜ! 船に女が乗り込むのは、そりゃあ嫌がるモンだ。女は港、男は船。男は外に出る、金を稼ぐ……そういうモンだ! そして女は家を守る、帰り受け入れるのってのが仕事だ」


「そうでしょうか……。共に戦い、共に守り合う女がいても良いと思いますが」


 ロヴィーサが珍しく不満を顕にすると、船長は大いに頷いた。


「そりゃあ、そんな女がいたって良いだろうさ。冒険者なら、尚更そういう気風が強いだろうよ。だが、ここは海だ。海には海の仕来たりや、やり方がある」


「昔からの慣習みたいなモンだからねぇ……。そこはケチ付けても仕方ないのよ」


「それは……、分かりますが……」


 ユミルからやんわりと諭されても、ロヴィーサは尚も納得し辛い様だった。

 女を理由に排斥される常識が、彼女にとっては受け入れがたいのだ。


 実際、ユーカード領において、男尊女卑の風潮は皆無だ。

 むしろ、女は偉大で敬うべき、という雰囲気さえある。

 それは戦闘力に差がない部分から来るものでもあり、基本的に魔力総量は男性に比べ、女性の方が多いものだ。


 戦闘に向いた性格をした女性が少ないせいで、兵士に志願する数こそ少ないが、一度兵士になった女性は、下手な男性よりも余程強い。

 ロヴィーサが、その良い例だ。


 初代ユーカードを支えた妻三人も、どの男より強い戦士だったと伝えられる。

 更に三代下り、初代から数えて曾孫に当たる子孫には、非常に有名な女傑がいた。

 『東壁の女主人』、『麗傑剣豪れいけつけんごう』などと呼ばれ、初代ユーカードを彷彿とさせる、とまで言われた。


 領民と兵、そして臣下から、多く頼りにされたと評される。

 レヴィンのみならず、ユーカード家に連なる人間ならば、それらは寝物語として聞かされるものでもあった。


 だから、ロヴィーサはそうした先人を敬うと同時に、自身もまた己の強さや価値について、多大な希望を抱いている。

 だが、そうした事情までユミルは知らない。


 とはいえ、言葉の端々から捉えられる雰囲気、というものがある。 

 それを敏感に察知した彼女は、場を和ますつもりで声で掛けた。


「ま、別にアンタを貶して言ったものでもないわけだしさ。アタシ達でさえ敬遠されてた、っていうんだから、筋金入りだって分かるでしょ?」


「はい、確かに……」


 素直に首肯してから、ロヴィーサはふと思い立って眉根を顰める。


「ですが、それならどうして、今は受け入れられているのですか?」


「つまりそれが、『海の貴婦人』たる所以よ!」


 船長はユミルへ顔を向けるなり、熱意の有り過ぎる視線を注いだ。


「ある航海の時だ。一つ前の仕事で、俺ぁ大ポカしちまった。大時化の兆候があったのに、強行して進んだのさ。案の定やられちまって、船体はメインマストが損傷しちまうし、それで航海は遅れに遅れた。沈まなかっただけでも御の字だが、期限を守れず違約金を払う破目にもなった。そのあと船はドッグ入り。修理で貯金も全て尽きた!」


 たった一つの判断が、儲けに大きなキズを作る、船乗りでは在り来りの話だ。

 それが船長の身にも降り掛かった、という事だった。


「散々な目に遭ったさ。俺には金が必要だったが、一つ失敗したら次の挑戦をくれるほど甘い世界じゃねぇ。荷を預けようって相手はいなくなる」


「安全、確実に運んでくれないと、預ける意味がないものねぇ」


「そういうこった! だからこの際、何を載せても良いから、とにかく船倉を埋めたかった。その時、載せて欲しいと言ってきたのが、そのユミルよ」


「最初は断られたけどね」


 ユミルがはんなりと笑うと、その時の光景が浮かび上がったのか、ミレイユも釣られて笑った。

 更に笑みが伝播して、機嫌良くした船長は、そこからまた饒舌に語り出した。

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