貴婦人の道 その6
至れり尽くせりの持て成しを受けた宿での暮らしは、大方の予想通り、昼より少し前で終了となった。
船主にとっての商売とは、客を乗せるだけではない。
積荷を収容し次第の出発となるから、客がその時間に合わせるのが主流だった。
「世話になったわ。短い滞在で済まなかったコトね」
高級宿は旅宿とは違う。たった一日で済ませる方が珍しい。
その上、ユミルの上から見せる態度は、本来なら良しとされないものだ。
しかし、彼女がやると妙に様となるから不思議なものだった。
「いえいえ、とんでない事でございます。またのご利用、お待ち致しております」
また、オーナー自身が出迎え、そして良しとしているので、誰が文句を付けられるものでもなかった。
その様子を窺っていた利用客も、二人のやり取りを見れば、互いの間にそれを許されるだけの関係がある思う。
昨日の様な、無礼な態度で突っ掛かる様な客など、今はどこにも見えなかった。
そうして、オーナーとその従業員に整列して見送られ、レヴィン達は宿を出る。
「なぁ、若……。何だか落ち着かねぇなぁ……」
「俺だって落ち着かないよ。いいから、今は前だけ見てろ」
貴族と言えど、自領においては、親密な関わり合いの方が多かったレヴィンだ。
まるで王族に対する礼儀をされると、むしろ恐縮してしまう。
そこの所を言うと、ユミルは全く臆した様子がないのは流石だった。
ミレイユや、その他神使なども言うまでもない。
されて当然、という態度が、周囲で見守る見物客も声を掛けられない理由だろう。
悠々と歩き去るミレイユ組の後ろを、レヴィン組が付いて行く。
窮屈な空気が払拭されて、ホッと息を吐いて、目的地まで移動する。
そうして港方向へ歩を進めて行くと、巨大な湾港が見えてきた。
「おぉ……!」
荷の積み下ろしを盛んに行われている光景が目に飛び込み、市場とは別種の、漲る様な活気に溢れていた。
それは、この場にいる多くが商人ではなく、水夫であるのも関係しているだろう。
何かを話す声よりも、怒号の方がよく飛び交っていた。
「何やってんだ、さっさと運べ!」
「落とすなよ! お前の給料より、何倍も高額な品だぞ!」
「チンタラしてんな! それはこっちじゃねぇ、あっちだ!」
一分一秒も無駄に出来ない彼らだから、言葉遣いも乱暴なものだ。
物珍しさに惹かれて余所見しながら、レヴィンは後を付いて行く。
そうして辿り着いた先には、見事なガレオン船が停泊していた。
積荷の確認は最終段階に入っていて、乗り込む人員を締め切ろうとしている。
彼らは乗客が揃うまで待つ、などという上品な事はしない。
船は荷を乗せるものであって、客を乗せる方がオマケみたいなものだからだ。
主な稼ぎは荷を乗せる運賃料であったり、貿易によって利益を出す。
船で働く水夫であろうと、自分なりに小さいながら貿易していたりするのが普通だった。
副収入として破格になるだけでなく、物を選べば主収入を超すこともある。
そうした商取引が盛んなので、市場の賑わいが大きかったとも言えた。
だから、単に乗って移動するだけの客は、邪魔と思われる風潮さえあるのだ。
しかし、やはりここでもユミルが持つ、顔の広さが物を言った。
「はぁい、船長。お待たせしたかしら?」
「おぅ、待ってたぜ。お前さんじゃなきゃ、張り倒すか、無視して行っちまうところだ!」
あら、と声を上げて、ユミルは笑う。
「アタシがアタシであるコトに感謝しなきゃ。……で、こっちが、昨日言っといた乗客よ」
「あぁ、大丈夫だ、問題ねぇ。まぁ、狭い船だ。快適な旅とは約束できんが、精々楽しんでくれ」
船長が髭面の凶相を歪め、にんまりと笑う。
そうしていると悪人面が前面に押し出されて、真っ当な商売をしているとは思えなくさせる。
まるで、海賊船の船長のようだ。
失礼だとは思いつつ、レヴィンは訊かずにいられない。
片手で口元を覆い、声を小さく傍立てながらユミルの耳元近くへ寄る。
「あの……一応ですけど、大丈夫ですよね? 真っ当な商売をしてらっしゃる方を頼った、と見て良いんですか……?」
「何よ、アンタ。見掛けで人を判断するの?」
「そういう訳じゃないんですが……。でも、その人の
水夫に怒号を飛ばし、出港準備に入っている船長を見て言うと、これにユミルは同意した。
「まぁ、言わんとしたいコトは分かるわ。実際、真っ当な経歴の持ち主じゃないしね」
「やっぱり、真っ当じゃないんですか……」
「昔の話よ。誰にだって、若い時はヤンチャしてた時期があるものだしねぇ。今じゃ普通に、真っ当な貿易で生計立ててる男よ」
「個人的には、そのヤンチャが非常に気になるところなんですが……」
レヴィンが更に声を細めたその時、件の船長が振り返って、ぐわっと目を見開いた。
「何やってんだ、さっさと乗り込め! 錨を上げるぞ!」
「あら、ごめんなさいね」
ユミルは怒号を気にせず、軽い調子で謝罪すると、ミレイユ達を先導して乗り込んで行った。
最早、詳しく訊ける雰囲気ではなくなり、レヴィンも彼女たちの後へ付いて行く。
銅鑼が何度も打ち叩かれて、船と港の架け橋も下ろされる。
いよいよ北大陸に向けて、船の旅路が始まった。
※※※
船に乗るのも初めての事なら、波に揺られる経験も、レヴィンにとっては初めての事だった。
三本立ての横帆と一本の縦帆に風を受け、船は大海原の上を駆ける。
しかし、海の上は見た目以上に平坦でなく、波と風の両方の影響を受け大きく揺れた。
何事にも慣れないレヴィン組は、甲板の上をまともに立って歩く事さえ出来ない。
水夫は波の揺れなど全く気にせず、数ある作業で忙しく動いているのに、レヴィンはその場に立っているので精一杯だった。
「こ、これは……っ! 慣れるまで大変だ……!」
「海が荒れてる訳でもねぇってのによ。おい若、気を付けろ――ったく、水夫はよく動けるな……!?」
「まぁ、水夫が最初に学ぶ事は、その『歩く』コトだって言うぐらしだしねぇ」
したり顔で頷いて、覚束ない足取りを見せるレヴィン達の横を、ユミルが悠々と過ぎ去っていく。
その後にアヴェリン、ミレイユ、ルチアと続き、誰もが歩行に難色を示していない。
神と神使が船旅に慣れているとは思えないが、いずれにしても、流石と言う他なかった。
最後尾を歩いていたルチアが、何とか付いて行こうとするレヴィン達を振り返り、すぐ横へ指を向ける。
「素直に手摺を掴んでおいた方が良いですよ。練習するにしろ、後にした方が賢明です」
その忠告が終わるか否か、というタイミングで、水夫が慌ただしく行き来する。
「おい、邪魔だよ!」
「端にいろ、作業できねぇ!」
出港直後の船上は、まるで戦の如しで、とにかく慌ただしい。
素直に忠告を聞いて、レヴィン達は船の端に寄ると、操舵が設置された船尾側へと移動した。
そこでは既にミレイユ組が待機していて、最後尾の手摺に身体を預けては、潮風を存分に楽しんでいる。
髪の長い彼女らだから、風に撫でられ後方へ流れ行く姿が美しい。
思わず見惚れて止まってしまった所を、ロヴィーサが背中を突いてきた。
「あまり長時間、野卑な視線で見続けるのは不敬ですよ」
「野卑ってことは……! いや、すまん……」
ロヴィーサの視線に気圧されて、レヴィンは抗弁を諦めた。
それに、彼女の言い分は正しいのだ。
最近、気安い態度を許され続きて来たことで、その辺はレヴィンも麻痺してしまっていたらしい。
本来、声を掛ける事はおろか、掛けられる事も……ましてご尊顔を拝することさえ有り得ない存在だ。
しかし、目を瞑って、陽の光と潮風を存分に受けている姿を見ていれば、誰しも目で追ってしまうのは避けられない。
現に、水夫の中にも作業の手を止め、それで叱られている者が幾人かいた。
何事も慌ただしい船内で、最も人の出入りや忙しさから遠いのが、船長のいる操舵輪近くだ。
ただ、船長は操舵という重要な仕事があるので、暇しているわけではない。
それでも。話をするだけの余裕はあった。
「しっかし、なんでぇ、ユミル。昨日、アヴェリンの姐ちゃんが来た時は驚いたぜ。俺の船に乗りたいなんて、そんな急ぎの旅なのか?」
「急ぎってのは、当たらずとも遠からずねぇ。行き先が丁度良い塩梅だったのと、余計な乗客が居ないのも、利用する気になった理由かしらね」
「他の船はいざ知らず、俺ンとこは人より荷を運ぶもんだからな。客室もあるにはあるが、急ぎ用意させたもんだから、高級宿の様にはいかんぜ?」
「分かってるわよ。でも、互いに利があるから、アンタも許可したんでしょ?」
「そりゃあ、そうだ。金にもならねぇ荷物を運ぶってんだ。相応の見返りを求めにゃ、乗せるわけもねぇわな」
そう言って豪快に笑うと、野卑な笑顔を見せつけた。
にんまりと開いた口には、黄色く変色した歯、そして欠けた前歯が見える。
それが一層、野卑で野蛮な笑みを演出しており、凶相の笑みがより海賊らしい風格を体現していた。
船長がユミルを見る目付きは、邪な期待をしているようにも見える。
不純なものに嫌悪を感じ、レヴィンは思いっきり顔を顰めた。
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