貴婦人の道 その2
ユミルの言葉があったとはいえ、それからの道中は、レヴィンにとって、決して心穏やかなものでいられなかった。
人が暮らす範囲に、ドラゴンは滅多に近寄らないし、近寄るべきでないと命令されていたとしても、例外は幾らだってある筈だ。
見つかった瞬間、全てが台無しになるわけでもないのだろうが、多岐にわたる修正を余儀なくされるだろう。
楽観して、その台無しを引き起こした張本人にはなりたくなかった。
しかし、それも杞憂に終わる。
昼を過ぎた辺りから空気の質が変わり、潮の匂いが混じり始めた。
小高い丘を一気に駆け上がると、視界いっぱいに広がる青い海が見える。
一望できる水平線の中には、疎らに行き交う帆船があり、視界を少し下へ移すと、見事に整備された湾港都市があった。
今も帰港しようとする大型船がある一方、既に着港している船からは、幾つもの船荷が下ろされている。
町の入口にも多くの馬車が行き交い、陸路を使った貿易も盛んなのを思わせた。
レヴィンはこれほど見事で活気ある港町を、これまで見たことがなかった。
「ここからでも活気が伝わってくるかのようだ……」
「港にあれほど巨大な船が停泊しているのを、初めて目にしました」
ロヴィーサもまた感嘆して息を漏らしていて、ヨエルも声こそ出さないが、同じことを思っているのは明白だった。
それを見たユミルは、忍び笑いを漏らしながら言う。
「そりゃ、
「大型船が停泊できる港など、作る意味がないものな……」
全ては淵魔を外へ逃さない為だ。
龍脈の多くを神殿の建立によって確保された今、他大陸へ浸出しようとすれば海を渡るしかない。
淵魔は生物ではないので呼吸を必要とせず、体力切れもないので、その身一つで到達できてしまう。
だから、それを防ぐ為に海流という、物理的に押し戻せる防波堤を用意しなくてはならなかった。
ただの一匹すら逃せない前提である以上、南東大陸を物理的、龍脈的に孤立させるのは絶対条件だった。
他の王侯貴族より、その理屈を良く理解しているレヴィンだから、そこに不満などない。
ただ、貿易は国を豊かにさせるのだと、まざまざと理解してしまい、それが少し羨ましくなっただけだった。
町の港に併設されている市場には、商品を直射日光から守るため、色とりどりの日除け布がはためいていた。
「美味い食べ物が沢山ありそうだ」
「そりゃあ、あるわよ。特にあそこの、セネルの壺焼きは食べておかないと損するわ」
「何を言う。シンプルに白身魚の塩焼きこそが至高だ。炭の網焼きでパリっと焼けた皮と、溢れる油を口に含んだ時の香りは、饒舌に尽くしがたい」
アヴェリンがユミルに対抗して口に出すと、全員が二人から距離を取る。
味を想像して口の中に広がった唾液など、二人が険しく睨み合う姿で消し飛んだ。
どちらかがどちらかに仕掛けた時点で、面倒な事になるのだとは、既に全員承知のことだった。
ただし、誰もが辟易としているのとは逆に、ミレイユだけは嬉しそうにしている。
巻き込まれたくなくて離れるのではなく、特等席で見たいが為に距離を取るのだ。
「いや、アンタ、何にも分かっちゃいないわね。これだからバカ舌は……!」
「お前なんて、酒で舌が麻痺してるクセに何を言う。味の違いなんて、本当はろくに分かってないんじゃないのか」
「通ぶった話、してんじゃないわよ。どうせ何を食べても美味い、としか言えないのに。どっかで見た食レポにでも感化された?」
よしよし、とミレイユが満足そうに見つめている横で、ルチアは苦笑を噛み切れないでいる。
ミレイユに直接願うのは畏れ多いので、レヴィンはルチアの方へ声を掛けた。
「あの……、止めなくて良いのですか? 町はもう目前なんですし、目立ったりとかは……」
「流石にその辺は弁えてますよ。悪目立ちする心配がないから、あぁしてじゃれてる訳じゃないですか」
「そう……なんですかね? そうだとしても、ここでやる事じゃ……」
「まぁ、ご尤もなんですけど、逆に町に入れば出来なくなる訳で。それならここで一つ、鬱憤晴らしでもしておこう、って腹じゃないかと……」
「鬱憤晴らし、ですか……」
レヴィンは今も尚、言い合っている二人を見る。
その表情は不機嫌そのものだが、外から見える程に険悪ではなかった。
お互いに好きなことを言い合い、口汚く罵っているのに、そこには信頼を背景にしたボールの投げ合いがある。
ミレイユが観戦を好むのも、それを確認する為なのかもしれなかった。
とはいえ、未だそれに慣れないレヴィン達にとっては、ただただ心臓に悪いだけだ。
「でもまぁ、とりあえず、安全圏には入り込めた、と思って良いのか……」
水平線はどこまでも続き、空はどこまでも高かった。
現在地は街道までは遠く、レヴィン達以外、周囲には人影どころか、獣の影すらがない。
神使の誰もがその調子ならば、レヴィンだけが気を張る必要はないのだろう。
潮風を含んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、嘆息ともつかない息を盛大に吐いた。
※※※
港町の市場は、人の波でごった返していた。
外から見える以上の活気があって、物珍しい商品がひしめき合っている。
海の仕事で焼けた肌の者も多く、そして、居るのは人ばかりでもない。
多くの人種が、港では働いていた。
それがレヴィンには酷く物珍しい。
「こっちに着いたばかりの森でも思ったことだが……。何もかもが違って新鮮で、目が眩むようだ」
「だなぁ、若……。にしても、凄い賑いだ。戦支度してる時でさえ、ウチの領じゃここまで騒がしくなったりしねぇよ」
「珍妙な物が多く売られていますね。何に使うのか、見当もつきません。海の外では、どういった暮らしがされているのでしょう」
自由市が開かれているらしく、売り物に統一性がなかった。
それが生活に使うものなのか、それとも土産物として贈るものなのか、それさえ見分けが付かない有り様だった。
立ち止まって、じっくり見聞したい気持ちは勿論あった。
しかし、ミレイユ達は人の波をかき分けて、後ろを振り返ることなく進んでいく。
彼女らに置いて行かれまいとしたら、必然的に横目で流して見ていくしかなかった。
「ほら、アイナさん。遅れますと大変です」
ロヴィーサが手を伸ばし、立ち止まりかけたアイナの手首を掴む。
急に引っ張られ、その胸に抱き込む形になり、互いに照れた笑いを浮かべた。
「何を熱心に見ていたんですか?」
「あぁ、とても不思議に思えるものが……。ほらあれ、見てください」
アイナの示した先にあるのは、市から少し離れた所で、その一帯は出店を構えているようだった。
景気の良い声を発しながら、自分達が調理した物をアピールしている。
「お腹が空いたのですか?」
「もうっ、そうじゃなくって……っ! ほら、あれです!」
アイナが幾度も突き刺すように伸ばした指の先には、非常に見慣れた出店があった。
日本の大社でも見られたタコ焼き、それがこの異世界にも存在していた。
特徴的な鉄板で作られているので、他の何かと見間違えようもない。
しかし、屋台の上に書かれている文字には、大きな違いがあった。
「本当ですね。でも、あら……?
「――おい、何してんだ。遅れんぞ」
長く足を止めたアイナ達を探しに、他の皆が戻って来ていた。
ヨエルが先頭となっているが、しっかりミレイユ組も付いて来ている。
「――ヨエル。アイナさんのこと、しっかり見ていてくれないと困ります」
「お、おう、すまん……。っていうか、何で俺を名指し……?」
本気で困惑しているヨエルを余所に、ロヴィーサは己の不出来をレヴィンに謝罪する。
それから、改めて集団から逸れた理由を口にした。
「ほぅ、レジス焼き……。本当だ、あっちで見たタコ焼きとそっくりだ……」
「ミレイユ様がレシピを持ち込んだ、とかですかね?」
「――断じて違う」
これには苛烈とも言える語気で、ミレイユは大きく否定した。
「いや、確かに私は食べたいと言ったが……。タコがいるなら、タコ焼きが食べられるとか、お好み焼きも良いよな、という話を零しもした。しかし、作れとは言ってない……!」
「何より、ソースとマヨネーズがなければ、作れませんからね」
そう言って、ルチアはどこか自慢げな顔で胸を張った。
「料理に一家言ある私が、適当な物を許す筈がありません。責任を持って、しかと私の手で作らせて貰いました」
「別に作るのも、食べさせてくれたのも文句ないさ。だが、どうしてそれで、レジス焼きって名前になるんだよ……!?」
「さぁ……? ミレイさんの発案で作られた食べ物です、としか言ってないんですけど」
「どう考えても、それだろ!」
不思議そうに首を傾げたルチアに、ミレイユは大袈裟とも言えるツッコミを入れる。
ユミルはそれを後ろで見て、腹を抱えて爆笑していた。
「しまいには、お好み焼きと賭けて、互いにレジス焼きを名乗る始末だ。元祖だの本家だの、もはやどれがレジ素焼きを差すのか、分からなくなってるんだぞ……!?」
「別にいいじゃないですか、それぐらい」
「だったら、ルチア焼きにしとけよ!」
「嫌ですよ、みっともない」
「みっともない!? みっともないって言ったか!? 私だって同じ気持ちだ!」
一柱と一人が珍しく馬鹿な遣り取りをしていると、爆笑の渦から返って来たユミルが、目尻を拭いながら親指を後ろに向けた。
「ほらほら、目立つ真似してるぐらいなら、もうすぐそこが宿屋だから、さっさと入っちゃいましょ。この町ってオノボリさんには、ちょっと刺激が強すぎるみたいだし」
「お上りとかじゃないだろ……! 人の黒歴史をほじくり返されてるんだぞ……!?」
「良いじゃないのよ。レジス関係なんて、それこそ幾らでも馬鹿なエピソードあるんだから、そんなの今更でしょ?」
「やめろ、誤解を招くような言い方をするな」
レヴィン達からは他にもまだ何かあるのか、と疑いの眼差しが、ミレイユに向けられている。
本当に何かがあるのか、という思いと、あってもおかしくない、という思いがせめぎ合っている。
「まぁまぁ、こんな所で騒ぎ立ててると、これまでの努力が台無しよ。オノボリさんってだけで、絶好のカモにされて、厄介事を呼んだりするんだから」
「だから、お上りとかじゃないと……!」
ミレイユの不満と非難は、完全に黙殺された。
誰も真面目に取り合わないので、不服そうな顔をさせてしまい、最終的には口を、への字型に引き絞って沈黙した。
「今アヴェリンが、船の出発時刻を確認してるから。船荷が纏まり次第だから、いつ頃になるかは分からないわ。明日の朝一番なら言うコトないけど、昼過ぎになるかもしれないし、時間に余裕があれば、またこの辺歩きましょうよ」
「良いんですか……? あの、ミレイユ様が、結構ご機嫌斜めですけど……」
「良いのよ。この程度のやらかしなんて、それこそ幾らでもあるんだから。一々、気にしていたら損よ」
そう言うと口の端を吊り上げて、今度こそ宿に向かって歩き出した。
レヴィンは一度ロヴィーサとアイナを振り返って、その背を追う。
「でもそれって、本人を前にヨエル様が言う台詞じゃないよな……」
それを証拠に、ミレイユの機嫌は直滑降に急降下気味だ。
レヴィンはその矛先が自分に向かない様、細心の注意をさせながら、ヨエル達の後を追って雑踏の中へ切り込んで行った。
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