貴婦人の道 その1

 ルチアが宣言した通り、翌日から、また地獄の走り込みが始まった。

 しかし、ミレイユから殆ど答えに等しいヒントを与えられていた事もあって、走り続ける苦労、これまでと違って劇的に軽い。


 魔力運用とその制御は、あくまでアシスト的に使うものと考えていたレヴィンにとって、それは青天の霹靂と言って良かった。

 新たな世界が開かれた気がして、アイナに『鍵』で才気を開放して貰った時と同じか、それ以上の感動を味わっている。


 しかし、魔力を主動力として身体を動かす訳だから、体力や筋力の消耗とは、また違った疲労があった。

 最初は逆にやり辛くて、歩行さえ覚束なかない程だったが、慣れるほど簡単に、そして疲れなく動けるようになっていく。


 ――戦闘の最中、自在にこれを操れるようになれば……。

 レヴィンは考えずにいられない。

 そして、異様に強い神使達の強さの一端が、これで垣間見えた気がした。



  ※※※



 三日も走らされれば、嫌でも制御に慣れてくる。

 そして、レヴィンの走行も、他の者に後れを取らない程に成長していた。


 息を切らし、汗を滝のように流しては、形振り構わず走る姿など、もう見られない。

 今では隣を走るヨエルと、会話する余裕まであった。


 ただし、当のヨエルはそこまで達していないので、返事は少なく、その多くは首を振るのみだ。

 それでもヨエルは遅れることなく、しっかり付いて来ている。


「平気か、ヨエル……? これまでのパターンだと、そろそろ水薬を投げ付けられる感じだぞ」


「あぁ、やってやるさ……っ! 今度はっ、同じヘマ、しねぇ……っ!」


 ヨエルの目が爛々らんらんと輝く。

 余裕を見せてきたレヴィン達に対し、ミレイユ達の態度も大きく変わった。


 これまでは必要とあらば、水分補給だけは許されていた。

 飲まず食わずで走り通しは、最初の一日だけでも十分な苦労だが、それ以降は緩和措置が取られていたのだ。


 水薬を手渡されることで、最低限の飲水は出来ていたのだ。

 しかし、付いて来るのに十分な制御を身に着けたと分かった途端、それが変わった。


 水薬は顔面に投げ付けられ、顔に流れた僅かな分だけしか補給できない。

 水薬の効果は肌から吸収される分だけでも十分なので、走る為の疲労や魔力の消費に関しては、それで回復された。


 しかし、喉の渇きだけは如何ともし難い。

 先にやられた一件で、ヨエルは走る事に集中し過ぎて、その機会を失った。

 それ以降、常に乾きに苛まれながら走らされていた。


 自分の分を渡すことは禁止されているので、融通してやることも出来ない。

 特にアイナは、レヴィン組の中で最も余裕を持っている。

 手助けしたいと思いつつ、歯痒い思いをしていたのだった。


 補給のタイミングは一定ではない。

 しかし、振れ幅が大きいというだけで、ある程度の法則はある。

 レヴィンは空を見上げるなり、日の傾きから時間を計算して、そろそろだと当たりを付けていた。


「……ん?」


 その時、空に掛かる雲の傍で、何か影らしきものが見えた。

 黒い点に過ぎず、しかもほんの一瞬の事で、すぐに雲の中へ消えてしまった。

 見間違えかと思いながらも、雲へ視線を向け続けていたら、前方から鋭い声が飛んできた。


「――隠れろ! 左手の林に、早く!」


 アヴェリンの一声だと気付いたのは、その一瞬後だった。

 レヴィンが次の一歩を踏み切り、方向転換した時には、既にミレイユとルチア、ユミルも林へと走り込んでいる。


 一拍遅れたレヴィンとアイナ、ロヴィーサがそれに続き、更に一拍遅れたヨエルが続いた。

 前方を走るミレイユ達は、一切の魔力的揺らぎを感じさせないまま、レヴィン達を置いて行く速度で林へ身を投じる。


 そうして、頭上を木の葉で隠せる場所まで行き着くと、身体を木の幹に当てて姿を隠した。

 道中の危険性については、既に十分、聞き取っている。


 ミレイユ達は、この時代におけるミレイユに、決して見つかるわけにはいかないのだ。

 そうした危険がある時、ミレイユ達は真っ先に姿を隠すと言い含められていた。

 場合によっては、レヴィン達が囮となる事も計算に含まれている。


「――では、あれが……!?」


 レヴィンは走りながらも、頭上へ視線を向けた。

 空の向こう――雲の影に隠れた何かは、相変わらず姿を見せていない。


 本当にこの時代のミレイユがいるかどうかも疑問だった。

 しかし、アヴェリンが警戒すべき、と判じた何かが接近している。

 レヴィンはその判断を信じて、後を付いて行くだけだった。


 強力な魔術や、強い魔力制御は、それだけで魔力勘の働く者には目立つ。

 だから、レヴィンは力を込めて地面を蹴りつけたい衝動を抑え、必死に走った。


 そうして、林へと滑り込む様に入ると、背後のヨエルを窺う。

 しかし、心配する間もなく、ヨエルはレヴィンのすぐ背後までやって来ていて、転がり込んで林の中へと入ってきた。


 置いて行かれまいと、出力を上げたせいだろう。

 息切れは激しく、そしてだからこそ、何者かはその乱れに気付いた。


「――身体を幹にくっ付けろ!」


 アヴェリンから指示が飛び、レヴィン達は慌てて手近な幹へ背中を付ける。

 草原に作られた幹の細い群生林だから、ひとが一人隠れられる、ギリギリの太さしかない。


 周囲の色に溶け込む服装をしているわけでもなし、どこまで隠れられるか不安は残った。

 しかし――。


 その数秒後、颶風が頭上を通り過ぎ、大きく頭上の木の葉を揺らし、何かがそのまま去っていった。

 強風に煽られ、幹が揺れ、枝は跳ねる様に左右へ動き、木の葉がはらはらと落ちてくる。


 その揺れる木の葉の間から見えた、通り過ぎていく何かは、間違いなく巨大な竜だった。

 そして、息を殺しながら、その場で待つ。


 折り返し戻って来ることを予想して、幹に身体を押し当てたまま、荒くなる息を細かい呼吸で抑えて必死に待った。

 更に十秒が経ち、何事の変化も起きないと分かるなり、ミレイユが小さく声を落とす。


「もう、楽にして良いぞ」


「――ぶはぁ……っ!」


 特に呼吸を荒くしていたヨエルが、盛大に息を吐き、貪るように呼吸を始めた。

 その彼に寄り添う様にアイナが立ち、心配そうに見つめている。


 レヴィンもまた、ヨエルより酷くないものの、似たようなものだった。

 身体を丸めて呼吸を整え、心配そうに覗き込んで来たロヴィーサに大丈夫、と手を挙げる。

 そうして十分に落ち着いてから、ミレイユへ向き直った。


「ミレイユ様、今のは……?」


「想像している通りだ。ドラゴンが過ぎ去って行った。中央大陸は、竜が跋扈する土地だ。これまで遭遇していなかったのが、奇跡に近い」


「では、あれにミレイユ様が騎乗していた、とかではないんですね?」


 違う、と明確に否定して、ミレイユは首を横に振った。


「あれは野良ドラゴンだな。周遊している所に、偶然出くわした。……だがもし見つかっていたら、少し厄介な事になっていたぞ。ドラゴンは、私の目と耳だからな」


「こんな所を低く飛んでいたのも、誰かさんがヘタクソな制御で魔力を垂れ流したからでしょ。竜ってのは、好奇心旺盛だから」


 そう言って、ユミルは嫌らしい笑みと共に、ヨエルへ流し目を送った。


「まぁ、必死に押し殺してたお陰で、勘違いと思ってか、調べようともせず去っていったけどさ……」


「それじゃあ、これまでやけに過酷な道を選んでたのは……」


「人の目に触れたくないからじゃなくて、竜の目を避けたかったからよ。いつでも咄嗟に隠れられる場所じゃないといけない。隠蔽魔術は竜の視覚と嗅覚に、相性悪いからね」


 知らない方が幸せな事はあるものだ。

 これまでレヴィン達は、単に人の目を避ける程度にしか、道程を考えていなかった。


 しかし、実は空から監視する目があり、それも意識して進まねばならないらしい。

 ドラゴンは別段、レヴィン達を意識して探し回っているわけではない。


 ただし、その旺盛な好奇心から、道幅を大きく外れた旅人を見てやろうと首を伸ばし、そこにミレイユが居たとなれば話は別だ。

 必ずや傍にやって来ようとするだろうし、その不自然さを疑問に思わないとは考えられない。


 偽者の可能性や、もっと他の懸念で騒ぎ出すかも知れず、そうなったら最早、隠密も何もないだろう。

 これからは、目を皿の様にして、空を注目しなければならなくなった。


「どうして、何も言ってくれなかったんですか……」


「言ってどうなるものでもないからです」


 これにはルチアから、冷淡に断定する形で返答があった。


「付いて来るのに精一杯、走るのに集中しなければいけない相手に、空まで見ろなんて無茶ですよ。それならいっそ、知らずにいた方が魔力の制御だけ考えていた方が良いでしょう?」


「それは……確かに、そうかもしれませんが……」


 レヴィンもつい最近までそうだったが、ヨエルもその制御に集中する余り、投げ付けられる水薬に反応出来ていなかった。

 仮にこれが平時であったら、そんな無様は晒さない。


 空に注意しろ、と言われても、無駄にストレスを抱えただけだ。

 その理屈は分かる。

 伝えていなかったのは、ミレイユ達の配慮で違いなかったろう。


「ですが、知ってしまった以上、これからどうしたら……?」


「どうしようもないので、とにかく次の街に行くしかありません。竜は人里近くに現れないよう、厳命されてますから」


「そう、なのですか……?」


 言われてみれば、レヴィンの故郷――領都の近くで見た記憶はない。

 淵魔を迎え撃つ三重の壁、その戦闘上で姿を見掛けた事こそあるが、あれは人里とは言えないだろう。


 そして、ドラゴンが間近で目撃される例は、いつだって淵魔の襲撃に押され気味の時だけだった。

 だからドラゴンは守護聖獣とされるし、大神レジスクラディスの加護あらん、と奮い立っていたのだ。


 いずれにせよ、とユミルは林から外に出て、遠く北の空を指差す。


「今日一日、走り通せば港町に着くわよ。竜が周遊するのにもギリギリの距離だわ。そこまで行けば何かに怯えて走る必要なんてないんだから。……ほら、さっさと行きましょ」

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