隠密移動 その8

 全身汗塗れで走り通しの身体は、油断すれば川の流れに負けそうだった。

 実際は緩やかな流れで、子供であっても安心して遊べる程なのだが、今のレヴィン達にとっては、文字通り足を掬われかねない。


 時間が経つ程に疲労が蓄積され、ともすれば、水の中で眠りこけてしまいそうだった。

 それでも意識を総動員して最低限、汗で張り付いた砂埃を洗い流す。

 そうして、髪の毛の水気を切るよりも早く、元の場所へと戻った。


 汚れた肌着も洗わねばならないのだが、そんな気力は身体を洗うのと同時に流れてしまっている。

 それで簡単に着替えだけ済ませて、野営地へと戻った。


 そこでは既に水浴びを終えたロヴィーサとアイナもいて、夕食の準備を手伝っていた。

 焚き火を中心に、椅子代わりの丸太がコの字型で作られており、空いている場所へヨエルと隣合わせで座った。


 向かい側にはルチアが他二人と、食事の準備を進めている。

 そして、それらに挟まれる形で、ミレイユとアヴェリン、ユミルが座っていた。

 そのユミルが、足をガクガク震わせて座ったレヴィン達を見て、揶揄する様に笑う。


「また随分と酷い有り様だコト……。水浴びの仕方すら、ママが傍に居なきゃ出来ないのかしら」


「言葉を返す気力もねぇよ……」


 ヨエルは項垂れたまま言葉を零す。

 レヴィンも同じ気持ちだったが、上手い言葉が思い浮かばず、ただ完成間際の料理を見つめていた。


「まったく……、良いご身分だわねぇ。神使に尽く準備させて、自分達はただ用意された物を受け取るだけってワケ? 女達は、その辺よく弁えてるってのに」


「う……っ!」


 何一つ言い返せず、レヴィンはうめき声しか上げられなかった。

 食事の準備だけでなく、野営地の設置についても同様だ。


 神と神使を働かせるのではなく、それら全て、レヴィン達が率先してやらねばならなかった。

 その疲労具合や汚れ具合から、まず水を浴びて来いと言われたのは事実だ。


 しかし、ただ言葉に甘えるだけであってはならない。

 実際、女性陣二人は身支度も早々に整え、食事の準備を手伝っていた。

 これでは、良いご身分と言われてしまっても仕方がない。


「……申し訳ないことです。返す言葉もございません……」


「ですが、ユミル様……」


 ヨエルと揃って項垂れた所へ、言葉を挟んだのはロヴィーサだった。


「食事の用意は本来、私の役目でした。野営の設置や、野菜を刻むくらいは手伝って貰うこともありましたが、若様は供される側でしたのです。疲れの余り、多くを見逃してしまったのも仕方ないのでは……」


「その疲れってのが問題なのよ。魔力と制御、運用と循環。理解が薄く、上辺だけ分かったつもりで使ってるから、そんな不甲斐ないコトになってんの」


「それは……」


 ロヴィーサは返す言葉を失い、顔を伏せる。


「逆に、ろくすっぽ戦えないクセして、走るのだけは一端いっぱしだった奴もいたしね。才能ないから基礎だけ、みっちり仕込んだだけなんだけど。でも、ソイツは苦もなく付いてきたモンよ。……ねぇ?」


「何故、私に振る?」


 露骨に眉を顰めたアヴェリンが、そっぽを向いて応える。

 ユミルはミレイユを挟み、その横顔に笑みを向けた。


「いえ、別に。他意はないのよ。普段から、基礎を磨くのは大事よね、って話……」


「フン……! ならば誰かを引き合いに出さず、最初からそう言え」


 憤慨する程ではないが、不機嫌な態度を隠そうともせず、アヴェリンは腕を組んで息を吐く。


「刻印を悪く言うものではないが、刻印を前提とした魔力運用にするから、こうした歪みが起きる。――お前の祖先は、基礎が大事だと伝えてなかったのか」


 アヴェリンから唐突に水を向けられ、レヴィンは萎縮しつつ顔を上げる。

 そこには明らかな怒気が立ち昇っていた。

 レヴィンは返す言葉に迷いつつ、口の中で言葉を転がす。


「……いえ、それは勿論……。基礎は大事だと、刻印のみに頼らず、魔力制御を磨くよう教えられ、邁進しておりました……」


「では、何故そうも不甲斐ないザマを見せているのだ」


 アヴェリンの怒りが更に膨らもうとした所で、含み笑いがそれを遮った。

 声の主はミレイユで、彼女の太ももに手を置き、小さく揺らす。

 それで一気にアヴェリンの怒りは萎んだ。


「八つ当たりしてやるな。実際のところ、レヴィン達は合格水準を越えている。段階を踏まない才気の開放が、逆に彼らの不得意分野……その溝を深くしただけだ」


「ハ……、失礼を……!」


「大きな器を持つ者は、逆に小さく少ない運用が苦手なものだ。家ほど大きな木桶から、コップ一杯分の水を注げと言われて、上手く出来る奴は少ない。そこの所を言うと、ロヴィーサは上手くやってるな」


「きょ、恐縮です……」


 唐突に褒め立てられ、ロヴィーサは決まりが悪そうに頭を下げた。

 ミレイユはちらりと笑って、レヴィンに顔を戻す。


「元より戦闘に特化して、訓練を優先するよう指示したのは私だしな。他を後回しにして、疎かにした結果が今の状態なら、それは私にも責任の一端がある」


「まさか、そんな……!」


 レヴィンは必死に否定した。

 自分の不出来を神に庇って貰うのが畏れ多い気持ちが半分、そして責任の一端などあってはならないと思うのが半分だ。


 その言葉を聞いて、ミレイユはうっそりと頷く。

 それから笑みを――今度はどこか、悪巧みを思わせる笑みを向けた。


「だから、お前の歪みを正す。ただの戦闘馬鹿では勿体ない。呼吸と同じように扱えれば、何かと便利だぞ」


「便利というだけで、目指せるものではありませんよ……」


 レヴィンが苦い笑みと共に言葉を返すと、ミレイユは両隣の二人へ、順に目を向ける。


「良く見てみろ。汗で汚れず、土埃も付いていない。便利だろう?」


「いや、それは便利かもしれませんが……。割に合ってますか、それ……?」


 疲れ知らずの上、汚れ知らずなのは確かに便利だ。

 だが、疲れはともかく、汚れていないというだけで、本当に水浴びしないという事にはならないだろう。


 急ぐ旅の途中に、そうした煩わしさから開放されるのは魅力的でも、その為に身に着ける技術としては、掛かる苦労が大き過ぎる。

 それなら素直に、汚れた身体を洗い流す方を選ぶ方が大半のはずだ。


「まぁ、これは身に付けた技術を活用した結果、そうなっているだけであって、その為に取得した技術ではないからな。魔力を上手く表面上に貼り付ければ、目も開けられない砂塵の中でも活動できる」


「汚れて見えないのは、そういう……。しかし、汗については? あれだけ動いて、汗の一つも掻いていないのは……」


「筋力で手足を動かしているわけではないからな。普通は筋力に加えて魔力を補助に使うのだろうが、戦闘がない状況ではむしろ逆にする」


「魔力で、手足を動かす……?」


 魔力を使え、循環を意識しろと言われたが、そうした運用は意識の外だった。

 上手くやろうとしても空回り、手足を強化することに腐心していた。


 そして、単に強化しただけでは、一歩の踏み込みが強くなるだけだ。

 瞬時の接近には便利でも、長距離走には全く向かない。

 だから、僅かに絞って使うわけだが、その使い方を根本から間違えていたのだ。


 ロヴィーサは早々に、そうした使い方の違いに気付いた。

 そして、運用方法が根本から違うから、その結果が雲泥の差として現れた。


「あら、教えちゃうんですか? 自分で気付くまで、今日のを続けさせるのかと思ってました」


 料理が完成し、器に盛り始めたルチアが、意地悪そうな笑みを浮かべて言った。


「こいつは教えられなきゃ気付けないタイプだ。弟子にでも取って、気長に学ばせるんならその方が良いんだろうが、それじゃあコイツは延々と走ってないといけない」


「走らせとけば?」


 辛辣なセリフは、ユミルから発せられた。

 ミレイユは喉の奥で笑ったが、これには小さく首を振る。


「それじゃあ、私達はいつまでも、それに付き合ってやらなきゃならないだろう」


「それはイヤねぇ……」


「自分で気付ければ、それ以降のやる気や理解力にも繋がるんだが、悠長に待ってやれる余裕がない。足踏みしている分、次の応用を身に付ける時間が減る」


「まぁ、確かにね」


 そう言って、ユミルは嗜虐心を感じさせる笑みを浮かべた。


「使える時間は僅か一年、だものね。そして、全ての時間を修行に充てられるワケでもない。それを思えば、ヒント程度はじゃんじゃん与えるべきなのかも。アタシ達に追い付いて貰う為にも」


「そんな無茶な……!」


 レヴィンは殆ど反射的に声を荒らげた。

 既に体力が底を尽いていることなど忘れて、大きな身振りで抗議する。


「我々は神使様とは違います……! 追い付くなど、そんな……!」


「何か勘違いしてそうだから、言わせて貰うけどさぁ……」


 熱が帯びそうになった所へ、表情を落としたユミルが、冷淡に思える口調で言った。


「アンタ、神使を何か特別なモノと思ってない?」


「特別……では、ないんですか?」


「特別には違いない。でも、神使だから強いとか、神使だから優秀、とか思ってそうだから」


 そう思っていたことは否めない。

 何しろ、神の代弁者、地上の代行者だ。

 神の如き力を持っている者でなければ、到底勤め上げることなど出来ないだろう。


「そりゃあ勿論、最低基準ってのはあるものよ。でも、神使になると強い力を与えられるとか、そういうの一切ないから」


「そう……なのですか? 神の祝福とか、加護とかそういう……何か力を与えられたりとかは……?」


「そこは神の持つ権能によって左右するから、色々違う。ウチの神様の場合、そうした加護とかは全く向かないタイプだし……」


 そう言って、ユミルはアイナへと顔を向けた。


「最もそれらしい加護といえば、オミカゲサマの『守護』になるでしょう。こっちの神様に、これに類する程の祝福って早々ないから……。オミカゲサマって、やっぱり別格なのよね」


「そうなんですか……!」


 アイナは我がことのように喜び、胸に手を当てる。

 自身の加護を慈しむようでもあり、また誇るようでもあった。

 その嬉しそうな顔から視線を戻し、ユミルは揶揄する様な表情で話を戻した。


「まぁ、神使なんてのは、あくまで権利を代行できるってだけだし、つまり神のお気に入りって意味だから。……そうね、アンタに分かりやすく言うと、近衛兵とか? 任命された瞬間、強くなったりする? それと同じよ」


 では、役職を与えられた、ということ以上の意味はないのだ。

 無論、地上での代行者を任命されるわけだから、単なる名誉以上の意味がある。

 しかし、それでは完全な努力や才能で、その頂きまで到達したことになるのだ。


「互いに鍛え、鍛えられたのは事実だけど、何か突然降って湧いた様に強くなったワケじゃない。他の小神の神使には、明確にアンタより弱いのがいるくらいよ。だから、頑張んなさい。頂きに近づけるようにね」


 その高さを知っているだけに、レヴィンは素直に頷くことが出来なかった。

 しかし、横合いから料理の器を渡されて、ハッと顔を向ける。

 そこでルチアが、淡々とした仕草で腕を突き出していた。


「誰もが到れるものではありませんから、言葉半分に聞いておくぐらいで良いです。

それよりさっさと食べて下さい。明日もまた、走り通しになりますよ」

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