それぞれの決意 その2

 レヴィンとロヴィーサは、しばらくしてから、どちらからともなく額を離した。

 瞼も開き、近距離で互いの瞳も見つめる。

 そうして、瞳の中にも熱が入り始めた時、唐突に部屋の襖を叩く音がして、二人の肩が跳ねた。


「失礼致します。御子神様のご用向きをお伝えに参りました」


 襖を叩いた音も、また許可を求める声も、ごく控えめなものだ。

 それでも二人にとって、まさに不意打ちな音の乱入は、咄嗟に身体を正反対へと向けさせた。


 床に膝を付き、所作の整った様子で襖を開いた女官は、布団の上で身体を変に捻るレヴィンと、それに背中を向けるロヴィーサを見て小さく笑う。

 しかし、敢えて何も言わず、その場で頭を下げて伝言を口にした。


「明日、また顔を出すように、との事でございます。朝食が済み次第、直参する位が良ろしいと存じます」


「そ、そうか。あー……、ありがとう。なんというか……、詳しい内容は聞いてますか」


「いよいよ帰参するとの由でございます。もっと長く逗留願いたかったのですが、残念な事です……」


「そうか……!」


 それを聞いて、レヴィンの俄然やる気が否が応でも盛り上がる。

 顔を出せと聞いた時は、また何か厄介な事に巻き込まれるか、とレヴィンとロヴィーサは身構えていた。


 しかし、元より帰る予定日は近いとも聞いてもいたのだ。

 その時が遂に来たのだと、レヴィンは胸の前で拳を握る。


「分かりました、ありがとうございます」


「世話になった者がいるなら、今の内に挨拶しておくように、とも申しておられました。全員には難しくとも、礼は尽くす様にと……」


「そうだな、確かにそうだ」


 レヴィンは昂る気持ちを拳と共に下ろし、それからロヴィーサへと身体ごと向けた。

 ロヴィーサもまた既に体勢を元に戻しており、レヴィンの意を汲み取って大いに頷く。


「道場の方々には、大変お世話になりました。今こうして力が実ったのも、彼らのお陰で違いありません」


「そうだな。彼らからの学びは得難いものだった。蹴鞠で受けたあの時のダメージも、それがなければ、きっと更に深刻だった筈だ」


 彼らの制御力は、刻印を持たぬが故に、高い精度を誇っている。

 だからこそ、基礎や土台や、レヴィン達とは根本的に違っていた。

 彼らの技術を身に着けてから、その実力が飛躍的に上昇した所から見ても、古式ゆかしいやり方は、実に有効なのだ。


「それに、挨拶しないといけないのは、何も彼らだけじゃない」


「そうですね。大事な方が欠けています。……アイナさん、ですね」


 レヴィンは無言のまま頷く。

 彼女とは多くの時間を共にし、また苦楽も共にした仲だ。

 日本に来てからは、レヴィン達が神宮住まいという事もあり、中々会う機会が得られなかった。


 道場では治癒要員として参加していたものの、基本的に鍛練中は接点がなく、あったとしても私語は出来ない。

 終わった時には這々の体で、簡単な挨拶をして別れることの方が多かった。

 それもこれも、ちゃんとした会話はもっと邪魔が入らない時と場合で、と先送りにした結果だ。


「事前に何を言っていた訳でもなかったからな……。明日はもう時間を取れないし、別れを言うなら、夕方辺りの時間を使うしかないが……」


「都合が付かなければそれまで、ですか……。それは、寂しいですね……」


「俺も迂闊だった。何年もこっちに居る訳じゃないんだ。何かしらの機会を作って、せめてもっと話していれば良かったんだ……」


 今更、悔やんでも仕方がない。

 遅きに失したのは確かだ。


 だが、アイナの都合が付くのなら、最悪の事態は避けられる。

 レヴィンは期待を込めて、今も部屋の境で待つ女官へと声を掛けた。


「すみません、お願いできますか。アイナに連絡が取りたいんです」



  ※※※



 レヴィン達は客分特権を与えられているとはいえ、流石に奥御殿へアイナを呼び付けたりは出来ない。

 そこで神宮近くにある茶屋で落ち合うのはどうか、と女官から提案され、その通りにアイナを呼ぶ事になった。


 幸い、連絡は直ぐに取れた。

 その上、即座の了承も貰えたので、不義理を心配する必要もなくなった。

 茶屋の支払いについても、事前に話を通しておくからと言われ、店員に名乗ると恭しい態度で個室へと案内された。


「では、お連れ様が参られましたら、こちらへお連れ致します」


 店員の所作や着ている者は、レヴィンの目からすると女官達と遜色なく思える。

 それだけ高度な教育を、受けている証拠なのかもしれない。

 丁寧にお礼を言うと、立ち去る前に置かれていった菓子とお茶に口を付けた。


「これ、美味いな……。プルプルと危なっかしく見えるのに、甘くて爽やかだ。くど過ぎないのも良い」


「こちらの食べ物で、不味いと思ったものはございませんけど、甘味はまだ別格ですね」


「それよ。また持って帰りたいリストに一つ加わったじゃねぇか、なぁ? ……実際は何もかも、置いていくしかねぇんだろうが……」


 うん、と寂し気にレヴィンが頷き、羊羹を半分ほど食べてから、湯呑みを手に取る。


「……緑茶の味にもすっかり慣れてしまった。最初は何て色だと思ったけど、これもまぁ美味いもんだ」


 それぞれが羊羹を口にして、お茶で僅かに残った甘みを流し、思い思いの感想を口にする。

 そうしていると、個室のドアがノックされて、返事をして入室を促せば、そこにはアイナが立っていた。


「すみません、遅くなりまして……」


「いや、急に呼び付けたこっちが悪いんだ。良く来てくれた」


 レヴィンとヨエルが同席、そして対面にはロヴィーサが座っていた。

 空いている外側の席を示すと、アイナは丁寧にお辞儀をしてから着席した。


 その後、幾らもせずにアイナの茶菓子とお茶もやって来て、とりとめのない会話を続ける。

 そうして、レヴィン達がすっかり菓子を食べ終えた時、いよいよ話の本題に入った。


「それで、今日呼んだのは……。何もこれまで、ろくに話をする機会が持てなかったから、じゃないんだ」


「……分かっています。帰還の目途が付いたんですよね? 道場の方でも、そろそろだという話は出てましたから」


「あぁ、そうか……」


 元より、レヴィン達を一端の剣士に育てるのが、彼らに課せられた任務だった。

 それを実際、打ち負かすだけの実力を手に入れたのだから、彼らの目的は達せられたと見て良い。


 彼らは実情の多くを知らないだろうが、鍛えるだけ鍛えたら帰る話を、知っていたとしてもおかしくなかった。


「私もレヴィンさん達の事情は、良く知ってますから。御子神様が反撃に繰り出す準備が整ったなら、レヴィンさん達が付いていかない筈ないですし……」


「そうだな……。実際には、俺達が付いていく為に、ミレイユ様は猶予を下さっていただけなんだけど……。でも、とにかく帰還する日が決まった」


「いつですか?」


「明日だ」


 それを聞いたアイナは、一瞬瞠目して見せたが、すぐに平静に戻った。


「……急ですね」


「俺達も今日、ついさっき聞いたばかりさ。それで慌てて、こうして連絡させて貰ったわけなんだけど……」


「別れの挨拶の為、ですね」


「そうだ」


 レヴィンが頷き、真摯な視線を向ける。

 そうして一泊置いてから、丁寧に頭を下げた。


「これで今生の別れになると思う。もう会うことはないだろう。だから、出会いに感謝を。そして、アルケスの不義には鉄槌を下すと約束する」


「あの……、これで本当にお別れなんですか? こちらとそちら、行き来したり出来ないものなのでしょうか?」


「所謂、直通の通路、みたいな物があるとは聞いてる。でも、それは神が直接管理する物でもあるらしいんだ。乗合馬車みたいに、金を払えば送ってくれるような代物じゃない。まして、友人に会いたいって理由だけで、利用させてはくれないだろうな」


「そう、ですか……」


 アイナは素直に頷いたが、その表情には苦いものが浮かんでいる。

 顔も俯き加減で、何かを必死に考えている様でもあった。

 それでレヴィンは、機先を制すつもりで口を開く。


「ありがとう。君には世話になった」


 レヴィンが礼をすると、ロヴィーサとヨエルも同じく頭を下げた。

 背筋が通っている、礼に則った角度で、その真摯な態度は、いっそ他人事のようにすら見える。

 アイナは慌てて顔を上げ、両手を横に振った。


「や、やめて下さい! お世話になったのは私の方です! 私なんて大体はお荷物で、守られてばかりで……」


「でも、君に傷を癒やして貰ったのは、一度や二度じゃ利かない。俺達にとっては恩人だ。道場でも、やっぱり癒やして貰ってた」


「それは、私の修行も兼ねているし、他の皆も平等に癒やしてましたから……!」


「……そうだけど。とにかく、礼だけは言いたかったんだ。もう会う事もないとなれば、尚更のことだろう」


 レヴィンが改めて言うと、アイナは泣きそうな表情で顔を歪めた。

 そうして再び俯くと、今度は二秒と間を置かず顔を上げる。


「――レヴィンさん。不躾で、唐突な事をお願いしますが……それ、私も付いて行くこと出来ませんか……!?」

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