第五章
それぞれの決意 その1
レヴィンが目を覚ましたのは、昼をとうに過ぎ、夕方も近くなった頃合いの事だった。
今や見慣れた奥御殿の自室にて、畳の上に敷かれた布団で目が覚めた。
しかしレヴィンは、一瞬何が起きたか理解出来ない。
嗅ぎ慣れた畳の匂い、障子から漏れる柔らかな日光、そして静謐な空気……。
それが、直前までの出来事と噛み合わず、尚更混乱する羽目に陥る。
「お、おれ……は?」
「若様、お目覚めですか?」
傍らにはロヴィーサが居た。
心配そうな顔を付きで、レヴィンの事を見つめている。
それだけで傍に居たのにもかかわらず全く気付かなかった時点で、相当前後不覚に陥っていたのだと察せられる。
「俺は……、いや、あれからどうなった?」
「無し崩しの形で解散となりました。結界内部の動きはこちらには見えず、解けたと思えば倒れ伏した若様が……。あの時ほど、肝を潰した思いがした瞬間はありません」
「あぁ、すまなかった……」
レヴィンが布団の中から手を出すと、ロヴィーサが両手で優しく包み込む。
戦闘に身を置いてきた彼女だから、手の平の皮は厚く、女性的柔らかさはない。
しかし、温かな心地は、レヴィンをひどく安心させた。
「……そういえば、ヨエルはどうなった?」
「あちらも骨が折れて、内蔵にも損傷がありましたが、ルチア様が治癒して下さったので安全です。肉体的には問題ないのですが、精神的に辛いものがあったそうで、今も自室で横になっています」
「まぁ、実際あれは、酷い不意打ちだった……」
神の戯れと思えば、あの程度は些細な部類にされるのだろう。
しかし、刻印を用いたレヴィンでさえ、あの衝撃は饒舌に尽くしがたいものがあった。
ロヴィーサは肝を潰したと言ったが、あの時代わりを申し出て良かった、と改めて思う。
何も出来ぬまま結界の外で待ち、全てが決着した後、もしもロヴィーサの倒れ伏した姿が出てきたら――。
冷静でいられた確証が持てない。
それに実際、直撃を受けていたとしたら、ヨエルの時とは比較にならないダメージを負っていただろう。
死ななければ、やはり魔術で治癒してくれたのかもしれないが、だからといって思う女性が傷付くのを良しとする男はいない。
「……お前が無事で良かった」
「若様こそ……」
ロヴィーサは柔らかく笑みを浮かべたが、話はそこで終わらなかった。
両手で包み込んでいた手には、徐々に力が込められていく。
それはまるで、万力で挟まれているかのようだった。
「ですけれど、わたくしの立場はどうなりますか。護衛としてよろしく頼むと、奥方様からも、またエーヴェルト様からも言い含められておりましたのに。その役目を勝手に奪われてしまっては、わたくしの立つ瀬がありません……!」
「いや、それはもう説明したろ。神々の戯れで、わざわざ危険な目に遭う必要はないって……。俺なら誰より防御面で優れてるし、あの場において適役だった……じゃないか?」
「そういう問題ではありません。わたくしの矜持の話です。それに、神々にとっては戯れでも、人にとっては災害と変わらぬ事など、幾らでもあります。巻き込まれた者にとっては避けられない死と変わりなく、それならば若様は護衛の為に死んではならないのです」
「それは、そうかもしれないが……。だが……!」
レヴィンにも言い分はある。
次期領主を切望されている世継ぎと、その分家の子あり護衛である臣下。
だが二人の関係は、それほど淡白で杓子定規なものではない。
幼い頃から家族同然に育ったことから、誰より親しみ、また近しい関係でもあった。
個人的な情は、それより更に強い所にあって、だから黙って見ていられなかった。
しかし、ロヴィーサの言い分も真っ当で、勝手な一存で退けて良いものでもない。
護衛が護衛の本分を果たせなければ、護衛の価値はなくなる。
それをレヴィンの方から取り上げたとすれば、それは侮蔑にも等しい事だった。
これが本当に只人相手の戯れならば、ロヴィーサも怒りを顕にしたりしない。
彼女が言ったように、死の危険が現実に有り得たから、その護衛の本分を取り上げたレヴィンに怒っているのだ。
だから、レヴィンは布団の上で、顎を僅かに上下させる形で謝罪した。
「悪かった……。でも、分かってくれ。こんな事で、お前に万が一があって欲しくないって思ったんだ」
「今回だけですよ」
「……勿論だ」
「アルケスとの戦いで、同じことはしないと約束して下さいね」
これにレヴィンは、即座に返答できなかった。
今度は戯れではない、本当の死闘が行われるだろう。
アルケスはレヴィン達を侮って戯れの攻撃をしてくるかもしれないが、それは同時致死が掠める攻撃でもある筈だ。
その時、自らの保身を理由に見捨てられるか――。
レヴィンは暫し考えてから、これには明確に首を横に振った。
「やっぱり、絶対そうするとは約束できない」
「若様……」
ロヴィーサから落胆の声と、それを咎める視線が向けられた。
しかし、続く言葉が出る前に、レヴィンは遮って口を出す。
「俺は誰かを犠牲に、あるいは己の命と引換えに、アルケスを討ち倒すつもりはないんだ」
「え……?」
「散々、アイツに掻き回されたんだ。辺境に幾度となく現れていた淵魔は、それこそ戯れで襲わせていた事も、あったかもしれない」
全ての悪事、全ての不慮に、アルケスが関わっているとは思えない。
淵魔は淵魔の理屈を持ち、辺境に出現し幾度となく襲ってきた事は、むしろ全く関係ないかもしれなかった。
しかし、そうと思わせる程、レヴィンはアルケスを憎らしく思っている。
そうであって欲しいわけではないが、そうであっても驚かない、という程度にはアルケスを邪悪な神と認定していた。
「俺達は多くをアルケスに踏み躙られてきた。怒りもあって、恨みもある。
「しかし、それほどの覚悟なくして、勝てる相手でもないと思います。戯れの遊びですら、死の危険があるのです。討ち倒すには、それ以上の覚悟なくして不可能です」
「それも分かる。分かるんだが……」
レヴィンはいい加減、布団から起き上がって、ロヴィーサと視線の高さを合わせる。
そうして互いに互いの手を握り、正面から見つめ合った。
「アイツは俺達だけじゃなく、もっと多くのものを犠牲にして来た。その上、俺達なんて小さなものじゃなく、世界を危機に陥れようとする奴だ。だから、その報いを与えられるべきだ」
「……はい、そう思います」
「でも、これだけ虚仮にしてくれた奴だ。その為に、何かを犠牲にする必要はない。むしろ、何も犠牲を出さず、その後の一生を謳歌するぐらいが、一番の意趣返しになるんじゃないか」
「生を、謳歌、ですか……」
「そうとも」
淵魔を使って世界を蹂躙したその先を、アルケスがどう考えているか、それはレヴィンには分からない。
しかし、淵魔という存在を使った時点で、先行き明るくない事だけは理解できた。
破滅させるつもりで、汎ゆる生命を消してしまうつもりかもしれない。
だとすれば、その野望を挫き、破滅どころか幸せに暮らす事が、野望の対極になりはしないか。
「散々、良いようにやられたんだ。単に弑しただけじゃ詰まらない。アイツに最大限の嫌がらせをしようとしたら、誰も死なずに肩でも抱き合って、青空に向かって笑い合うくらいしなきゃ気がすまない」
「それは……何とも、素敵な意趣返しですね」
「でも実際は、誰か一人でも犠牲を出さずに、といかないのが現実だろう。戦闘の規模がロシュ大神殿と同じか、それ以上になるなら、誰一人犠牲を出さないなんて言えない」
「……はい」
「でも、出さない努力を諦めたくない。互いに庇い合って両方死ぬ、なんて馬鹿な真似をするつもりはないんだ。ただ、その望み得る未来を諦めたくないだけだ。その希望を掴む為に最善と思える努力を捨てない」
レヴィンは両手に力を入れ、痛みを感じさせない程度に強く握る。
ロヴィーサは話している間、一度も目を逸らさなかったし、手も離さなかった。
今はその目に力を入れて、真摯な瞳で見つめ返している。
ロヴィーサは顔を少し近付けて、有無を言わさぬ迫力で口を開いた。
「若様のお心は分かりました。私も、出来る事ならそうした未来を掴み取りたいと思います」
「あぁ、そうだろう?」
「――ですが」
ロヴィーサが握る手の力が、そこで一層増す。
「己が身を一番に案じること、これは約束して貰います。そして、どうにもならないと思ったら、私やヨエルを見捨てる覚悟も、同時に持って下さい」
「……うっ」
「誰も失わない為に最善を尽くしたいと思うのは、私も同じです。でも、だからこそ、そこに耽溺して欲しくないのです」
「……あぁ」
「若様の理想はご立派です。けれど、理想の為に視野を狭めてはなりません。見捨てるしかない……あるいは、私が盾になるしかない。そうした見極めは、情を挟まずして下さい」
「そうしなければ勝てない……そうだな。それだけじゃなく、誰もを失う結果になり兼ねない、か」
まさしく、とロヴィーサが硬い表情で頷くと、レヴィンもまた硬い表情で頷く。
苦いものを無理やり飲み込むようにして、歪な表情で固く目を瞑った。
すると、額にコツンと何かが当たる。
そこには、同じく瞳を瞑ったロヴィーサが、自分の額を当てていた。
「私が必ず若様をお守りします。務めだからではありません。私がそうしたいから、そうするのです」
「……あぁ、頼りにしてる。共に行きて帰ろう」
「はい、必ず……」
お互いに握る手が、更に強く握られた。
単なる献身ではない、ロヴィーサの気持ちが知れて、レヴィンは更なる決意をする。
神々の力の一端を知って、ロヴィーサは自己犠牲の意思を更に強めたのだ。
そうさせない為には、レヴィンがより頼もしい戦士となるしかない。
互いに額を合わせながら、レヴィンは裁量の未来の渇望を強めた。
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