一つ解決するその横で その2
「まぁ、
そう前置きして、最初に口を開いたのはユミルだった。
相変わらず、しどけない体勢で座っていて、そこから寒々しい視線をミレイユへと向けた。
「どの口が言ってるんだ、って感じよね」
「いや、いいから、そういうのは……」
咎める様な台詞でありつつ、強い自覚も同時に持っていたミレイユは、顔を背けて視線から逃げる。
だが、ミレイユにも言い訳――それなりの言い分もあった。
この一ヶ月、二日と置かずに訪れる珍客のせいだ。
そしてそれは、今も目の前でいそいそと、碁盤を持ち運んでいる姿から、どういった原因かも推し量れる。
オミカゲ様は空気も読まずに、童心に帰った笑顔を浮かべては、碁盤の前に陣取り手招きしていた。
ミレイユが暇に飽きて、とうとう碁石を握ったのが相当嬉しいらしい。
だが、叱責に近い咎めを受けている原因に、そのまま乗るのは癪でしかなかった。
ミレイユは声を荒らげ、それこそ原因そのものに叱責を浴びせる。
「お前もさっさと帰れ! 遊ぶつもりじゃないのは分かるだろ!」
「何を言う。碁神たる我の娘が、いつまでもルチアやユミルに、後塵を拝しておる訳にも参るまい……! そなたは二人より覚えが遅かったのだからして、追いつく為には、より強い相手と打つのが……」
「だから、そういう事する時間はもう終わったんだ。レヴィン達が形になって来たと言うなら、こっちも本格的に事を構えなきゃならない。さっきから、そう言ってるだろう?」
そして、ミレイユの言い分としては、そうして遊びに付き合わされていたから、ろくに考える時間も持てなかった、というものがある。
その上ミレイユ自身、負けず嫌いな所があった。
だから、つい熱が入ったのも事実だが、そろそろ切り替えるべき時期なのだ。
しかし、オミカゲ様は悔しげな顔をさせて、碁盤の表面を手でなぞる。
「そうは言っても、そなたの為に用意した物なのだぞ。我のお古ではあるが、道具は使われてこそ意味がある。そなたも、道具には敬意を払ってじゃな……」
「何が敬意だ。単に、お前が遊びたいってだけの話じゃないか。大体、お前の使い古しなんて、誰が喜ぶ」
「まぁ、そなたは喜ばぬかもしれぬな。だが、大抵の者には喜ばれよう」
それは過言ではなく、事実であったろう。
オミカゲ様は雲上人として、文字通りの神扱いだが、同時に地に足を降ろして生きる神でもある。
他の神社、他の宗教と違い、形式上というのは存在しない。
神に仕える行為や、神へ供えるもの全て、実在する相手に関わることなのだ。
その身に纏う
年に二回、衣替えの季節に奉納祭があるので、その度に新しく繕い直されるのだが、さりとて古い神御衣も捨てられる訳ではない。
細く裁断された後、御守りの中に封入され、販売される。
小さな切れ端とはいえ、神が実際に、その身に纏った生地だ。
大層ありがたがられ、誰もが喜ぶ縁起物として扱われる。
それを考えれば、オミカゲ様が使い古した碁盤は、多くの者からすれば垂涎の物品に違いなかった。
「まぁ……、誰が喜ぶって言うのは、愚痴みたいなものだ。真面目に回答されても困るが……、待てよ? もしかして、これって結構な値打ち物なのか?」
「どこか小市民な所が抜けぬよな、そなた……。考えてもみよ。我の使う物品が、安物である筈なかろうが」
「それは……、そうなんだろうが……」
周囲へ少しでも目を向ければ、嫌でも気が付く。
神処の至る所に職人の手が入っていて、安物で済ませている部分など一つもない。
調度品など最たるもので、鶴と梅が描かれた見事な花瓶は、それ一つで家も建てられそうだ。
どこか感覚が麻痺していて、ミレイユ自身、今の今まで気にも留めていなかったが、碁盤一つとっても同じようなものだと、気付くべきだった。
よくよく見てみると、碁盤は脚付きで重厚、表面には光沢もあって気品がある。
良し悪しを正しく判断できずとも、安物でないのは確かな様だ。
「因みに、興味本位で訊くんだが……」
ミレイユは眉根に皺を寄せ、一拍置いてから、碁盤を指さして尋ねる。
「それって幾ら位するんだ?」
「また、みみっちぃ質問を……」
そう揶揄しながらボヤいたのは、呆れた顔を隠しもしないユミルだ。
向けてくる視線は、呆れを通り越して蔑みすら混じっている。
しかし、ミレイユはそれに不満をぶつけずにはいられない。
「いや、強く碁石を叩きつけて、少し碁盤を傷付けたりしたし……。それだって、お前が挑発するから……!」
「いやいや、下手な打ち方する方が悪いんじゃない。敗着を指摘しただけでしょ?
右辺にばかり気を取られているから……」
最初の質問を捨て置いて、口論に発展し始めたところで、オミカゲ様は声を上げて笑った。
ミレイユが付けたと思しき傷を指で撫で、多少の凹みを確認する。
本気で強く打てば、碁盤の方が二つに割れていた筈だ。
それが小さない凹みだけで済んでいる時点で、相当に力加減した上での事と分かる。
言われて初めて気付く程度の凹みだが、それでも傷には違いなかった。
だが、オミカゲ様は全く気にしておらず、やはり上機嫌な姿勢を崩さない。
「別に傷ぐらい、どうという事はない。道具は使えば傷がつく。摩耗する。そして碁盤とは、そうして育てる物でもあるのよ」
「育てる……? 傷が付くほど良い碁盤になるのか? 確かに、使い込まれた物品ほど、価値が高まったりするものだが……」
「それも間違いではないが、ちと意味合いが違う。天面の目盛りは、使っている内に削れ、薄くなってしまう。碁の場合、特にそれが顕著だ」
「あぁ、丁度線が縦横に合わさる点に、碁石を置くからか」
然様、とオミカゲ様は頷いて、指の腹で触れば分かる程の、僅かな目盛りの上を撫でた。
「目盛りが薄れ、汚れが目立って来たら、これに直しを依頼せねばならぬ。手鉋による削りで天面を一新し、漆の太刀盛りで目盛りを引き直す。盤師と呼ばれる職人の手によって、新たな姿を取り戻させるのだな。その一連を『育てる』というのだ」
「へぇ、盤師……。それに、太刀……盛り? 真っ直ぐな線を、太刀に見立ててるのか?」
「いいや、その名の通り、太刀を用いて目盛りを引くのだ」
盤面の目盛りを作る技術には、幾つか種類がある。
その中でも、ヘラを使って行う『へら盛り』、ネズミのヒゲを使う『筆盛り』がなどが有名だ。
太刀盛りはそれらに比べ、漆の線がブレにくく、輪郭が明瞭、更に漆の盛り上がりが高い、といった特徴があった。
ただしその反面、高い技術と精神力が必要とされ、また最も難易度が高い。
だが、オミカゲ様と言えば刀の鍛冶技術を伝えた事も有名で、太刀とオミカゲ様は縁が深い。
献上される碁盤は、昔から太刀盛りと定められていた。
「僅かに反りの入った形状が、漆で直線を引くに相性が良い。それで江戸の時代に編み出された技法よ。美しかろう?」
オミカゲ様はどこか自慢気だ。
しかし、ミレイユには只の黒い線にしか見えていなかった。
他技法で線を引いた場合との比較も出来ないので、自慢気にされた所で伝わらない。
「まぁ、手間と技術が掛かっている事は分かった。『育てた』方が、木目が綺麗に出るとか、そういうのもあるんだろうな」
「然様。自然木を使っておるから、最初から綺麗な状態である方が少ない。むしろ、そうして直し『育てる』ことを前提に作られているようなものよ」
「さぞ高価になりそうだ」
「これ、そう下世話な話をするでない」
オミカゲ様の口調は咎めるものだが、本気で嗜める調子ではなかった。
次に思案する素振りで首を傾け、改めて碁盤の天面を撫でる。
「正直な所、これに値は付けられぬ。まだ誰の手にも渡っていない、新品の状態であろうとも、一千万は下らぬ代物だ」
「一千……!?」
ミレイユが目を剥いて碁盤に釘付けになった。
俗世どころか、現代の価値基準とは全く関係ない世界にいるミレイユだが、余りに高額な物品を粗末に扱った事を、今更ながらに後悔した。
渋い顔つきになったミレイユに、オミカゲ様はまたも笑う。
「代々盤師を襲名する、八代目寅吉の作であるから、新品でもその位になる。素材も二十年乾燥させた天柾に加え、直しも幾度かされており、その所有者が我となれば……」
「あぁ、分かった。それ以上、言わなくて良い」
「億単位は、平気で行きそうな感じがします」
ユミルの横で特に興味もなく見つめていたルチアも、余程の逸品と知って、唸る様な仕草で首肯を繰り返す。
オミカゲ様もそれには、一度だけ頷きを見せた。
「オークションともなれば、最低価格はそれ位であろうな。売りに出す事はなかろうから、あまり意味のない想定ではあるが……」
「うぅむ……」
ミレイユは腕を組んで、まんじりともしなくなり、碁盤を見つめては唸り声を上げる。
これまでぞんざいに扱ってきたのを、値段を知って更なる後悔が襲ってきていた。
そんなミレイユの様子を無視して、オミカゲ様は楽しげな表情で、碁盤の天面を叩く。
「ほれ、早う来ぬか。一人で碁は始められぬ」
「……いや、すっかり話に乗せられたけど、そもそもこれからの予定を詰めようって話をしてたんじゃない」
ユミルの指摘に、ミレイユはハッとなって顔を上げる。
「そうだ。まんまと嵌めらて話を聞いてしまった……! が、そもそも遊ぶつもりはないって言ってるだろ! あちらでどう動き、どう対処するか、その為の話し合いだ。邪魔をするな!」
ミレイユが一喝すると、オミカゲ様はショックを受けた様に身体を仰け反らせ……。
それから、その体勢のまま、ピタリと動きを止めた。
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