理屈と疑義の狭間 その1
「働く……のか、お前が? どうせ何も出来んくせに」
ミレイユは大いに胡乱な表情を見せ、疑う視線でオミカゲ様を見つめる。
何より、可能不可能以前に、働く姿とやらが明確な像として浮かび上がらなかった。
しかし、オミカゲ様は胸を張って自慢気に応える。
「無論、出来るとも!」
「どっから出て来る自信なんだ、それは……? 殺し屋でも始めるのか?」
「何故そうなる。物騒な発言で……我、ドン引きの極みじゃぞ。……お! 今のは中々、現代の若者言葉っぽくて、良かったのではないか?」
「……お前が何を目指しているのか、まったく分からん。本気で分からん。頭が痛くなって来た」
自慢気な顔を見せるオミカゲ様とは裏腹に、ミレイユはコメカミへと指を当てて、沈痛な表情で
心配そうに見つめるフラットロが、顔を擦り寄せては鼻先で頬を突付いて来る。
ミレイユはその頬や首筋辺りを撫で、安心させてやると、改めてオミカゲ様へと顔を向けた。
「なぁ、まさかとは思うが……。本気で一人の人間として――人間のフリして、世俗で暮らしたい、とか言い出さないよな?」
「言い出すつもりである。しかし、これが中々、受け入れて貰えぬ。隠居暮らしみたいなものなのにのぅ。大体、時の将軍家などでは、珍しくもない事だったのだが……」
「いや、それとこれとは全く別だろ」
そもそも、世襲して権力者が代替わりしていた将軍家と、寿命もなく、世襲もないオミカゲ様とを同列には考えられない。
彼らの場合、余生を静かに暮す事とは別に、権力から遠ざける意味合いもあったのだ。
何者にも代え難い神と、人の世の一権威とは、同列に扱って良いものではない。
「それにな、奥宮で過ごす女官やら巫女やら……、料理人や庭師なんかも含めると、百人以上がお前一人の為に仕えているんだろうが? それを捨てる事にもなるんだぞ」
「そう……、そうさな。それは確かに心苦しく思う。本人達も誇りを持って仕えておるし、家主不在となれば、彼ら彼女らも仕事の熱意を、向ける先も失うであろう」
熱心な信者にとって、神へ直接信奉できるだけでなく、直接奉仕できる事は生きがいであり、何者にも代え難い喜びとなる。
床を磨き、塵一つない廊下を維持できるのも、一重にその気持ちあってこそだ。
公務などでしばらく不在というのならともかく、まったく住処を変えるとなれば、特別上質な仕事内容の維持は不可能となる。
だから、黙って仕えられていろ、とミレイユは思うのだが……。
それと同時に、オミカゲ様の気持ちを何より理解できるのも、またミレイユだった。
そもそもとして、誰かに仕えられる事に違和感がある。
神の立場と状況がそうさせたのであって、求めた結果でもなく、生まれながらに得たものでもなかった。
「ま……、そうだな。どうしても外で暮らしたいというなら、マンションをワンフロア全て買い切る、とか現実的かもしれない」
「……む? 買い切ってどうする?」
オミカゲ様には意味する所が分からず、首をただ傾げた。
しかし、建設的と思える提案に、その表情には期待に満ちたものが浮かんでいる。
ミレイユは一つ頷いて、話を続けた。
「だから、部屋は沢山あるわけだからな。そこにお前を世話する者とかも住まわせて、それで……」
「多少マシになった程度で、それでは今と変わらぬではないか!?」
「――で、数日毎に奥御殿まで帰ってくれば完璧だな」
「そんな一人暮らしに何の意味がある!?」
オミカゲ様は大袈裟に否定して、それを身振り手振りで表現する。
それを五月蝿そうに見ながら、ミレイユは素っ気なく答えた。
「だってお前、どうせ生活苦に陥るって目に見えているしな。それなら最初から、見越した上で用意しておいた方が利口だ。日常と違った場所で少し過ごしていれば、そのうち飽きるだろ」
「何故そなたに、そこまで悪しざまに言われねばならん!? その上、どこまでも非協力的……! 我にはそれが信じられん!」
「そうは言われてもな……」
ミレイユとしても、意地悪く考えて答えている訳でもなかった。
ただ、よく知るからこそ、現実的な視点で見ているだけなのだ。
「どうせ一人で服だって着られないだろ? 世話係は最初から必要なんだから、素直に身近に置いておけ」
「一人暮らしをしたいと言っておろうが! それに服ぐらい、一人で着られる!」
どうだか、とミレイユは疑念の視線を変えないまま見つめた。
一人暮らしをしたいと言いつつ、その実の苦労など、甘く見ている節がある。
餓死する心配がないだけマシだが、どうせ一歩踏み出す度に問題を起こすと疑ってなかった。
その視線を受け取ってか、オミカゲ様は幾らかの反撃のつもりで、今度は逆に質問を飛ばす。
「……そなたの方こそ、どうなのだ。やはりあちらでは、窮屈な思いをしながら暮らしておるのか?」
「いや、割と普通に街に出て、気を遣われつつ過ごしてる。馴染みの喫茶店で、たまたま同席した者と茶を交わしたりとか……。私を神と知っていても、どう接して欲しいか知ってるから、他の者と変わらぬ対応というか……」
「ズルい! 絶対にズルいではないか! 何故に我とそなたで、こうも違いが生まれるのか!?」
「正論はお前には酷だろうが……。環境の違い……いや、前提からして違うからじゃないか……?」
今更言っても詮無き事だが、オミカゲ様はその信仰を生み出し、信奉される事から始めなくてはならなかった。
そして、その信仰という願力を求める必然性があり、それを決して蔑ろには出来ない前提があった。
ミレイユにとっても願力は必要で、そして求めるものには違いない。
しかし、神が見て触れられる存在だという認識でいる世界とでは、そこからして大きな隔たりがある。
神という存在を確固たる存在として認識させるにあたり、偶像を利用してでも信仰を集めなければならなかったオミカゲ様は、その理想像を崩すわけにはいかなかったのだ。
ミレイユの場合、初めから確固たる信仰心を向けられていたので、熱心な勧誘であったり、自らの土台を一から作り上げる必要も、最初からなかった。
オミカゲ様とは真逆と言って良い環境だ。
そうして現在、長い年月を経て作り上げられたオミカゲ様と、その信仰となる土台である御影神宮は、決して侵さるべからず聖域と化した。
それは物理的にも、そして精神的にも作用する。
今更それをなかった事や、捨てる事は出来ないのだった。
「我も喫茶店とか行きたい……! 何たらかんたらフラペチーノ、とか呪文を唱えて注文したい……!」
「……そうか」
「しかも、トールで!」
そう言ったオミカゲ様の表情は、何故か自慢気な顔付きだった。
専門用語を口にするのが楽しいらしい。
ミレイユは面倒そうに手を振ってから、その手を下ろしてフラットロの毛並みを指で漉く。
「分かった、分かった。買って来て貰え」
「違う! 自分で買いたいのだ! ジーパンとか、パーカーとか着て、普通の若者みたいに……!」
「お前が思う若者像って、そんな格好してるのか……? まぁ、叶わぬ願いを口にする権利くらい、神にだってあるしな……」
ミレイユはどこまでも真剣に取り合わない。
そうこうしている内に、盆の上に茶器を持った咲桜を始めとする女官達が、しずしずとした足取りで近付いて来た。
オミカゲ様は露骨に顔を顰め、ミレイユに憎々しく思う視線を向ける。
思惑としては、茶を持って来るより前に、説得を終わらせるつもりだったのだろう。
しかし、全てにおいて反応の鈍いミレイユで、それも台無しとなった。
オミカゲ様の側仕えとして鶴子が、ミレイユの側仕えとして咲桜が、それぞれ完璧な礼節を持って茶器を差し出してくる。
ミレイユはそれを首肯と共に受け取り、一口飲んで味と香りを楽しんだ。
流石、神に饗されるだけあって、爽やかで心地よい味は、舌だけでなく鼻梁まで突き抜け、心穏やかにさせてくれた。
片手で飲むミレイユと反対に、オミカゲ様は片手で茶器下から支え、もう一方の手で掴みながら、静かに傾けて飲んでいる。
ただ、横目で見てくるその瞳には、未だ恨みがましいものが含まれていた。
茶器から口を離したオミカゲ様は、表情を完璧に整えながらも、言葉の爆弾を放り投げる。
「鶴子や、隣で暢気に茶飲みしている者から、何か申す事があるそうじゃ」
「はい……? 御子神様から、ですか? 無論、お申し付け頂くことが御座いますれば、なんなりと仰ってくださいませ」
ミレイユが突き放した事を、相当根に持っているらしい。
どうにか了承を貰おうと無茶振りした形だろうが、さりとてそんな事されても困る、としか言いようがなかった。
「おい、嘘だろ……。まだ続けるのか」
「それだけ、我が意志は固い……! 神がそう簡単に諦めるなど、ゆめゆめ思わぬことだぞ」
「勘弁してくれ……。自分がどれだけ情けないこと口走ってるか、理解してくれよ。だいたい、独力でどうにかするのが筋だろ……」
そもそも、オミカゲ様が自分で了解を取れないことに、ミレイユがどうにか出来るはずもなかった。
折衷案など無いに等しく、ミレイユに投げ出されても、都合よくまとまるとも思えない。
飲み干した茶器を咲桜へ返し、じゃれついて来るフラットロの頭を抱えながら撫でた。
しかし、良案など浮かぶ筈もなく、ただ単純な疑問を投げ掛けるに留めた。
「一応、訊いておきたいんだが……。こいつを一人暮らしさせるのは、やっぱり駄目な方向か?」
「然様で御座いますね……。御子神様のご心痛は良く理解しておりますけれど、こればかりは……」
「
「そういった問題ではございません。ほんの少し、遊びに出る事くらいならば、こちらで幾らでも融通致します」
鶴子の皺が刻まれた目は伏し、その口元は悔しげに歪んでいた。
「ですが、
過保護とは思うが、単なる思い違いでない所に、根の深さが感じられる。
ミレイユも得心すると共に、今更ながら、巻き込まれたこの事態を面倒くさく感じていた。
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