笑止の沙汰 その8

「いや、なに言ってるんだ……。無理に決まってるだろ」


 しかし、してやったり、とするオミカゲ様の笑みと熱意に反して、ミレイユはどこまでも冷淡だった。

 日本国を守護し、日本の心とも言えるオミカゲ様が、奥御殿から外に出る所まではともかく、一人暮らしを始めるなど許容される筈がない。


「私が何を言って擁護と、宮中の人間が承服するとは思えない」


「だから、そこはそなたも神であるのだからして……! 神の威厳や徳を以ってな、鶴子なんぞを説得したり出来るであろう……!?」


「無理だろ、諦めろ。……大体、一人暮らし? お前、料理なんて出来ないくせに」


「出来るわ、出来るに決まっておろうが。そもそも、そんな事、そなたが一番よく知っているのではないか?」


 オミカゲ様とミレイユは最早、一心同体とも言えないし、同一人物とも言えないが、過去における認識において大きな違いはない。

 しかし、今はその過去が何より問題だった。


「お前が自炊していたのは、それこそ千年は昔の話だろ。……今更、新たに料理を始めるって? ブランクって言葉の意味、知ってるか?」


「馬鹿にするでない。それに料理ぐらい、初心者よりも上手くやってみせるわ」


「……じゃあ、カツオを三枚おろしに出来るか?」


「そ、それは料理初心者としては、随分ハードルが高いのではあるまいか!? 認められぬぞ、そんな指摘!」


 オミカゲ様は必死に首を振るが、ミレイユは全く取り合わない。


「今時の初心者ならば、そのぐらい出来て当然だ。言っておくが、私の世界じゃないぞ。この日本における常識として、だからな」


「……う、そ、そうなのか?」


「そこで即座に否定できないから、お前は駄目なんだ。そんな訳ないだろ。お前に一般常識がないって、これでまた一つ露呈したな。一人暮らしは諦めろ」


「ず、ずる……っ! 何たる悪辣か! そんなの無効じゃ、無効にせよ!」


 オミカゲ様が涙目で迫ってきて、ミレイユは腕を突き出し堰き止めた。

 顔に突き刺さった掌のせいで、オミカゲ様の顔がおたふくの様に歪んでしまっているが、それでも構わず迫ってくる。


「ズルいぞ、そなた! 絶対にズルい! それに協力すると約束したであろうに! 違えるのか、神と神との約定を!」


「未だかつて、これ程お前を情けないと思ったことはない。……何だよ、嘘だろ……。大体、何だよ……一人暮らしって」


「よう訊いてくれた」


 訊いたわけでなく、単にボヤいただけに過ぎなかったが、オミカゲ様が迫るのを止めてくれるなら、歓迎すべき事だった。

 アヴェリンなど今の事態について行けず、未だに呆けた顔をさせている。

 オミカゲ様は椅子に座り直すと、遠く空を見つめて熱弁し始めた。


「我は……、本当は海外に行きたいと思うておった。シチリア海など眺めて、温暖な風に髪を靡かせるとかのう。ちょっとしたバカンスなど楽しめれば良い、と……」


「はぁ……」


 ミレイユの返事はどこまでも素っ気ない。

 それだけでなく、呆けて見つめるばかりで、次第に視線にも棘が混じり始めていた。


「じゃが、鶴子はそれを許さんと言う! 我を籠の鳥にしておくつもりなのだ!」


「……当たり前だろ、なに言ってるんだ」


「そなたまで言うか! 我の味方ではなかったのか!?」


「味方だが……。いや、何だこれ……。冗談で言ってるのか? ちょっと本気で分からん」


 ミレイユは困惑させた表情のまま、首を振る。

 何もオミカゲ様を否定したいわけでもなく、今その口から出た言葉こそが全てだった。


 籠の鳥はともかく、そう簡単に海外へ行ける立場にないことは、当の本神が理解していそうなものだ。

 むしろ、それが当然だった。

 ミレイユは、オミカゲ様の真意を理解できず、何を言いたいのか分からず、返す言葉が見つからない。


「鶴子はならない、としか言わぬ! それは出来ぬと、貴女様ならば分かるはずと! 必要なのは肯定じゃ! 身軽になった我は、もっと色々な事をこの身で味わいたいのだ!」


「まぁ……、第二の人生を謳歌したい気持ちは分かる。ようやく降ろせた重荷だ。好きに遊びたい気持ちもな、相応にあるだろう」


「そうであろ!?」


 我が意を得たり、とオミカゲ様はその顔に笑みを咲かせた。

 そして、それまでの苦難と重責に対し、誰より理解が深いのも、またミレイユに違いなかった。


 理解は十分、そして後押しと協力にも惜しむつもりはないのも事実だ。

 しかし現実として、無理なものは無理、という難題もまた立ち塞がっている。


「だってお前、神が国の境を越えて外に出ようって言うんだぞ。……そりゃあ、止めるだろう」


「しかし、旅行で行くだけなのだし……」


「いや、政治的判断が絡むだろ、お前の場合は……。一国の王を歓待するより面倒な形になるし、赴く国で問題が起きれば、警備体制の不備とか色々……とにかく問題が噴出する。一つの国に出かければ、次はこちらの国にも、と声が掛かったりしそうなものだ……」


「そんな声は、これまでもあった筈であろうが」


「封殺できてこれたのは、一度として海外に出なかったからじゃないのか。前例とか慣例とか、そういうものを言い訳に断れた。……だが、一度でも赴けば、もう使えない。それはつまり、外交手段に利用される事にもなるんだぞ? 勝手気ままに、行きたい国へ、とはいかんだろうさ」


 宮中の女官が難色を示すのも、それが原因だろう、とミレイユは思っている。

 これまでオミカゲ様は、政治に関わって来なかった。


 それはオミカゲ様が、望んで取って来た立ち位置でもあった。

 日本国にいる確かな神として、その庇護を授けつつ、表立って立場を表明する訳でもない。

 人の世は人が治めるべき、という立場を決して崩して来なかった。


 だから宮中は、その意に反すべからず、と最大限の努力を重ねて来た。

 しかし、海外に興味ありとなれば、壮絶な歓待合戦が始まるのは避けられない。


「ぜひ我が国へ、とアピールが強まるだろうし、外務省はそれをネタに優位に立とうと利用するだろう。だが、宮中としては、そんな駆け引きに神を使われたくないだろうし、お前だってそれは同じだろう?」


「それは、その通りなのだが……」


「だったら、素直に国内で満足しておけ。それなら、全国観光地からのアピールだけで済む。大体、国内だってろくに出歩いていないんだろうから、海外なんてまだ早いんだよ。都道府県巡りでもしてりゃあいいんだ」


 そこまで説明しても、オミカゲ様は尚不満気だ。

 ミレイユが今した説明も、多分に予想が含まれていて、真実がどうかは分からない部分がある。

 しかし、オミカゲ様自身が即座に否定しないところを見ると、的外れな意見でもなかったようだ。


 そしてだからこそ、大きく反対意見を言えずにいる。

 ミレイユは、それならば、と更に一つ、大きな見落としを指摘した。


「大体、お前に戸籍なんてあるのか?」


「は……? 戸、籍……?」


「それがないと、パスポートが作れない筈だ。確か、そうだよな? 一人暮らしがどうの、と言ってたが、それにだって戸籍謄本とか、身分を証明するものが必要だろう。……どうやって準備するつもりだ?」


「ど、どうと言われても……のぅ。そういえば、我には戸籍やら何やら、そうしたものはない。ある筈がない……」


 オミカゲ様は自分の両手を見つめて、わなわなと震えている。

 日本人なら当然持っている戸籍だが、神にそんなものはない。

 一人暮らしをしたいという前に、制度がそれを拒んでいた。


「大体お前、金はどうするんだ。使える金なんて持ってないんだろ?」


「失敬な。金ぐらい持っておるわ」


「そりゃあ、財産となれば色々あるんだろうが、今は自由に出来る現金の話をしているんだ。紙幣なり、あるいは口座なり、そうしたものは持ってるのか?」


 これにはオミカゲ様も気不味そうな顔をして、無言のまま視線を逸らした。

 奥御殿には宝物庫などあるのだろうし、歴史的価値のある美術品などもあるだろう。

 値段を付けられない逸品なども、山とあるのだろうし、それこそ金銀財宝などあっても不思議ではない。


 それら全てオミカゲ様の私物であり、財産に違いなかった。

 しかし、自由に現金化できるか、となれば話が別だ。

 紙幣の現金など所持していないに違いなく、その手に持った事があるのかさえ疑問なものだ。


 ミレイユがじっとりとした視線を向けていると、俯こうとしていたオミカゲ様の顔が跳ね上がる。

 その顔には自信に満ちた表情があり、嫌な予感にミレイユの顔が歪んだ。


「そう、ならば働けば良い! 金がなければ働く。労働は国民の義務とも言う!」


「嫌な予感が当たったな……」


 ミレイユは今度こそ顔を歪め、そのまま顔を逸らしたい衝動に駆られた。

 しかし、この箱入り神さまを、このまま放置しておけない気持ちも湧き上がる。


 女官に説得されて終わった話だろうに、それを未だに諦めていないというのなら、どこかで騒動を起こすのは目に見えている。


 誰にも出来なかったというのなら、その引導をミレイユこそが渡してやらねばならなかった。

 そして、それが出来る権利と力を持つ者は、この場において、ミレイユ以外にいないだろう。


 ミレイユは一つ息を吐くと、僅かな望みを刈り取る為に、更なる詰問を開始した。

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